以前「許し」 について書いたことがある。


ペンシルバニア州のアーミッシュの学校で5人の女の子を殺し、自殺した男の事件。


犯人は子供達を縛り立たせて順番に頭を打ち抜いた。


5人の子供が射殺された。


殺人犯のロバーツには妻と子供三人の家族があった。


残された家族は本当に悲惨である。一生父親の罪を背負うことになる。


その土地にもいられなくなる。。。。


しかし殺された被害者の家族を含めたアーミッシュ達は殺人犯ロバーツの家族の為に募金を行い、家に招待したのである。


罵倒するために招いたのではなく、被害者と同じ立場であるとして殺人犯の家族を勇気付けた。


もし加害者ロバーツが生きていたら、同じ事ができたかというとそれはわからないが、ただかなり高度な行為であり・・・・不可能に近い選択を彼らはいとも簡単に行った。


偽善では決してできないだろう。。。。と。


巷の精神世界ではいろいろと「愛」だの「許す」などと軽く簡単に言うが、こういうことがわかっているのか・・・というようなことを書いた・・・


最近聞いた話ですが、このアーミュシュ達を思い出されるような、本当にきれいな心を持つ人物が日本にもいたことに感動を覚えた。


それはオウム事件被害者・河野義行さんである。


河野さんはオウム真理教(アレフに改称)による松本サリン事件の被害者でありながら容疑者扱いされた経緯を持つ人物である。


昨年サリン事件で被害に合った奥様が亡くなった。


14年間意識が戻らないまま天国に召された。。。


最愛の奥様が被害に合い、自分自身もサリンの後遺症に苛まれながらも、犯人扱いされ警察に拘留され、地獄のような取調べを受けたという。


詳細は河野さんの書籍を読んでみてくださいね。


河野さんは客観的で冷静な目を持つ人物で著書の中でも麻原彰晃のことを「さん」付けで呼び、オウム真理教の被害者にしては珍しく、死刑に対して慎重な考えを持っている。


河野さんは事件があってから現在まで、一貫して感情的に怒りをあらわすことはなかった。


それだけでも尊敬の目で見てしまうのですが、これまた私の価値観を揺るがすようなことを河野さんはやっていたのですね。


河野さんは事件に関与した元幹部と交流しているのです。


松本サリン事件でサリンの噴霧車を製造したとして、懲役10年の刑が確定し、2006年に刑を終えた藤永さんという方と交流しているのだそうだ。


藤永さんは獄中で河野さんの手記を読み、お詫びをしたいと思っていた。
出所後友人を通して、河野さん宅に奥様の見舞いに訪れた。


河野さんはこう言われています。


 「加害者だからうんぬんという感情は持っていません。やってしまったことはしかたない。元には戻らないのですから。反省する、しないというのも、その人の心の中の問題だと思うんです。自分のしたことは自分で総括するしかない。それが私のスタンスです。今まで私は誰に対しても、会いたいと言われれば、できる限り会ってきました。藤永さんも、私に会っておわびしたいとやって来た。その思いを私は受け入れたわけです」


涙が出ます。


初めての面会で2人はいろいろな話をしたらしいです。。


河野さんは


「社会復帰をした時に役に立つようにと、たくさんの作業をしたそうです。中でも庭木の剪定(せんてい)はおもしろくて資格を取ったと言っていました。そうしたら、たまたま同席していた友人が『じゃあ、ここの庭の手入れをすればいいじゃない』って」


以来、藤永さんは現在住んでいる中国地方の町から月1度ほど長野県松本市の河野さん宅を訪れ、庭木の手入れをしている。


河野さんが留守だと、教えてもらっている置き場所から鍵を取り出し、玄関から入って作業を進める。

時には泊まっていくこともあるという。


もちろん河野さんの了解を得てのことだ。


サリンによって河野さん夫妻が倒れた、その家で・・・・・。


無尽蔵な寛容さに驚くばかりです。


そして河野さんは言います。


「普通の人としてお付き合いしてますね。今は友達のような感じかな」

 「だって日本は法治国家でしょう。罪を犯せば罰せられる。でも刑期を終えて出てくれば、それ以上の不利益は受けないと、法律で決まっている。そうであれば、普通の人として接するのは、当たり前のことじゃないでしょうか」

 
記者は河野さんに向かって言った。


「事件の被害者と加害者。何のわだかまりも心に持たずに接することなどできるのか。
頭では理解できる。しかし、感情的には受け入れられない。」


そう問うと、河野さんは軽くうなずき続けた。


「何度も死にそうな目に遭うとね、命には限りがあって、どこで終わるか分からない、人生八十いくつまでというのは錯覚だと分かる。3年後に人生が終わるとして、3年間恨んで憎んで過ごしていたとしたら、そういう人生はその人にとって幸せなのかなと思うわけです。楽しんでなんぼの人生の方がいいじゃないですか。だって、人は間違えるものなんですから」



だって人間は間違えるものなんですから


大きすぎますよ。。。器が・・・


そして奥様澄子さんについても・。。。


昨年8月、事件依頼14年間意識の戻らぬまま、60歳の生涯を閉じた奥様。


河野さんは松本市を離れるとき以外は毎日、澄子さんが入院している病院へ行き、音楽をかけ、手足をマッサージしながら語りかけてきたのだそうだ。


 「私は妻を選び、妻は私を選んだわけだから、お互いに守っていくというのは大事な義務だと思っているんです。妻がいることで、逆に自分たちが励まされてきた。ですから、大変だと思ったことないんですよね」


余命90日と告げられたのは昨年6月のこと。


会いたい人は生きているうちに会ってほしい。そう思い、余命90日をマスコミに公表した。その代わり、葬儀には誰も呼ばないことを決めた。


「見送る人すべてが妻だけに心を向けられるように」と。


 「3日間、ひつぎの横で寝転びながら音楽を聴いていたんですが、何となく、家の中が幸せだなあという雰囲気でした。自分なりのやり方だったけど、亡くなった人の魂がこの世にいるという50日間、家を空けず、毎日花を供えてきっちり送ることができました」


 ダメだと思うことは何度もあった。7年前には遺影も用意した。それでも、絶対治ると信じてきた14年だった。


 「治ると思うことが薬だという思いがあった。あきらめた時点で、わっと弱って死んでしまうだろうなって。だから、常に『あなたが必要なのよ』と言葉に出しました。『あなたにとってはつらいかもしれないけど、家族のために生きて』って。それで14年間も持ったんだと思う。亡くなって焼いたときに、骨がスカスカで、フワッと入れても骨つぼの6割ぐらいしかなかった。体の使える栄養を全部使って、この人は死んでいったのかなあって思いましたね」



 「命があるというのはやっぱり貴いということ。妻は14年間、話すことは全くできなかったし、動くこともできなかった。それでも家族を大きな力で支えてくれた。人が生きるということは、そこに命があるということ。命は本当に大事なのよということを訴えています」


河野さんの中で事件はどう総括されているのか。


河野さんは淡々と答えます。


「妻が亡くなった時に、我が家での『事件』は終わりました。私にとって松本サリン事件は、最初の1年は、社会から抹殺されそうになったところから自分や家族を守り、その後、妻の回復を待つところへシフトした。自分の中では、事件が終わるのは妻が回復した時か、亡くなった時と位置づけていましたから。マスコミがどうした、警察がどうだったというのは、私の中では、はるか昔に終わっている話です」


 そして繰り返した。


 「人は間違うものなんです。だから、それぞれが自分の中で自分の人生を総括するしかないんですよ。残り何年か分からないけど、ワクワクドキドキ、楽しい人生がいいじゃないですか」


人間とはここまで心をきれいにすることができるのだと。。。。。。


脱帽敬服・・・・


日本にもいたんですね。。。。。こういう方が。



ほとんどの人間は、物事を好きか嫌いかで判断しています。


もちろん私もそうですが、、、、


だから真実を見落としてしまいがち。


例えば自分の欲求を満たしてくれる人はいい人で、自分の欲求を阻害する人が悪い人となってしまう。


結局、善悪も自分の好き嫌いで判断している人が殆どです。


河野さんはそういう世界から早々に離脱して、真実の眼を持っていると言えるのでしょう。。。。