もうすぐ2020年が終わります
今年はあっという間に1年が過ぎました
(._.)
読書に関しては70冊ぐらい本を読んだ
良い本もあれば
無価値な本もある
今年私が読んだ本のうち
おすすめの本BEST10を紹介します
第1位 アダム・グラント 「与える人こそ成功する時代」

どのくらい与え、どのくらい受けとるかは動機や価値観によって決まるもので、その人の性格とは無関係である。
ギバーは、与えることに時間とエネルギーを注ぎ込みすぎるせいで燃え尽きるのではない。困っている人をうまく助けてやれないときに、燃え尽きるのである。教師は日常的に生徒と交流するが、教師が与える影響が認められ、感謝されるには何年もかかる。教師は「私の努力は本当に価値があるのだろうか」と悩むことになる。確信が持てないまま与えていると、努力は苦痛になり、続けるのが難しくなる。
最も成功する交渉人は他者志向のギバーだった。他者志向のギバーは、自分自身の利益だけでなく、相手の利益にも高い関心を示す。相手と自分の双方が得をするチャンスを探すことで、他者志向のギバーはより突っ込んだ考えができるので、テイカーや自己犠牲タイプのギバーが見落としがちなウィンウィンの解決策を見つけることができるのだ。
ところが意外なことに、テイカーもなかなか気前がよく、一人あたり平均三つの貢献をしていたのだ。人助けよりも権力や業績のほうをはるかに重視するにもかかわらず、テイカーは受けとった三倍を与えていたのである。「助け合いの輪」は、テイカーをギバーとして振る舞わせる状況をつくり出していた。カギは、与えることを人目にさらすことにある。
過去三十五年間にわたり、心理学者のバトソンと同僚が行った調査によれば、与えることを昇進のような外的な理由のせいにできる場合には、人は自分をギバーだと思うようにはならないという。だが、自分の選択によってくり返し人に与えていると、与えることを自分の個性の一部として内面化するようになる。
第2位 ユヴァル・ノア・ハラリ 「サピエンス全史下」

過去二世紀の物質面における劇的な状況改善は、家族やコミュニティの崩壊によって相殺されてしまった可能性が浮上する。非常に重視されている自由でさえも、私たちに不利に働いている可能性がある。自分自身の人生の進路に関してかつてない絶大な決定権を各々が行使するようになるにつれて、深いかかわりを持つことがますます難しくなっているのを私たちは実感している。
だが、何にも増して重大な発見は、幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえも、それほど左右されないということだ。幸福はむしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる。幸せかどうかが期待によって決まるのなら、私たちの社会の二本柱、すなわちマスメディアと広告産業は、世界中の満足の蓄えを図らずも枯渇させつつあるのかもしれない。
幸福に対する生物学的なアプローチを認めると、歴史にはさほど重要性がないことになる。というのも、歴史上のほとんどの出来事は、私たちの生化学的特性に何一つ影響してこなかったからだ。歴史はセロトニンの分泌を促す外的刺激は変更できるが、その結果分泌されたセロトニンが達する濃度は変えられないため、人々の幸福感を増大させえない。
ただし、きわめて大きな重要性を持つ歴史的な展開が一つだけ存在する。その展開とは、今日、幸せへのカギが生化学システムの手中にあることがついに判明し、私たちは政治や社会改革、反乱やイデオロギーに無駄な時間を費やすのをやめ、人間を真の意味で幸せにできる唯一の方法、すなわち生化学的状態の操作に集中できるようになったことだ。たとえば抗鬱薬のプロザックは、政権交代させはしないが、セロトニンの濃度を上昇させて、人々を抑鬱状態から救い出す。
幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているというものだ。幸福には、重要な認知的・倫理的側面がある。有意義な人生は、困難のただ中にあってさえもきわめて満足のいくものであるのに対して、無意味な人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練にほかならない。
文化や時代を問わず、人々は同じような喜びや苦しみを味わってきたが、そうした経験に認める意味合いには、おそらく大きな違いがあっただろう。この結論は、近代を必ずしも高く評価しない。人生を分刻みで逐一査定すれば、中世の人々は確かに悲惨な状況にあった。ところが、死後には永遠の至福が訪れると信じていたのならば、彼らは信仰を持たない現代人よりもずっと大きな意義と価値を、自らの人生に見出していただろう。なにしろ、現代人ははるか先を見通したときに、何ら意義を持ちえない完全な忘却しか期待できないのだから。
第3位 ユヴァル・ノア・ハラリ 「サピエンス全史上」

歴史の道筋は、三つの重要な革命が決めた。約7万年前に歴史を始動させた認知革命、約一万二〇〇〇年前に歴史の流れを加速させた農業革命、そしてわずか五〇〇年前に始まった科学革命だ。
今日では、私たちの大きな脳は十分元が取れる。なぜなら私たちは自動車や銃を製造し、チンパンジーよりずっと速く動いて、格闘しなくても遠い安全な場所から仕留めることができるからだ。だが、自動車も銃も最近の発明だ。人類の神経ネットワークは二〇〇万年以上にわたって成長に成長を重ねたが、燧石のナイフと尖った棒以外に見るべき成果をほとんど残さなかった。
人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量を確かに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
進化上の成功と個々の苦しみとのこの乖離は、私たちが農業革命から引き出しうる教訓のうちでもっとも重要かもしれない。
農業革命によって、混雑した都市や無敵の帝国を打ち立てる機会が開かれると、人々は偉大なる神々や母国、株式会社にまつわる物語を創作し、必要とされていた社会的つながりを提供した。
だが、大規模な協力ネットワークの出現は、多くの人にとって、良いことずくめではなかった。これらのネットワークを維持する想像上の秩序は、中立でも公平でもなかった。人はそうした秩序によって、ヒエラルキーを成す、架空の集団に分けられた。上層の人々は特権と権力を享受したが、下層の人々は差別と迫害に苦しめられた。
貨幣は見ず知らずの人どうしの間に普遍的な信頼を築くが、その信頼は、人間やコミュニティや神聖な価値だけではなく、貨幣自体や貨幣を支える非人間的な注ぎ込まれるのだ。私たちは赤の他人も、隣に住む人さえも信用しない。私たちが信頼するのは、彼らが持っている貨幣だ。彼らが貨幣を使い果たしたら、私たちの信頼もそれまでだ。貨幣がコミュニティや宗教、国家というダムを崩すにつれ、世界は一つの大きい、非常に無慈悲な市場になる危険がある。
第4位 門田隆将 「なぜ君は絶望と闘えたのか」

判決の瞬間、僕は司法にも、犯人にも負けたと思いました。僕は妻と子を守ることもできず、仇を取ることもできない。今は二人の遺影の写真を見るのも辛いです。司法にこれほどまでに裏切られると、もう何を信じていいのかわからなくなりました。結局、敵は、被告人だけじゃなくて、司法だったように思います。
日本の司法では、少年がどんなにひどい殺し方をしても、被害者が「二人」では死刑にならないという。どんな証拠を出しても、「相場主義」には勝てないのである。
本村は、日本の司法が、法の下の平等や裁判官の独立という大前提を、まったく捨て去っている、と思った。職業裁判官の世界やルールにとらわれるあまり、人間個人としての良識の上に各々の裁判官が立っていないのではないか、と思ったのだ。
裁判官には、刑罰権は裁判所しか持っていないことを思い出して欲しい。検察には、捜査権や逮捕権はあっても、刑罰権はない。遺族も同じだ。本来はあってしかるべき刑罰権が、遺族にも与えられていない。
第5位 トッド・ローズ 「平均思考は捨てなさい」

私の決断からは、バラツキの原理とコンテクストの原理と迂回路の原理が、最終的にはすべて同時に作用することもわかる。自分にとって正しい道を選ぶためには、自分の能力にはどのようなバラツキがあるのか理解しなければならない。つぎに自分が能力を発揮できるコンテクストについても理解しなければならない。自分のプロファイルにどのようなバラツキがあるか、そして自分にはどんな条件と帰結のシグネチャーが当てはまり、どんなコンテクストなら能力を発揮できるかわかったので、私は自分に最もふさわしいユニークな経路を選ぶことができたのである。
私のストーリーを聞かされても、特殊なケースにしか思えないかもしれない。しかし実際のところこれは、個性に関する原理の核心である。私たちは全員が特殊なケースなのだ。
今日では誰もが、平均主義の文化に蔓延している一次元的な思考の重荷に押しつぶされそうだ。標準化された教育制度は、学生を絶え間なく分類してランク付けする。会社は学校の成績のランキングを参考にして社員を雇い、毎年のように実績を見直してランキングを更新する。社会では、職種ランキングが報酬や尊敬や勝算を受けるための基準になっている。そして、この不自然かつ恣意的で意味のない梯子を私たちは登っていかなければならない。それを下から見上げながら、自分は大丈夫だろうかと不安を募らせるだろう。たった一本しかない梯子を勢いよく登っていくエネルギーがなければチャンスは与えられず、見捨てられてしまうだろう。
第6位 イヴァン・イリッチ 「脱学校の社会」

多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。
彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。過程と目的の区別があいまいになると、新しい理論がとられる。
手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけばいつか成功するといった論理である。
このような論理で「学校化」されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免許をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。
義務的な学校の存在そのものが、すべての社会を二つの領域に区別するのである。
すなわち特定の時間帯、特定の方法、特定の処置や世話、および特定の専門的職業は「学術的」または「教育的」とされ、その他のものはそうでないとされるのである。
このように、社会の現実を二分する学校の権限には際限がない。
教育は非世俗的なものとなり、世俗は非教育的なものとなるのである。
第7位 センディル・ムッライナタン他 「いつも時間がないあなたに 欠乏の行動経済学」

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欠乏とは、自分の持っているものが必要と感じるものより少ないことである。
欠乏が心を占拠するとき、人が注意深く有能になるのはたしかだ。生活のなかには、集中力を保つのが難しくなるような場面がたくさんある。
しかし、いつ心をくぎづけにされるか、自由に選ぶことはできない。無意識のうちに起こる占拠は、集中するのには役立つが、生活のほかの面では重荷になる。欠乏は処理能力のあらゆる要素を弱めることがわかっている。
このことは、なぜ貧しい人は貧しいままなのか、なぜ忙しい人は忙しいままなのか、なぜ孤独な人は孤独なままなのか、なぜダイエットはたいてい失敗するのかについて、まったく新しい説明を可能にする。
第8位 パウロ・コエーリョ 「アルケミスト」

「そう、彼はそのことも考えたよ」と老人が言った。「しかし、パン屋の方が羊飼いより、立派な仕事だと思ったのさ。パン屋は自分の家が持てる。しかし、羊飼いは外で寝なくてはならないからね。親たちは娘を羊飼いにやるより、パン屋にやりたがるものさ」商人の娘のことを考えて、少年の心はズキンと痛んだ。彼女の町にもパン屋がいるにちがいない。老人が話し続けた。「結局、人は自分の運命より、他人が羊飼いやパン屋をどう思うかという方が、もっと大切になってしまうのだ」
第9位 三浦瑠麗 「孤独の意味も、女であることの味わいも」

ちいさい頃、割烹着の母に後ろからしがみついていたおかっぱの私に、暖炉の中で目を閉じて身体の震えを止めようとしていた私に、高層ホテルの窓縁に膝を抱えて座っていた私に、異臭を放ちはじめた娘の額に唇を触れることができず嗚咽していた私に、時を超えて届けたかったことを、私はこうして書いた。
少なくとも、救えない子なんていないのだ、と私は思いたいし、大なり小なり誰だって傷を抱えて生きているのだ、とも思う。
あなた自身を、出来事や外部に定義させてはいけない。
あなたのことはあなた自身が定義すべきなのだから。
第10位 リチャード・ワイズマン 「その科学があなたを変える」

気持ちが体に影響を与えると同時に、体も気持ちに影響をあたえる。この単純な発想から、さまざまな簡単で効果的な方法が生まれた。人を幸せにし、不安やうつを遠ざけ、恋をして好きな相手とめでたく結ばれ、実行力を身につけ、老化を防ぐ方法である。その方法はどれも、あなたの考えを変えようとするものではない。これまでの自己啓発法の原則を破り、あなたの行動を変えるものだ。その基本にあるのは、ウィリアム・ジェームズが1世紀前に残した言葉「なにかの美点を身につけたいときは、すでにそなわっているかのように行動すればよい」である。
アズイフの法則で見逃せないのは実際的な面である。筋肉を引き締めれば、たちまち意志の力が強くなり、笑顔を作れば幸せを感じ、背筋をのばして直立の姿勢をとれば自信が湧く。そしてこの法則は、もっと規模の大きな持続性のある変化にも道を開いた。人の性格を変える、減量を実現する、国民の意識を変える、などである。
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