アウラ教養の森、京都、亀岡、自分磨き、知のトレーニングジム、おとなの学校 -2ページ目

アウラ教養の森、京都、亀岡、自分磨き、知のトレーニングジム、おとなの学校

「教養」とは、自分以外の考え方をどれだけ身につけられるかで決まります。おとなのための自分磨き、「教養の森」のスタートです。

アウラ学びの森知誠館では、毎月第一水曜に「学び場」という活動を実施しています。







ひとつのテーマをめぐって、多様な参加者が議論し合うという学びの形を目指しています。

そして、その議論の中で生まれた新たなテーマについて、その道の専門家の方をお呼びし、問いを投げかけてもらいます。

いわば、「数珠つなぎ」のような学びの場になっているんです。







これまで色々なテーマで議論を重ねてきました。

そして今回は、「若者支援をめぐる社会包摂と学び直し」がテーマとなりました。







神戸国際大学の居神先生をお招きし、若者支援をめぐる社会包摂や学び直しについての基本的な考え方をお話いただきました。





議論の中心となったのは、「参加」という概念についてです。







「参加」とは、「当事者自身の主体的な参加」という意味なのですが、参加者のひとりからこんな問いが投げかけられました。


─当事者が主体的に参加していると思っていても、実は様々な権力に巻き込まれてしまっていたという歴史もあるのではないか?


─それを踏まえるなら、ただ「参加」することを良しとするのではなく「参加して何をするのか?」が大切ではないか?








これが議論の呼び水となり、その後それぞれの参加者が、自分の文脈で「参加」について考え、議論が深まりました。







この場でどんな議論が展開していったかというのは、言葉にするのが難しいのでこの辺にしますが

私が面白いと思ったのは、この場での議論が、とてもアカデミックな内容でありながら、どの参加者も置き去りにならない議論になっているというところです。







言い換えれば、どんな議論であっても参加者が自分たちの立場からそれについて考えるので、それぞれのレベルに応じて議論に参加することができているということです。







そして、そこではこんなことも起こります。

「自分では言葉になっていなかった思考が、別の誰かによって言葉にされる。」







自分とは違う経験を持っている他者、自分よりもそのことについて専門性の高い他者がいることで、それは加速します。

そして、それが先ほどの議論の中でどんどん起こっていくと…

今までの自分のレベルでは見えなかったものが見えたり、言葉にならなかったものが自分のものになったりするんです!!







つまり、この学び場は「参加者同士がお互いをちょっとずつ高め合う」ような場だということです。

これはあくまで私個人の感想なので何とも言えませんが…







とにもかくにも、毎月1回面白い学びの場が展開しております!

次回は12/4(水)の18:30~21:00です。

もしよければ一度遊びにきませんか?