フリーアナウンサーが近所の港区海岸で自殺したらしい。
テレビに映し出されていた現場は、私が夏になるとよく散歩にでかける場所だった。
とっても美人で性格のよさそうな女性に見えた。
まあ一般的な意見を言うと、死ななくてもよかったのに・・・・・
こんなにキレイにこの世に生まれ出てるわけだし、収入も普通以上にあり、お金にも困ることもなかっただろう。
生きていくにあたり、基本条件のハンデが二つも免除されているのだから・・・・・・ハンデがない分、楽なはずだと、、、、他人は勝手に言うが本人にはのっぴきならない事情があったのだろう。
まあこういうことが冷静に分かれば、死なないだろうから一般論は通用しない。
しかし自殺する人は死んだらすべてが終わり、楽になるという前提があって死んでると思うのですけど・・・・
それって何を根拠にそう信じているのかと・・・・疑問に思うのです。
ココロが病気だったから考えられなかったのだろうし、たぶん何か得体の知れないものに乗っ取られてしまっていたのだろう。。。。
少なからず私も夜中に、恐ろしく不安に襲われることがある。
意味もなく不安で不安でどんどん妄想が膨らんで、あるときは人を恨み、あるときは自分を恨み、人生に絶望する。
そんなとき、「またきた!」と思う。
その得体のしれない不安感に襲われた時は、じっとしていたほうがいい。
過ぎ去るまでじーーーーっと息を潜めていないとその挑発に乗るとえらいことになる。
人はやり過ごすしかないような悲しみや寂しさを皆、持っているような気がするのです。
だからココロが乗っ取られている感覚がちょっとは分かる・・・・
私は小さい頃から死にたい人だった・・・・
でも考えた考えて考えた。
苦しみの原因を考え、なぜ私は苦しいのかを考えた。
幸いに私には自殺した母親がいる。
死にたくても、母親と同じことをするのがなだか憎憎しくてできなかったし、「私と一緒やん!」とあの世で、母親に言われるのが悔しいし・・・という気持ちが
笑い話みたいだけど、これは本当だ。
私は生きたでぇ~って言ってやりたいでしょ。それにもし母親が成仏していなければ、私が大往生したときに一緒に涅槃に連れて行ってあげようと思っているので、今から私はその準備をしています。
(どんな準備かは秘密です)
また話が脱線してしまいました・・・けど。
言いたかったことは、自殺があかんと言っているわけではないけど、死をもってすべてが終わるとどうして言えるのか、死を選択することで自分は何から逃げたのか、それぐらいは自分のことなんだから考えてみたらどうかと・・・
死んで楽になるのか?誰もわからない。
死んで楽になるというのは、たんなる思い込み。
確かに死んで楽になるかもしれない、でも違うかもしれない・・・・取り返しのつかないすごい賭けに出たのもですね。
昔、友人のしぶりんと話をしたことを思い出した。
しぶりんは40歳という若さで子宮ガンで死んだ。ガン発覚から4ヶ月というスピード死亡。
詳しくは私のブログの友人カテゴリーでどうぞ・・・・
東京に来てからの初めての友人で、東京で個人的な付き合いをしたのは後にも先にもしぶりんだけだった。
家にもよく遊びにきた。
私はよく彼女に「死にたい死にたい」と漏らしていた。
彼女も私以上に悲しみや苦しみに乗っ取られていたし、それに勝る「怒り」もたんと胸のうちに忍ばせていた。
私は彼女に聞いた。
「しぶりんは死にたくないの?」と
しぶりんは言った
「死んでも楽にならない気がする、今の格段変わらないかも」と
そうです、彼女の中の設定には楽になるという設定がないから、死んでも楽になると思えない。
彼女のココロの暗闇は私の想像を超えていた。
私の設定にはまだ、死ねば楽になるような天国のイメージがある。楽しいとかうれしいとか、気持ちいいとか・・・
だからそっちに行きたくなる。
私はしぶりんよりもまだまだ余裕があり、悲しみのレベルは低かったようです(笑)
彼女の悲しみのレベルはかなり高い所にあり、自分で死ぬこともできないほどに縛られていた。
だから病気になって死んでいった。病気は色々な意味がある。変化していくための仕掛けと、死ぬためのものと。
しぶりんは将来に希望(天国にも希望をもてないのだから)をもてずに死を選んだ。
ちなみに私はもう死にたいと口にはしていません。
年をとっておばちゃんになるということはすばらしいことですね。
どんどん怖いものがなくなり、あつかましくなってきました。それと同時に生きるのが楽になる・・・・・
おばちゃんには自殺は似合いませんし・・・