オトンチキとは、頓痴気(とんちき)のことである。辞書を開くと、「ぼんやりしていて、気の利かないこと。とんま。間抜け」などと記されている。そんなに酷い意味の言葉なのに、丁寧にもトンチキの上に“オ”をつけて、オトンチキとは、あまりにもふざけていると思われる方もいるかもしれない。この“オトンチキ”という言葉は、私が子供のころ、東京ではよく使われていたが、いまではあまり使われていないらしい。口げんかなどで、「このオトンチキ野郎!」などと言い合ったものであるが、最近ではさっぱり耳にしなくなった。
だが、ここに出てくる「オトンチキ」はそういった意味ではない。驚くべきことに、人の名なのである。いま、その人はいない。そして、オトンチキを覚えている人もいないだろう。もし、いまでもあのオトンチキを覚えている人がこの日本にいるとしたら、それはこの私と、あの東京大空襲のとき燃え盛る炎の中からオトンチキによって助け出された川田早苗、木山順子、小川英夫の三人であろう。
しかし、おそらくこの三人にしても、オトンチキのことは覚えてはいまい。それどころか、その名前すら知らないままだったのかもしれない。まだほんの三、四歳の子供であった彼らが、命を助けてくれた人の名を尋ねたはずもないだろうし、ましてはあの激しい空襲の最中である。生き延びるのが精一杯であった。空襲の終わったあとにしても、あの混乱状態では、誰しもが自分のことに手一杯で、その名を教える余裕など、私にもまったくなかったのである。でも、たしかにオトンチキという名の人物がかつて日本にはおり、そして人を救った英雄であるのは、疑う余地もない。そして、それを覚えているのも、おそらく、もうこの私だけだろう。