ある理想を実現する。それによって社会的なコストが膨大に掛かったり、仕組みが理解不可能なくらい複雑になる。結構多いと思いませんか。理想を実現したい。それはわかる。しかし、理想を叶える土台があるかどうか。それが大切である。例えば、直接民主主義が理想だと言っても、仕事を休んで市民全員が議会に集まると社会が回らなくなる。したがって、選挙を行うことで間接的な民主主義を取っている。これが、まあまあの落としどころであるまいか。
完璧な国防システムを作ろうをすればどうなるか。陸海空軍はもちろん整備する。加えて、攻撃ミサイル防衛システム、核シェルターを持つ。シェルターで助かっても、食料や水がなければ生き残ることはできない。食料自給率を100%にする。石油の備蓄をどうするか。シーレーン防衛に原子力潜水艦を配備する。このようにしていけば、理想の国防システムかもしれない。しかし、こんなことを止めどもなくやれるだろうか。どこかで線引きして、諦める。ミサイルを打たれた場合は、命を諦める位に腹を括らないと国家予算を国防費に全て使うことになりかねない。自分だけでなく、政府や何かの相手に、完璧を全てを求めるのはよそう。それが無理だと承知し、むしろ軍拡競争になると知っているから、専守防衛、非核三原則、防衛費はGDP1%以内などの線引きの知恵があったのではないか。すなわち、現実解を解としたのではないか。軍事の専門家ではないが、家計を考えればわかる。
国連の子どもの権利条約に批准したからと言ってそれを前にして、子の最善の利益を求めようとして、共同親権、面会交流(親子交流)を際限なく実現しようとすれば、無理が生じる。高葛藤、DV被害、虐待などが生じる。裁判にコスト、生活にストレスが掛かる。掛かるだけでなく、実現すれば幸福になれるという保証はない。裁判で解決できるかもはっきりしない。裁判で決まった通りに当事者が動かなければ絵に描いた餅になるからだ。支援システムや団体は必要だが、それに完全を求められようか。
令和6年改正民法に流れる精神、すなわち離婚しても父母共同で親の責務を果たす。その志は素晴らしい。しかし、夫婦として共同してやれなかった男女が、父母として共同してやる。そこに無理がある。その無理から肝心の子に被害が出ないか。妻子が混乱の渦に巻き込まれないだろうか。そう考えると単独親権のわかりやすさ、事前に問題を防ぐ機能も見捨てたものではない。単独親権ゆえに諦めなければならないこともある。離婚後も父母が共同して親の責務を果たすと言う理想を捨てなければならない。しかし、単独親権でも実質的に共同親権に近い親の立ち居振る舞いはできる。共同親権を真っ当に実現できる位の父母ならばである。
一方で、いろいろな考え方があることも事実である。例えば、「面会交流がされないことは、子どもの精神発達に悪影響を与える最大の危険因子である。」「両親間の葛藤のレベルに関わらず、単独監護の子どもと比較して、共同監護の子どもでは、感情面、行動面、学業において好成績である。(ウォーシャック)」「共同養育は、親の葛藤による有害な影響を増大するのではなく、両親の紛争の影響から子どもを守ることが明らかになっている。(ニールセン)」「片親疎外は親権が一人の親しか与えられない法制度のもとで生じやすい。(クルック)」などの発言や研究を引用しての主張がある。(3)
子どもと親が「安定」した状況下で「継続」した交流をすることは有意義である。この点は、いずれの説の方も肯定できるようである。この共通の土台を見い出し、ほっとした。しかし、幅の広い主張があり、現状維持型、理想追及型、社会調査的研究、実験室ベースの研究まで諸々の主張がある模様である。私は、あちらを調べればあちらに傾き、こちらを調べればこちらに傾いた。勉強を進め、過去の自説に固執せず、これからも自分の実務経験や感覚を大切にしつつ、ブログに書いていきたい。
それにしても、令和6年改正民法は調べる程にどのように運用するのかが見えてこない不可思議な法である。父母間で問題が起きれば、とどのつまり最終的に家裁で決める。そのパターンのオンパレードである。審理の基準は、子の利益を最優先に考えるという趣旨のことが書かれている。しかし、何が子の利益になるか否かは霧の中である。DVのみだけでなく、父母の高葛藤なども当然考慮要素になると考えるが、その文言はない。親のいずれか一方、又は双方に良識が欠け、相手の人格を尊重できない。決めたことを守れない場合は問題が起きそうである。
こういう法案が提起されたのに驚くが、短期に国会で可決されたのにも驚く。与野党とも雑だなあとため息が出る。親の権利として親権や面会交流は考えられていないはずである。「権利」という言葉を使わずに、「子の利益」のためだけを考えて、親権や面会交流は考慮されるはずである。ところが、問題の解決が図れなかった場合、「大人」が家裁に申し立て、「大人」が話し合い、子は参考程度に意見は聞かれても、「大人」の裁判官が最終判断する。このどこが、子の利益最優先なのか。私には理解できない。お偉い先生の頭はわからない。
私ならば共同親権と単独親権のどちらを選ぶかを考えた。私ならば、単独親権を選ぶかなと思う。私は仕事中心の人間で、土日だけの父親である。今の子どもの在り様を作ったのは、好き嫌いはあるにしても配偶者の力と思っている。だから、私の現状が急に変えられない以上、配偶者を単独親権者に指定する。かと言って、自分が父親失格だとは思わない。申し訳ないと思うところはあるが、精一杯やって来た。監護実績では、配偶者にかなわない。私の希望が言えるならば、子どもと会え、SNSができるならば、それで良い。共同親権になって配偶者に無用な手間とストレスを与えたくはない。請われればいつでも監護や決定に関わりたい。しかし、共同親権者になるのは面倒くさい。そう感じる自分を情けないと思うが、相手もそうだろう。単独親権でやってみて、問題が生じればその時にまた考えたい。(考えられるのであればであるが、)それが現実的かなあと思う。
暴論を話したかもしれない。しかし、理想を求めて、かえって利益を損ない、社会や生活を複雑にし、時間と富を失う。欲求不満になる。理想を否定できないために、理想の沼に陥ることにならないようにしたい。そういうお話をしました。悲観論者だ。親としての自覚が足らないとお叱りを受けるでしょう。しかし、時間とお金、命、人の英知は無尽蔵ではない。現実から離れた理想の追求は問題であろう。程々の理想の追求こそが現実解ではないか。そう、思いました。頑なに真面目であったり、専門領域にハマり過ぎるのもどうかと思います。制度と人間に程々期待し、時に上手に諦められるのり代がある。そういう運用ができる法や制度が良いのではないかと思います。
単独親権が万全の制度だとは思いません。共同親権でやれる父母もいると思います。しかし、令和6年改正民法の選択的共同親権制度は相当荒っぽい制度に思えてきました。以前のブログでは令和6年改正民法を一歩前進と書きました。しかし、三歩進んで五歩下がる。悪手になっていないかなと思います。3歩進んで2歩下がるくらいにしたいものです。
外国が共同親権制度を導入しているからと言って、日本がそれに合わせる理由にはなりません。外国が核ミサイルを持ったら、それに合わせるのが日本の幸せですか。落ち着いて考えましょう。法の施行前です。今からでも遅くありません。慎重に丁寧に議論して進みたいですね。
この論考は、「共同親権論その2」として書いたものである。「その1」時点よりも実際の運用に於いて共同親権に問題が多い。そう考えるようになってきた。共同親権積極派を演繹法的思考とすれば、共同親権消極派は帰納法的思考である。
家裁調査官は、一つ一つの事案を扱う中で実務感覚が養われていくので、私は理念としての共同親権を民法上受け入れつつも、現実に於いては極めて消極的運用になるのではないかと思う。極論すれば、家裁に持ち込まれる事案は紛争性が高いので、共同親権不適格事案とする。それくらいの流れになるのではないかと思う。しかし、困ったこともある。頭でっかちな処理基準やマニュアルが最高裁のリードで作られて、家裁調査官が一種の洗礼を受けるとやっかいだなと思う。
従前、家裁は面会交流事件でチェックリストを作成し、記録の末尾に閉じていた。虐待、DVなどがあれば、それにチェックする。それがなければ、原則面会交流を実施する方向で進める。その歩調を家裁内で揃えるためである。面会交流を阻害するいくつかの事由があれば面会交流は慎重にする。あるいは、消極とする。なければ原則面会交流という流れを作った工夫の一端がチェックリストである。高葛藤などのチェック欄は確かなく、チェックリストの運用が実務に影響を与えた。チェックリストがあるために、個々の家裁調査官の裁量が制限されたと考えてもそう大きな間違いではない。このチェックリスト作成は当局が主導したものである。共同親権と親子交流に於いて、どう当局は動くか。どのような運用上の工夫をしてくるかを注視し、見守る必要がある。
私も勉強を続け、どこかのタイミングでまた文章を書いてみたい。
*参考文献
(1)「家庭の法と裁判」51号。特集:家族法改正。北村治樹ほか。2024.8。日本加除出版→かつての家庭裁判所月報(最高裁)の市中版。政府、最高裁などの公式的情報が載っている印象の論調か。
(2)「別居後の「共同親権」を考える」熊上崇ほか。2024.5。明石書店→共同監護、面会交流は慎重を要すと警鐘を鳴らす論調か。
(3)「離婚と面会交流」小田切紀子ほか。2020.4。金剛出版→共同監護、面会交流は積極的に実施し、支援のネットワークを張れば問題は克服でき、有効だとの論調か。