隠された戦時中の被害〜三河地震
東南海地震では、東海地域の多くの軍需工場は壊滅的な被害を受けた。
三菱重工名古屋航空機製作所の道徳工場(南区)では、学徒動員のため工場で働いていた中学生など64人が、東南海地震の際に倒壊した建物の下敷きになり圧死した。
また、半田市の中島飛行機製作所では、死者は157人に達した。
度重なる空襲に加え、地震災害のため、日本の航空機生産は半分にまで下がったともいわれている。
一方、三河地震は午前3時38分に発生したため、多くの人は就寝中であった。
このため、倒壊した家屋の下敷きとなり、多数の死傷者が出た。
このような甚大な地震災害は、その3年半後1948(昭和23)年の福井地震でも発生した。
これらの様相は、阪神・淡路大震災と酷似していた。
阪神淡路大震災後、家屋の倒壊による死傷者を減らすため、建物の耐震化が進められているのとは異なり、三河地震後には耐震化への動きはなかった。
当時は生きるだけでやっとの時代であったため、地震災害に目を向けられることが少なかった。
三河地震でも、戦時下ゆえに生じた悲劇も多かった。
集団疎開は、国民学校3年生以上6年生までを対象としており、名古屋市内68校、愛知県内の50校の児童が、岐阜県や三重県に疎開した。
宿舎の多くは、多数の児童を収容できる柱の少ない大広間の多い寺院が利用された。
そのうち、東南海地震では幡豆郡三和村に疎開した児童は灯籠の下敷きになり3人が死亡、三河地震では31名が死亡するという痛ましい結果となった。
これら2つの地震被害を極力隠すため、時の政府は、地震災害に関しての詳細な記事を書くことを許さなかった。
地震については、噂することも禁じられたというほどである。
このため、地震災害の大きさに比べて残された資料は少ない。
東南海地震の翌日12月8日は、日本では日米開戦3周年にあたり、新聞の一面トップは昭和天皇の軍服姿であり、戦意高揚のための標語が並ぶという戦争一色の紙面であった。
当時、中部日本新聞(後の中日新聞)は、物資不足のため一日に2ページ印刷されるだけであったが、8日は特別に4ページ印刷された。
その新聞を1ページ目からたどっていくと、3ページ目にベタ記事で、「天災に怯まず復旧」との20行程度の記事がある。
愛知、三重、岐阜とも大きな被害はないとの内容であった。
しかし、12月8日のニューヨークタイムズには、欧米やインドの地震学者の分析として、震源は本州の沖で、津波を伴った大きな被害を受けているはず、と報道している(図はじめに1)。
翌9日には、地図入りでさらに詳しい分析や、津波が20mに達し、関東地震を超える被害が出たはず、とのやや事実と異なる地震学者の推測も載っている(図はじめに-2)。
ただし、震源を最も正確に伝えたのは、ニューヨークタイムズを読む限り、東京からのラジオ放送であった可能性がある。
日本の地震観測データなしには、それほど正確に位置を決めることはできなかっただろう。
いずれにしても、世界には、巨大地震の発生を隠せなかった。
地震の6日後には、米軍の偵察機から撮った尾鷲市の写真に、津波災害の様相が残されている。
他の有名な事例の報告書がたくさんあります。