先日「おくりびと」がアカデミー賞をとり、納棺師が脚光を浴び、ある意味「死」がブームになっているように感じるのです。


ちょっと大騒ぎしすぎなのでないかと躊躇してしまう感が私にはある。


いつもそうだが、日本という国は一つのことを掘り下げて騒ぎ過ぎる。


一極集中加熱沸騰・・・・そして一気に冷めていく・・・・・


本当に危なっかしい。


死というものはブームになるものではなく、いつもそこにあるものです。


死が曲解され、余計に死が架空の物語の中だけの存在になってしまい遠のいてしまうように感じるのです。


死生観が湾曲されてしまう・・・・・


人間は死亡率100%の生き物であるにも関わらず、死はテレビの中だけで起こるものだと錯覚しているフシがある。


それは死をブームにしてしまう死生観が象徴している。


去年ブームになった「千の風になって」という歌のヒットを見てもそう思うのである。


アメリカの9.11のおりに詠み人知らずで歌い継がれた、この歌の詩の要旨は「私の墓の前で泣かないで下さい、そこには私は居ず、千の風になってあなたのそばにいるから」ということになっている。


これはあくまでも自分にとっての死ではなく、生きている自分の心の癒しとして歌っているものである。

あくまでも「生」がベースになっている。


生きている自分が主役の歌なのである。


私が好んで読むメメント・モリの藤原さんはこの「千の風になって」の歌に対して下記のように言っている。


これは生き残った人間が自らを癒し、気持ちよくなるためのひとりよがりな詐術(死者の存在と死の曲解)であったとしても、たとえば般若心経に唱われる生命というものを冷徹とも言える容赦のない目で見つめることによってはじめて生じる空(くう)のこころ。


そしてその空のこころがもたらす悟りとはほど遠い。つまりまやかしの死生観であり、歌というそよ風に乗って人をたぶらかす、やわらかいカルトなのである。



私もそう思う。


それと同じブームがおくりびとと重なってしまうのである。


せっかくのいい映画・・・・世に出てしまうとどうしても方向がぶれてしまうのは致し方ないことなのだろうな・・・・


納棺師というのはきっと東北地方にある慣わしなのかもしれません。


都会では病院の看護師さんがみんなやってしまいます。


自宅で亡くなった場合にはおそらく、訪問看護師さんが行うのではないでしょうか・・・・・


私もずっとやってきましたから、納棺師という仕事があるということは最近まで知りませんでした。


私がいたホームレス専門の病院では亡くなっても引き取る人はいません。


もし見つかって、電話を入れると怒られたりしました。


勝手にしてくださいということですね・・・・・適当に処分してくださいと言われたこともあります。


犬猫と同じです。


それぐらいなことを彼らは家族にしてきたのかもしれませんね。


誰もいない病室で息を引き取り・・・簡単な死後の処置をし霊安室で寝台車を待つ。


白装束ではなく、病人が着るような柄ガーゼの寝巻きを着せて白い金糸の刺繍の入った布をかぶせる。


この布は使いまわし・・・・・


斎場の順番がきたら病院の霊安室から直接、斎場に向かい荼毘に付される・・・・


全部税金でまかなわれるが。。。中々わびしいものがある。


作法もあったもんではない・・・・


でもいつも思う。。。。魂のない亡骸を触っていると・・・・・もうこれは人ではないのか。。。どこから人でどこから物なのか・・・・


あんなに険しい顔をしていたのに・・・・・魂がなくなるとどうしてこんなに穏やか表情になるのだろう・・・・

心があるということは、こんなにも辛いことなのかと・・・・・


いつもいつも私は考えていた。


でも結局はわからなかった。


たぶん死ぬということは生きている人のものなのですね。。。。きっと