最近思う事がある。毎日、様々な事が起っている。


その現象に逐一反応し批判し拘り、自分の意見を主張している話を聞いたり見たりすると、違和感を覚える。


例えば同級生を殺してしまった話や自分の母親に毒物を飲ませて殺そうとした話、警官を刺した話、ゴミ屋敷の話、医療問題、年金問題、政治的な問題などなど、特に一般的に誰もが異議を唱えることができない確固たる正論がある場合には、その正論を元に自分の主張を振りかざす。


人を殺すことを推奨しているわけではない。理不尽なことに憤りを感じることが悪いと言っているわけではない。もちろん何を思っても、何を言っても許されるのが、この世の中である。


神様は寛容だからね・・・


しかし私達第三者はその当事者たちの何を知っているというのだろうか。


その物事の裏の意味を少しでも感じると、だれも何も言えなくなるのではないか。だからと言って発言しないということでなく、そういったことを踏まえた上で話をすることが大切なのではないかと思うのだ。


それぞれの人間が織り成す、絡み合った綾を一つの正論で片付けるには、あまりにも単純すぎていないだろうか。


ただ批判するだけでなく、その裏の意味を感じる客観性を持つ意見ならきっと安心して見てられるし、聞いてられる。そんなことを思う今日この頃である。



また明日・・・・・