早い時期での中絶なら、30分程度の手術で数時間横になれば帰ってこれる。しかし今回、日美子さんが受けた手術は大変であった。


子宮口を広げる処置をして、子宮の中に風船を入れて生理食塩水で膨らませる。そして陣痛促進剤を投与し、人工的なお産を作り出すのである。


このゴム風船は子宮に胎児が大きいと勘違いさせるために使われるのある。


丸2日かかり、夜中に胎児が出てきた。女の子であった。


翌々日退院、彼女は自分の家に帰った。全てが終わった。


そう日美子さんと彼の関係も、そして私と彼の関係も終わったのである。


日美子さんは私にお礼だといい、自分の会社のハンカチと靴下をプレゼントしてくれた。それから一度も彼女とは会っていない。


ただ彼女は長年、分かれを繰り返していた、一般男性とすぐに結婚したらしい。手術後の面倒を見たのはその男性だったって・・・・・。


実は頭が弱い風だった彼女はとっても強(したた)かな女だったのである。


彼女自身この恋の代償は大きかったが、恐らく腐れ縁の男性との結婚を踏み切るための布石だったのだろう。


私はこの後もしばらくは彼と暮していた。しかし関係性は悪化していて、もう修復不可能な状態であった。彼はより一層またヤクザの道にまっしぐらだったし、私は看護の道にまっしぐらであった。


正直な所、別れる時がくるとは毛頭考えていなかった。あの頃の私はかなりのガキやった・・・・


まあとにかくとってもとっても寂しかったことだけ覚えている。


実家に帰ることも考えたが今更帰る気持ちにもなれないし、看護学校や勤務地から遠い実家に帰るのはこれからの通学にリスクがあった。それに結構心が荒んでいて、家族と暮す気持ちになれなかった。


私は一人暮らしを決めた。今から思えば帰らなくて正解だったかな・・・・


私はアパートを探し始めた。


そして西成区萩ノ茶屋にワンルームを見つけて引越しの準備を始めた。彼は殆ど家に帰ってこなくなった。


そして私は彼と暮した家を出た。


どうして西成だったのか・・・・理由はないけど、引っ張られるようにこの土地にやってきてしまった。


一人暮らしを初めて、途端に生活が困窮した。今まで彼が生活や学費の面倒を見てくれていたのだから、それは仕方がない。


でも若いってすばらしい。


そんなことあまり考えなく、自前の「大丈夫精神」が勝手に発動して、不安に襲われる事もなく、独り立ちしてしまった。


私は生活の為、夜も仕事をするようになった。


どうせ1人やし・・・・と、朝病院・昼学校・夕方病院・夜ホステス


この生活は看護学校を卒業するまで続いたのである。


後日談であるが、実は彼も私と別れた後すぐに結婚した。彼は三又をかけていたのだ。


ヤクザの女の中の女と言えるぐらいの肝の座った女性と結婚したのだ。もちろん日美子さんと時を同じく妊娠もしていた。女の子が生まれたらしい。


まんまと私達は嵌められたのである・・・・(笑うしかない)


しかし私は彼のお陰で、あの闇が巣食う呪縛の家(実家)から出ることができたのである。


私も日美子さんと同じ、この恋の代償は大きかったが、家を出ることができたこと、そして看護学校に行けたこと、これは彼からの贈り物だと私は思っている。


今ではありがたや~って感じなのですわ音譜