夜、ワープロ原稿の以前書いたショートショートの「シチュー」という作品を読み返してみたら、なんとも文章が妙な具合だったので、アメブロの方はどうだったかと読んでみたら、どうもやっぱり変だったので、書いてからずいぶん時が経つが、推敲させていただいた。それでついでに、これも過去の作品の「往年のレーサー」を久しぶりに読んでみると、「睨めつけた」などと書いてあったので直したことを報告させていただく。

『25の短編小説』読了。現代作家25人による25作のアンソロジー。買ったのは、たぶん二年前だろう。川沿いの町にあって、その幅五十メートルぐらいの川と橋の間が狭いので川面がすぐ傍に見えて気分がハイになり、橋を渡るのが楽しみだった町の本屋で買った。本とCDとレンタルDVDの三位一体という、現代からいささか取り残されたビジネスモデルのチェーン店の本屋だったが、とうとうレンタルDVDではやっていけない、ということになったらしく、そのコーナーをまるごと潰してフィットネスジムにしたのだが、まあ、運が悪い時はそういうものというか、折悪しく非情にもコロナが襲いかかったわけですよ。あっと言う間に閉店の憂き目。なかなか用もないのに川だけ見に行くということもでき難いので、橋を渡る楽しみも自然、間遠くなってしまった。もう十四年も前になるか、エロ本を買うよりも恥ずかしい思いをして聖書と臨済録を買ったのはこの本屋だった。美人の女性店員二人がネットで検索してこの本屋と連携している電子書店に注文してくれた。臨済が「林材」などと書店のノートパソコンの文字候補に出て来て戸惑ったり、新共同訳の聖書のNIってどういう意味かと一方の女性店員に訊かれて、おれに訊かれてもと内心困惑し、まさかニーチェのNIじゃないしなあと考えたことなど懐かしく思い出す。

『25の短編小説』もいくつかコロナを扱った作品があったが、ぼくが気に入ったのは新庄耕「終電過ぎのシンデレラ」、津村記久子「水曜日の山」、東山彰良「イッツ・プリティ・ニューヨーク」、藤野可織「なにも持っていない右腕」といったところでした。「終電過ぎのシンデレラ」はこの時代の空気感がいちばん出ていると思ったし、描写もうまい。エンディングはぼくはわかっている人だと思って読んだが、意識的に(或いは理論的に)わかっているかどうかとなるとぼくには判断がつかなかった。「イッツ・プリティ・ニューヨーク」は姉のリアリティが面白かった。作者は詩的な感性の人のように思った。類型的な話でありながらこの時代のいわばフェイクの神話みたいなものが書けているような気がする(うまく言えないが)。「なにも持っていない右腕」は子供がいかにもやりそうな、言いそうな、いや、いつか自分もやった筈の悪戯を書いてうまくラストに結びつけている。一種の徹底した不在の不気味さか(これまた、うまく言えないが)。いちばん良かった津村記久子「水曜日の山」はコルタサルの「続いている公園」みたいな驚きがあった。どういうことだろう? 維管束というのが、もしかしたら女性の正体かとも思う。


(28日付記)「往年のレーサー」作中の「普通はエントリーや賞金獲得時に煩雑な手続きが必要だが、」を「必要なのだが、」に推敲訂正した。


(29日付記)「シチュー」を再度、推敲加筆訂正させてもらった。「往年のレーサー」の「睨めつけた」は「にらめつけた」と読むのではなく、「ねめつけた」と読むので、「睨みつけた」と書いてあったのをそのように訂正したことを今日思い出した。それを自分で忘れて、また元に戻したことになるが、「睨みつけた」の方が良いと思ったので、そのままにしておきます。ゴメン。