「学ぶ」
事実を知ったうえで自分の状況に置き換えなければ理解は深まらない。私はそう考える。「知る」という行動はただ単に展示物や景観を見るだけでもできる、悪く言えば単純な行動であり、よく言えば大きな第一歩である。では更に深めるのにはどうしたらいいのか。私は「学ぶ」という段階が必要になるかと思う。ただ、学ぶと言っても色々あるだろう。私はここでは「学び合う」というところに商店を当てたいと考える。
私はゼミ活動(#知るを参照)の一環として県内高校生で集まって活動について発表する役を任ぜられた。ただ、私の学校はごくありふれたものであり、実業系の学校様と比べてしまうと実行力が見劣りしてしまうため、活動の中で学んだことを発表することにした。他校からの評価は良かった。というのが単純な感想である。おそらくデータ的なものを用いて事実発信をすることを心がけたのが良かったのであろう。その時は一安心した。が、その後一週間はなにか心残りを感じた。「何かが足りない」そう感じたのであろう。私はペンを走らせて思いを綴り、そこから浮き上がってくる「何か」を探した。見つけたのは「学び合う」これが足りなかったということ。何が言いたいかというと、「知る→伝える」という単純な一方通行的な行動になってしまっていたのであろう。
すなわち、発表したのは意見や考えではなく単なる事実だけ。自分の意見や考えをふくらませることができなかった。ここまで自分の反省文的なものを書いてきたが、学び合うとはどういうことなのであろうか。私はこう考える。「他人の意見を尊重し、なおかつ自分の意見を封じ込めること無く全体に共有する」。もはや辞書的な言葉になってしまったかもしれないが、これがなかなか難しいと実感している。ゼミ活動といえども集まる機会は限られている。しかし集まることができたとしても、そんな話し合いをする時間までは用意されていない。ではどうすればいいのか。ここで行き詰まるのである。自分たちで集まる時間を作って全員が集まるのか
それとも、自由に集まれる環境を作り、与太話でも雑談も交えながら話しあうのか。
わたしは後者に賛成したい。正直、震災学習というものは重い話、難しい話にとらえられがちだ。
実際後輩のことを誘う時にもなんか悲しい感情とか出てきそうで…と言われた。まぁ無理はない話である。だからこそ、その考え方を払拭するためにも、後者のような環境で楽に話せる状態のほうがいいのではなかろうか。これを言うと、おそらく
「震災のことを何だと思っているんだ」「当事者の気持ちを考えろ」「真剣に考えなければいけない問題だぞ」と批判されるかと思います。ただ、ここで私は、「そんな考え方じゃ誰も学ぼうとしませんよ」こう言いたい。私は理系科目が大の苦手であった。そんな中でも実験だけは楽しくてそこの部分は完璧であった。そんな経験、きっとあるかと思います。
テスト前の勉強、友人同士で集まってちょっとしたバカ話をして勉強してたら記憶に残ってて答えられた。なんてことだってあるかと思います。何かの記憶と結びつけることで人間は記憶を思い出しやすくなります。だったら、気軽に話せる環境で話したほうが、堅苦しい環境よりもっと考えが深まるとは思いませんか?まるで説教のようなことを書きましたが、実際にはそうしないと行けない状況になりつつあるのです。あの日を経験していない子どもたちは中学生になりました。自分たちにできることは何なのか。それを日々模索しています。ただ、一つだけ変わらないのは「伝えたい」「繋げたい」という思いです。
ここでこの活動を途絶えさせてしまったら、誰が後世に伝えるんだ?という思いがそこにはあります。今一度、あの日のことを思い出してほしい。