野口剛夫の音と言葉

野口剛夫の音と言葉

音楽家・野口剛夫が日々の活動の中で感じたこと、考えたこと

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 近く新型コロナも、感染症の分類としてはエボラ出血熱と同じ2類から、インフルエンザ並みの5類というカテゴリーに引き下げられるようで、少し前までの圧倒的な「コロナ怖い」の全体的空気も、少しずつ緩和していくことになるだろう。

 それにしても、遅すぎる。あまりにも遅いのだ。その分、国民の洗脳は進んでしまったように思える。もう、新型コロナが張子の虎、裸の王様であることは、明らかなはずだ。その馬鹿馬鹿しさが、まだわからないで、真剣に悩んでいる。そういう状態こそ、本当のコロナ後遺症と言うべきであろうか。蝕まれているのは、体ではなく心なのだ。

 マスクについても、今月からは政府が条件付きではあるが、無理して付けなくてもよいというお達しを出した。「個人の判断で・・・」ということだが、それができたら、もっと早くにマスクを外す人が現れていたはずである。

 個人で判断できないから、いや判断しようとしない人が多すぎるから、世の中はこうなってしまったのだ。マスク星人たちで町が埋め尽くされるのも、皆がマスクを外すのも、国の強い号令次第なのだ。薄気味の悪いことなのだが、これが実態であり、逆に個人の判断をして行動すれば、世間からの強い拒絶や白眼視を受ける。

 しかし、あまのじゃくの私はその「個人の判断」というもので、この3年間というもの、マスクは付けずに押し通してきた。あのペラペラでスカスカのマスクを付けなければならないという意味が解らぬし、そもそも、新型コロナでどのくらい人が死んだというのか。年間150万人も日本人は何らかの病気で死んでいる。癌では40万人ほどが亡くなる。もし新型コロナで大騒ぎするというなら、このくらいたくさん人が死んでしまうとか、明確なデータがあるはずだ。でも、そんなものはない。ちょっと強めの風邪であり、年寄りや病気持ちの人は、それがもとで亡くなったりするだろう。でも、それだけでは数ある病気の一つに過ぎない。気を付ける人だけ、気を付ければいいのだ。マスクを付けることだって同じだ。

そう私はずっと考えているから、時折、店や役所、美術館や音楽ホールなどで、マスクを付けることを求められることがあると、そんな時は、時間が許す限り丁寧に自説を語り、逆になぜマスクを付けるのか、と相手に尋ねることにしている。

 

 先ごろも、古いレコードやディスクを買い取る店で、マスクを付けてほしいと言われ、私は若い男性店員にこう言ってみた。

「マスクは持っています。本当に必要な時は付けます。でも、今あなたがマスクを求める理由は何ですか。」

「上から言われているのです。なのでマスクをしていただきたいんです。」

「理由はそれだけですか。あなたは自分でなぜマスクをするべきなのか、考えたことはありますか。」

「そう言われても・・・」

「もし、本当に感染したくないのなら、あなたがしているような、どんなウイルスも通してしまう安くて薄いマスクをするでしょうか。しっかりした医療用のものを使うべきでしょう。それに、このレジの上から垂れ下がっているビニールのシートは毎日取り換えているの?」

「いいえ、お客さんが何を言いたいかはわかりますよ。」

「そうだよね。人の口から出る飛沫がビニールにくっついて、しかも白い層状になって残っている。こういうのこそ、不潔であり、何とかしてほしいよ。」

「ごめんなさい、上の人が決めた決まりなので、守っていただかないと。」

 だんだんと、他の店員たちも私の長口舌に耳を澄ましているらしい雰囲気が伝わってきた。

「もし上の人がまともな人でなかったらどうするんですか。あなたがたとえ下の社員でも、おかしいと思ったらおかしいと言う。そういう人が増えて来れば、上層部を動かす力にもなるというものではないですか。」

「お客さんのおっしゃりたいことには反対ではありません。」

「でも、そう思っているだけではダメなのではないですか。行動で表す勇気をあなたにはぜひ持っていただきたいのですよ。」

 そう言い残して店を後にした。ちょっと言い過ぎたかな、とも思ったが、変わったオジサンだと思われたとしても、このくらいガツンと言った方がよいのだ、と思い直した。これは私の「個人の判断」なのだ。あの店員だって彼なりの「個人の判断」がしっかり形成されるまでよく考えるべきなのだ。

 

 夕方になり、小腹が減ったので、レコード店の近くにある、讃岐うどんの立ち食いスタンドに入った。鰻の寝床というのが文字通りに当てはまるような、あまりにも細長い店内は立食客で一杯だ。一度お客で埋まってしまえば、カウンターの奥に行くこともそこから引き返すのも、お客にぶつかってしまい、かなり大変そうである。

 私はカウンターの端の席を確保したのだが、困ったのは、箸や唐辛子などの薬味は、カウンターの中ほどにしかないため、このままだと、熱い麵とスープの入った丼を持って、何人ものお客さんに謝りながらそこまで行かないといけない。

 出された丼を前にして、私はカウンター越しの店員に言った。

「これは駄目だよ。熱い丼をこぼさないように持って、しかもお客にぶつからないで行くなんてできない。悪いがあなたが丼をそこに持って行ってくれませんか。」

 そこで、少し前にどこかで聞いたセリフが彼から・・・

「上からそう言われているんです。決まりなんですよ。」

本当に情けない気持ちになってきた。

「今の現場の状況を君自身が考えてみたら、こんなことをお客にさせようなんて思うだろうか。君がやってくれたまえよ。」

 もはや、カウンターの向こう側で、自由に動き回れるのは、その店員しかいないのである。彼は私の言うことを聞き、丼を持って中央においてくれた。私はお客の後ろを縫っていき、置いてある丼に薬味を入れ、箸をおいて、また店員に自分の席まで持ってきてもらった。

 やれやれ、ことはコロナだけじゃない。要するに自分で考えない人があまりにも多いのだ。少し自分で考えたりすると、周りから浮いてしまい、変わった人と見られかねないのだ。

 付和雷同的な大多数の人の無責任な集団心理と行動が、今までの日本を作って来たのだろう。大げさに言えば、はるか昔になるが、あの悲惨な戦争を推進し、止められなかったのも、こういう衆愚のなせる業の結果だったのだ。当たり前のことを考える気概も勇気もなくて、周りを伺い、権威に盲従し、利権に群がり、ただ人と同じことをしようとすることだけに勤勉であるような人たち・・・

 表向き、無難に、穏やかに生きていこうとするなら、こういう大多数の人たちと同じように行動するべきであり、そのためにはあまり物事を深く考えたりしてはいけないのだ。

 でも、私はたとえ多勢に無勢でも、世間的には損をしても、こういう根無し草的な有様には、なるべく逆らい、皮肉を言い、波紋を投げかけていきたいと思っている。極論すれば、それが私の生きる証しなのだ。私らしく生きるためには、無理に人と同じことをしてはならないからなのだ。