我が母「谷口きよい」が九月二十四日永眠致しました。
九十八歳と八カ月の人生でした。
これまで御縁が有り交流があった方々全てに厚く御礼申し上げます。
本当に不肖な息子とは対照的な立派な母でした。
昔の事は余り語らない母でした。
会津若松の片田舎の百姓の家に十四人兄弟の長女として生まれ、当然ながら貧乏な家でした。
しかしながら母は約10kmの道のりを徒歩で女学校へ通い、従軍看護婦として戦地・満州へ。
負傷兵の父と出会い、互いに無事本土へ帰れたら一緒になろうと約束したとの事らしいです。
父は私に似て?いい加減な所が多く、戦後の混乱の中よくぞ遠い会津まで母を貰いに行ったものだと感心し、不思議にも思っていたのですが、通夜の夜親戚の伯父さんから谷口の孝二伯父さんを拝み倒して会津まで貰いに行って貰ったと聞き、66年ぶりに謎が解け納得出来た私です。(笑)
母は一人で金沢へ嫁に来て家業の文具店を渾身の思いで手伝い、向かい側の青草市場が市の中央市場へ移転した時も中央市場に小さな店を借り、毎朝五時にバスで中央市場へ出向き各お店から注文を取って回り、昼前には戻ってお店の人達のお昼ご飯を作ると言うスーパーレディでした。
その頃の新聞へ投稿した記事がアルバムに残されていました。
多分四十代でしょう。
青草市場の跡地にシンボライズなタワーが必要だと。そして武蔵の交差点を地下で繋げと。
後にスカイホテルが建ち金沢一高いビルとなり、地下はクロスピアとして地下で繋がったのは皆の知る通りです。
時代を読む力も素晴らしく、知的な母だと改めて感心しました。
商売が起動に乗ると、店の手伝いから一歩引き、京都へお茶を習いに行き、お茶の免状を取り、お茶を教え始めました。
場所も良かったので近隣のOL方が噂を呼び沢山の生徒さんが習いに来ました。更には金沢一の料亭「金城楼」さんへも出掛け中居さん方にお茶や礼儀作法を教えていました。
私がバブルで会社に大きな社屋を建て、これが人生最大の失敗となったのですが、銀行の貸し剥がしで家を売った時もさっさと一人老人ホームへ入ってくれたのでした。
会社がいよいよ危ないと言う時には老後の生活費としてコツコツ貯めた預金を使っていいよとポンと出してくれました、
そんな、本当に不肖な息子でした。
写真も本当にマメに保存してありました。
殆どが親父と私の写真でした。
戦後の時代は良い時代でした。
商売を始めれば儲かると言う時代でした。
色々な招待旅行があり、世界中を回ったようです。
どこへ行っても日本語で堂々と喋り自分の思いを貫く人でした。
想い出は尽きないのですが、そろそろ筆を置きます。
お母さんありがとう。