やっと感覚が日常に戻ってきました。
戸隠から帰ってきてまともに休んでいない。
昨日久しぶりにゆっくりと寝たらだいぶ体調が戻った。
一昨日、口内炎の話をしたがその夜、寝る前に歯磨きをして発見。
小さい小さい口内炎の子供ができはじめていた。
やっぱり~疲れてる・・・・(´_`。)と。
しかし今日見たら、消失していた。(感動)
私は自分自身をほめてしまった。エライエライと・・・・・(p_;)\(^^ )
自分の力をまた信じれるようになった。
先日も書いたが、、、どうしても疲労が溜まってきたり、ストレスを感じ始めて心身のキャパを越えると首頭に影響が出て、胃痛、口内炎という症状が出る。
頭痛、胃痛、口内炎この三点セットが私の小さい頃からの危険信号発信なのですね。
小学生の頃から、ひどく頭が痛くて吐き気を伴うことがしばしばあった。
給食は隣の木田くん(肥満児)が先生に内緒で食べてくれるから助かった。
給食を食べることができないほど頭が痛くても、とりあえずは授業が終わるまで踏ん張った。
フラフラしながら家にたどり着き、「ただいま・・・」とだけ言い、あとは何も言わず、二階の押入れの布団と布団の間にズリズリと入り込んでその中で、眠った・・・。
まるでサンドイッチの具材のようになり眠るのだ。
カラダが小さかったので、たたんである布団の中に私がうまって寝てることは誰にも分からない。
家族は遊びにでも行ったと思っていたようだ。
一眠りするとある程度の痛みは治まる。
そして夕刻になるとそこから這い出して何事も無かったように食卓についた(その頃はまだとりあえず正常に機能していた家族であった)
小さい頃から自分に起こった不具合は自分でなんとかするクセがあったようですね。
そして熱をよく出した。
幼稚園も休みがちで、小学校に上がっても扁桃腺を腫らして高熱を出し、よく休んだ。
(小児結核もやった痕がレントゲンに映っている)
長期に休むため二年生に進級できない可能性が出始めた。
両親はかかりつけのお医者さんに相談をした。
なんとか熱が出ない方法はないかと・・・・
で、出した答えが扁桃腺とアデノイドを切除しょうと・・・・・゚゚・(×_×)・゚゚・。
熱が出なくなると言われると私も従うしかない。
これがかなりのトラウマになっている。
40年も前の話である、なんと局所麻酔で切るのだ。
口から喉の奥に麻酔液の入った大きな注射器を差し入れ、ブスブスと喉の奥を刺して、麻酔液を入れていく。
それもイスに座った状態で口を開けたまま。もちろん意識は明瞭。
苦しいでしょう・・・・(・_・;)
て、同じく口からハサミを入れ、喉の奥の扁桃腺とアデノイドを順番にジョッキジョッキっと切っていく。
まるで拷問のようですよね。(麻酔をしているので痛くはありませんが、超怖いですよ)
一発で切れないのですよ、ジョキジョキ布を裁つように喉の肉片をハサミで切る感覚が今でも残っている。
扁桃腺2箇所、アデノイド2箇所合計4箇所です。
ジョキジョキと切って縫うを4回繰り返すのです。
無茶苦茶ですよ・・・・・7歳の子どもが我慢することじゃない・・・
そんなこと絶対しゃちゃあかん・・・・と今ならわかるが。。。。
しかし私は暴れること(動くことすら)も泣くこともなく、手術は終了したのです。
今なら大怒りで大暴れですよ(笑)(現在は覚醒した状態ではこんな手術絶対やりません。)
私を押さえつけるために、たくさんの看護師さんが待機していたが、誰一人私を押さえることはなかった。
手術後、私はお母さんの背中におんぶされて帰宅した。
帰宅後死んだように丸一日眠った(らしい)
これで完全に喉がブロックされてしまったのです。
ただ熱は出なくなり、それからは学校を休むことがなくなった。
よほど怖かったのでしょうね。無意識はもう熱が出せなくなってしまったようですね。
そして翌年、小学2の夏、虫垂炎の手術をした。
数日前からお腹が痛かったが、我慢していた。
ハイキングに家族で行くという日曜日の朝、お腹の痛みは激痛に変わった。
母親はお弁当を作っている・・・・・
私がお腹が痛いと言うことで、今の雰囲気を壊すの嫌だった・・・空の浴槽の中にうずくまっていた。
しばらくしたら良くなると言い聞かせ、空の浴槽の底に横たわり目をつぶった。
でも今回はだめな感じ、、、、、、痛い・・・手足が冷たくなって吐き気がしてきた。
この感覚・・・・今でも鮮明に思う浮かぶ・・・・思い出すと鳥肌が立つ。
母親に見つかる。
「なにしてんのん!!(#`ε´#)」
「お腹痛い・・・・(T_T)」
「あんたはいつでも出かける言うたらこうや!!ヽ(`Д´)ノ」と怒っている。
心の中で「そうかな・・・・言うたことあったっけ??」と冷静な私。(でも超痛い(_ _。))
でも顔が真っ青で、母親も尋常でないことに気がつき始め、私を浴槽から出し近所の内科医に連れて行ってくれた。
白血球が異常に高いから、虫垂炎かもしれないから手術のできるところに今から行ってくださいと。
突然に母親はうろたえ始めて、手が震えていた。
それからは大騒ぎ・・・・
その日に緊急手術となった。
破裂寸前でもう半日遅くなったら腹膜炎でえらいことになっていたらしい。
あとで母親が大怒りしていた。早く言え!と。。。。。(笑)
しかしその病院のドクターもナースも私のおとなしさにびっくりしていたらしい。
手術中に私は「あと何分で終わるの?」と聞いた(らしい)
虫垂炎は全身麻酔ではやらない、下半身麻酔なので意識はあるのだ。
そして手術中にゲボをしたらしいが、それも「吐きたい・・・」とちゃんと申告して、看護師さんにお盆を持ってきてもらってから吐いた。
この冷静さに驚いた・・・・とあとで母親に言ったらしい・・・・8歳と思えないと。
母親は緊張の連続で私の手術後3日目に倒れて、私のベットの横に入院となったのは笑えますけど。
どうしてこんなにすれた子どもだったのか、素直さの全く無い可愛げのない子ども・・・・・だったのか。
私にはおとりの部屋というのが物心ついた頃からあった。(ように思う)
その部屋は夢現の部屋なのですが。。。。「おとり」という子供がいたのです。(きっとそれは私です)
そこに入ればどんな苦しみからも乖離できる部屋なのですよね。(今から考えると)
その部屋の存在は様々な出来事から私を守ってくれた。
扁桃腺を切った時は完全に私はその部屋に入り込み、嵐が過ぎるのを堅く扉を閉めて待った。
だから微動だにせず耐えれたのだろう。
その後、死んだように眠ったのも、その部屋に入って出てこなかったという事。(痛かったから)
頭が痛くて押入れの布団の中に挟まって寝たときも、おとりの夢現の部屋に入って自分の身体を調整していたのだろう。
誰の力を借りるよりもその部屋のほうが不具合が解消されるということを無意識で知っていた。
その後もその部屋の存在は私を狂気の世界から守ってくれた・・・・
気が狂う事もなく、道を踏み外すこともなく、とりあえず見かけは一般人と遜色ない風情で現在過ごせているのも。。。。。このおとりの部屋のおかげである。
その時にはまったくわからなかった。
無意識でその部屋に出入りしていたから。
その部屋は本当に面白かった。。。。。そこでは別の人生がすごい早いスピードで展開されているのですよ。
最近はその部屋にはいることも無くなった。というよりもその部屋の扉がもうよくわからない。
どうしてか・・・・・自分で人生を選択できるようになったからですね。(多分)
そしてうるさいほどに「痛い」「やだ」「苦しい」「やりたくない」と言えるからだ。(笑)
できることと、できないことを選別できるから。
私はどうしたいか?
それを自分に問えるようになったからである。
もしかしたらおとりの部屋はもう無いかも。。。。です。
私の分身である、おとりちゃんもいなくなったかもしれませんね。
本当は自分を象っている鋳型の話を書こうと思って書き始めたのに、頭痛の話からこんな話になってしまいました。A=´、`=)ゞ
鋳型の話をまた明日でも・・・・