つい先日まで東京都美術館で開催されていた岡本太郎展。岡本の作ったものは、センシティブな人には直截的な力で迫ってくる。彼の絵でも彫刻でも文章でもほとんど見ているつもりの私も、全く無視を決め込むのは何となく落ち着かず、出かけていった。
予想はされたのだが、やはりマスクなしの身には、「すみません、マスクを!」のスタッフの連続の注意。とにかくやり過ごそうとしたが、ここは都営の美術館、感染防止キャンペーンを先導する小池都知事の直営施設とあっては、向こうも簡単には引き下がらない。
しびれをきらした私は、つい日頃思うことをその女性のスタッフにぶつけてしまった。
私「マスク、マスクとおっしゃいますが、あなたも付けておられるそのペラペラのマスクが、どう感染対策に有効なのか、きちんと説明していただきたい。」
スタッフ「マスクはここの決まりなんです。」
私「でも、それには法的な根拠はあるんですか。あくまで要請でしょう。なら、するしないは個人の勝手となるわけだ。マスクをしない人を、美術館から追い出せるとでも言うのですか。いいかげんにしてください。」
スタッフ「今、上の者を呼んでまいりますから、ここでお待ちになって下さい。」
私「上の前に、下の人が理解してほしいんですよ。貴女のお考えを聞きたいものだ。今、往来を見ても、一人残らずマスクだ。しかし、そこまでして恐れるべき病気なんでしょうか。」
そこに女性の上司らしい所長の名札をつけた男性が登場。つい最近、飛行機でマスク拒否をして裁判沙汰になった男性の記事を読んだばかりだ。感情的にはならずに、徹底的に議論してやろう。
私「一人ひとりが考えてマスクするしないを決めるべきなのに、一律の決まりで縛るから、かえって人々の恐怖も募り、拒む人は差別され、悪循環になるのでは。むしろ今は、逆にマスクの外し方を考えていくべき時なんではないですか。」
所長「仰ることは、私もその通りだと思います。ですが、今日はマスクをしていただけませんか。」
私「それなら、みんなでマスクをするのでなく、むしろ外しませんか。あなたは立場上それが言えないとしたら、言えるような世の中にしていく。大げさに言っているとお感じかもしれませんが、みんながしているから、取りづらいのであって、外す人がそこここに現れてくれば、こんな状況、一挙にひっくり返りますよ。私は何か間違ったことを言っているでしょうか。」
所長「いえ、そうは思いません。ただ、今日は両者の折衷案でいかがでしょうか。このシールを体のどこかに貼っていただくのです。これで、マスクなして展覧会をみていただけます。いかがでしょうか。」
それが安易な妥協であり、問題の解決にはちっともならないことだとわかってはいたが、とにかくそういうものも一度体験してみようと私は思ってしまった。そのシールをセーターの上に貼り付けることで、その場の揉め事は一件落着?となったが、やはりそれは私の精神にダメージを与えないでは済まなかった。はたしてこれでいいのか? そう考えながら見る、岡本太郎の作品は、どれも色褪せ、面白くなかった。私はある意味で、最もオカモトらしからぬことをやってしまったのだから。
芸術を見る人は、あくまで無条件でなければならない、と岡本は言っていたはずだ。
今、彼が生きていて、この人々の状況を知ったら何と言っただろう。芸術と鑑賞者、顔と顔は隠されることなく、直接に向かい合うべきなのだ。存在と存在が裸でぶつかり合うことに、岡本芸術の基本があった。しかし、私の眼前には、その岡本の芸術に群がる、無数のマスク星人たちだ。いろいろな角度から見たり、説明を見てうなずいたりしている。だが、それがいったい何なのだろう。実に恥ずかしいし、不潔だ。
そう言う私も、胸にシールを貼ることで、マスクの免罪符としてしまった。それもまた恥ずかしい姿、不自然で屈辱的な姿ではないのか。マスクを付けない理由は、まさにマスクそのものなのであり、マスク以外のものであってはならないのだ。このシールを付ければ、揉め事は起こらないかもしれない。しかし、今ある意味で、揉め事はもっと起こるべきなのだ。その場しのぎの解決策でなく、いつまでたってもマスクを外せない自分たちが、いかに危険な状況にあるか。同調圧力に対して弱く、もはや考えることを放棄した、大勢に従順なだけの国民では、あの愚かな歴史だって十分に繰り返される可能性があるのだから。
帰宅して妻にそのシールを見せると、彼女は「ナチス政権下でユダヤ人たちが身につけさせられた星印のワッペンみたいね」と言った。