1999年。長野県の地方都市にある大企業の精密機器メーカーの開発室。昼間でも薄暗い部屋で、蛍光灯の光が静かに机を照らしていた。私はその机に向かい、夜遅くまでテーマの開発を続けていた。

昼間はカードリーダーの開発業務に追われる日々。しかし、業務が終わり周囲が帰宅した後、私は未来のコンピュータと周辺機器の接続について考え続けた。それは、草案が出始めたばかりの「USB1.0」という世界標準につながると確信していたインターフェースの構想だった。

当時、パソコンの周辺機器を接続するには、多くの知識と手間が必要だった。シリアルポート、パラレルポート、SCSI――機器ごとにケーブルや設定が異なり、一般の人には扱いにくい世界だった。

「どうして、こんなに複雑なんだろう」

私は何度もそう思った。

そんなある日、USB規格の幹事会社だった三菱電機から非公式に届いた技術情報が、私の心に火をつけた。そこには、将来の統一インターフェース構想、USBに関するの情報が示されていた。「プラグ・アンド・プレイ」「自己識別」「共通インターフェース」――そのキーワードを見た瞬間、未来の姿が頭に鮮明に浮かんだ。
「これだ。この方向に未来は進むはずだ」

私は強く確信した。まだドラフト段階の詳細のない英語情報しかなかった。しかしUSBが世界標準になる日は近いと感じていた。

私が考えたのは、ソフトウェアで制御する新しい接続の仕組みだった。周辺機器を接続した瞬間に、その機器が何であるかを自動的に識別し、電源や通信のための設定を自動で行う。人が複雑な設定をする必要はない。機械同士が自律的に認識し、繋がる世界だ。しかし無人装置でその接続が破綻したら?

それが発明の着眼点だった。

当時の日本では、ソフトウェアのアイデアは特許として認められにくかった。だから私は考えた。

「ソフトウェアの動きを、電気信号の動作として記述すればいい」もちろん制御ソフトのフローチャートも示して。私は変わり者を自負しているからフローチャートもNSチャート形式で書いた。

プログラムの動作を電気回路の動きに置き換え、特許として成立させる。おそらくソフトエンジニアのごく一部しか試したことのない手法だったと思う。それが唯一の方法だと思った。

1999年秋、私はUSBに合致する仕組みを目指した3件の特許出願を行った。設計、文書作成、出願手続き。弁理士を呼んで説明したが、USBの概念を理解できず、弁理士から提示された特許草案は的外れなものだった。5回支えしたが、弁理士はバカだった。弁理士には頼れない。私は全てを自分で書き上げる決意をした。

上司や同僚からの支援はなく、孤独な戦いだった。日中の仕事を終えて帰宅し、深夜までベッドの中で考えた。家族が眠る静かな家で、私は脳内で色々と構築し、図面を組み立て、頭の中で回路を動かしながら試行錯誤を重ねた。

「発明は自分自身への未来への投資だ。自分自身の武器だ。今、やらなければきっと後悔する」

体はうつ病寸前まで疲労していた。しかし頭の中には未来の景色がはっきりとあった。

振り返れば、その時間は私にとって人生で最も濃密な時期の一つだった。まだ誰も語っていない未来を、私は先に見ていた。迷いや不安はあっても、確信だけは揺るがなかった。

「人が意識しなくても、機械同士が自然に繋がる。そんな時代が必ず来る」「無人装置で接続と通信を破綻させない」

その未来の姿は、周囲に話しても理解されないかもしれない。だが私は確かに見ていた。静かな夜、ベッドの中で日付が変わっても、未来への道筋を一人で描き続けていた。

のんびりと各章に分けてUPして行こうと思うが今回は前書きと第一章を公開します

 

【第1章】1990年代、混沌としたI/Oの海へ

1990年代初頭、パソコンの背面には、無数のポートが並んでいた。今のようにUSBひとつで全てが済む時代とは違う。通信専用のRS-232C端子、プリンターの専用端子、キーボードとマウス専用のPS/2端子。記憶装置用の高速SCSIインタフェース、そして独自仕様のコネクタ……。そのすべてが「標準」であるようで、「標準」でなかった。まさにI/Oインターフェースの群雄割拠。統一も秩序もない、まるで戦国時代のようだった。

私は、長野県に本社を構えるある一部上場企業──その本社開発部に所属し、制御回路や組み込み設計を担当していた時期だ(数社転職している)。電子回路設計のエンジニアとして、日々、多種多様な装置の制御系を手がけていた。マイコンを使ったタイマ制御、電源系のフェイルセーフ設計、産業機器とのインターフェース──そうした業務に忙殺されながらも、私はどこか、満たされない思いを抱えていた。

「この混乱は、いつか終わるのだろうか?私の担当している製品のインタフェースは業界標準になっているが、一般ユーザーには無関係な場所に使う」

業務の中で扱うI/Oインターフェースは、標準化してもOEM先要求により、そのたびに専用設計を強いられる事も多々あった。折角標準化を提唱したのにだ。OEM先の要求するインタフェースが頭に入るまでは仕様書の熟読とソフト開発を並行しながら試行錯誤。端子の割当や信号のタイミング、ノイズ耐性。一つの製品分野なのにインタフェースが違う世界があり、それを都度力技でまとめる。時代はまだWindows95 あるいは Windows NT、MS-DOS。OSの力も頼りない。エンジニアの腕と、現場の勘に多くが委ねられていた。

そんなある日、私に一通の技術資料が届いた。幹事会社である三菱電機からだ。私宛である。「次世代インターフェース」に関する資料。まだ“USB”という名称もはっきりとは示されていなかったが、その中にはいくつかの意味深なキーワードが並んでいた。

──ホスト制御
──ホットプラグ対応
──低速から高速までのマルチスピード
──トポロジ階層型の通信構造
──電源供給のバス統合

紙面の説明はわずか数ページ、図もあっさりとしたものだったが、私は読みながら次第に技術者魂が興奮した。

「これだ──これは、混沌としたPCの端子をすべてを統一する“何か”だ。」

紙に描かれたそのインターフェース構想は、既存のどのポートとも異なっていた。単に信号のやり取りだけではなく、機器の認識、アドレスの割当て、転送タイプの区別まで含めた「制御の思想」がそこにあった。つまり、これは単なる物理層ではなく、「設計思想を内包したインターフェース」なのだ。と同時にSCSIのコマンド体系に似てるな、とも思った。

頭の中で、神経回路が動き出すのを感じた。

「OSは認識して通信破綻しなければそれで良い。私はOS屋じゃない。組み込み制御ソフト屋だ。2本のシリアルポート、もしかしたらおまけでマイコンに付いてるUART機能だけで行けそうだ」

私はその夜、会社を出た後も眠れなかった。私は考えていた。ハードウェアで実現出来る感触だが、部品代がもったいなぞ。ここはソフト処理で部品不要かな?私はノートに書かない主義で脳内で絵を描く。困った時は模造紙(岐阜県民はB紙と言う)に木の幹と枝を書いて考える少し変わった事をする。

また、会社の休みの日は異性も探さない。飲みにも行かない。結婚も意識しない。部屋にこもって音楽を流して天井を見てるだけ。何を考えてるんだ?愛車を洗車してピカピカに磨き、午後に雨が降って悲しくなる。まさにマーフィーの法則。それが休みのルーティン。実家住まいだったから、この行動は両親・兄弟は不気味に映ったに違いない。私の中では、すでに仕事というよりも、未来を見てしまった者の「これは面白い挑戦だ」という心が芽生え始めていた。

当時、USBはまだ公式には世に出ていなかった。世間では「Plug and Pray(端子に周辺機器をつなぐ時、動いてくださいと祈りながら挿せ。動いたら儲けものだ)」という言葉が使われるほど、周辺機器の接続は不安定だった。何かをつなげば動くかもしれない、動かないかもしれない。ドライバはどこかへ行ってしまい、ケーブルのピンアサインは謎。そんな時代だった。

私は直感的に理解していた。この新しいバス規格は、世界のルールを変える。
そして、もしそれを今、理解できるなら、自分が実装を考えるべきではないか?うぬぼれ過ぎである。

私はまだUSBという名前すら使われていない時期に、その動作ロジックをハードウェアで再現しようと考えていた。ソフトではなく、回路でUSBを語ろうとしたのだ。

あの時、社内にUSBの全体像を本気で理解していた者は、おそらく私一人だった。なぜなら、みな「先の話だろう」と見ていたし、「OS依存のものだろう」と思っていた。だが私は違った。OSに頼らず、論理回路だけでこのバスに対応できるなら、それはとても興味深い。私は制御ソフト屋であり、電気屋なのだから。

USBは、単なるバスではない。制御モデルそのものを内包した設計なのだ。そこに気づいた時、私はもう引き返せなかった。

次回、第2章「未発表のドラフト、そして“変換”の発想」をお楽しみに!


 

【前書き】

これはある開発技術者の実話物語である


【忘れられた発明──記録に残らなかった未来への設計図】

いま、私たちの生活は「USB」に支えられている。スマートフォンの充電、外付けメモリの接続、周辺機器の統一規格。もはや当たり前の存在となったこの技術は、1990年代半ばに突如現れ、瞬く間に世界標準となった。

だが、USBが生まれるよりも前──混沌としたインターフェース戦国時代に、一人の技術者が、信州の片隅で、静かに、しかし確かに、その未来を見つめていた。

私は1990年代前半、長野県に本社を置く一部上場企業の本社開発部に勤務していた。そこでは、次世代のインターフェースとして登場するUSBに関し、幹事会社の三菱電機から情報が社内に共有され始めていた。私はその情報をいち早く咀嚼し、USB制御ソフトを論理回路で実現するという発想に至る。そして、USB1.0ドラフトの内容に合致する構成で、三件の特許を単独で出願した。

USBという言葉が世間に広まるより前に、私はその思想の核心にふれ、設計に落とし込もうとしていた。だがその努力は、誰に評価されることもなかった。やがて私は病を患い、会社を解雇され、資料も手元を離れ、人脈も途絶えた。

技術者としての人生における一つの出来事。しかし、あの時の経験と発明は、今の私の中で“消えない何か”として残っている。それを、この時代にふさわしい“デジタルタトゥー”として記録しておきたい──そんな思いから、この筆を執った。

これは、無名の技術者が見たUSBの黎明。そして、記録されなかった発明の追憶である。