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otimomoの備忘録的な日常

Twitterではあまり書かないことを徒然なるままに書いていこうと思います

お昼の時間が近づくとどきどきしだす。友達と食べるときは尚更。もともと食べること自体、あまり重要視していない私はお昼を抜くことが多い。食べ物を口に運び咀嚼して飲み込む。この一連の動作が面倒に感じる。授業などで疲れてるときにわざわざ疲れるようなことは極力したくない。だから1つの授業が終わったらゼリーやカロリーメイト、おにぎりを食べている。お昼に一気に食べるのは本当に面倒だ。

 

中高時代もそのような食べ方をしていた。中学は給食だったが、量を調節できるしセレクトメニュー、うどんなど選べたから特に問題はなかった。高校時代も教室で食べると気が散って食欲が失せるため、友人と一緒に教室をでて外(敷地内)で食べていた。友人も食べることが苦手だったから、お互い食べなくても何も言わなかったのが救いだ。話しながら食べる、という行為もなかなか難しい。話したい方が一方的に話し、聞く側は食べ続ける。重要な話は食べ終わった後に。そんな暗黙のルールのもと、快適なお昼を6年間過ごしたのである。

 

今になって後悔する。中高時代のお昼は卒業した後、大学や会社でどう過ごせばいいのか模索できる重要な時期であった。生温い環境でお昼を過ごした私は、大学に入って驚いた。一人で食べている人がほとんど居ないのである。そこで初めてお昼の時間は単なる栄養補給ではなく、交流の要素が強いことに気が付いた。焦った。話しながら食べるなんてこと、自分にはできない。というかお昼時にする会話ってなんだ?どのような会話をすればいいのだろう、と緊張すればするほど食欲は無くなっていく。そもそも食べるのが苦手なのに、会話も込みでするなんて。友達が減っていく未来しか当時は見えなかった。

 

半年以上かけてどうすればいいか自分なりの答えが出た。友達にありのままを話すのである。「お腹弱くて一気に食べるとお腹壊すんだよね~だからちょこちょこ食べるんだ」こう言うと多くの友人は納得してくれた。お昼ご飯のときはプリンやヨーグルトを早い段階で食べ終え、友達とゆっくり話す。ただこの方法は友達と遊ぶ時に使いにくい。遊ぶ時はどうしようか模索中である。

 

見られる恐怖。見てほしい欲求。これらは正反対だが、コインの表裏と同じようにひっくり返すことができる。いやコインよりもっと厚みはない。本当にペラペラな紙1枚の表裏一体である。

何故唐突にこんなことを考えたのか。「草間彌生 わが永遠の魂」という展覧会に行ったからだ。草間さんの描く目のインパクトはすごい。身震いしてしまうほどである。特に21世紀に描かれたほとんどの作品に目はどこかしらに居た。どんなに小さく描かれていても視線を感じるくらい、パワーを放っている。

作品の中で目は恐怖の対象以外にも喜びや怒り、欲求などといったものに置き換えられたりしていた。確かに失敗すると見られている状態、つまりたくさんの目を怖く感じる。反対に自分の満足できるくらい作り上げたものを発表するときは注目してほしいと思う。それこそ、どんなに遠くても興味がなくても小さな目でいいから見てほしくなる。私の見られたい欲求はスピーチの時だ。注目してほしいと感じる。興味を向かせる為に挑戦的な発言をすることさえある。どちらも失敗すれば欲求から恐怖へと変わるのに。たくさんの目が怖くなるリスクが大きいのに、私はスピーチ大会に出続けている。たまになんでこんなことしているのだろうと疑問に思う。中1の時授業の一環でスピーチをした時にはまってしまった。高校の卒業がかかった大事な時期でも頭の中は次に出場するスピーチ大会のことで頭がいっぱいだったくらいである。そして大学生になった今でもわざわざ大会を調べ申しこみ原稿を書く。1円にもならないのに時間ばかり経過していく。たくさんの目たちの前で堂々とできるように、準備をし続ける。こんなことを続けていたら、いつか意味を見出せるのだろうか。そのいつかがくるまで続けてみようと思う。

今日ートパソコンを買いました。LAVIEってやつ。前からブログとかやってみたいなーって思ってたし、ちょうどいいかなっていう単純な動機で始めました。

 

話は変わってクリープハイプの「死ぬまで一生愛されてると思ってたよ」について。

最初題名聞いたとき、もの凄い違和感を感じた。死ぬまで、も一生、も同じ意味なのになんでその題名にしたの?と。頭痛が痛いとかとは違う違和感。その違和感の違いって語感にある思う。「頭痛が痛い」だと途中に濁点の「が」があるから、どうしても「が」に意識が飛んでしまって一体感がない。それに比べて「死ぬまで一生愛されてると思ってたよ」は謎の一体感がある。どこで生まれるのか。

「が」と「で」は使う用途が全く異なる。「が」は主に逆説・特定の意味を修飾や補足、「で」は順接、という風に使い分けられている。順接の意味を私なりに解釈するならば、前後の単語を対等に結びつける役割である。この解釈に「死ぬまで~」を当てはめると  死ぬまで=一生となる。当たり前だ。では頭痛が痛いに当てはめると  頭痛=痛いとなる。一見正しいように見えるが、書き手の意図を無視した形になってしまう。痛いだけだとどこが痛いのか分からないからね。

耳に残るフレーズをぽんっとアルバムの題名、1曲目のフレーズに持ってくるクリープはさすがだと思う。これが「ずっと毎日側に居ると思ってたよ」とかだったら心に響かなくてスルーしていた。尾崎さんは色々なところで文章を書いているから、本当に丁寧に文章を書いていると感じた。