「話せばわかる」はテロに散った自由民権運動家「板垣退助」の最後の言葉だったとされている。

時々、今の世の中、何も変わっていない(進歩していない)様に見える。気に入らない、意見が違う、自分の力を誇示する、、、これらを理不尽な暴力で解決しようとする。

この「問答無用!」精神、「他山の石」として我々も気を付けたいものである。


イギリスにいたとき、彼らはパブでジョッキ一杯のビールを2時間は持たせる。 その間しゃべりっぱなし。大体欧米人はパーテイが好き、長時間よく話が途切れないものだと感心する。アメリカではデベート(議論)も大事な勉強だ。どっちの意見をもっても論理を構築し当意即妙に丁丁発止相手とやりあう。見事なまでの技術だ。 自分の意見を理屈立って堂々と主張できなければ、一人前、大人の社会人とは見なされない。  日本では「理屈っぽい」と敬遠され「我が強い」と嫌われるが、個人の自立を貴ぶ西欧世界では大事な人間としての素養なのだ。


アジアでは私見だけど中国、朝鮮は理屈(正邪は別として)まことしやかな議論をこねる。日本や東南アジアは一言居士の部類だ。これは儒教か仏教かの違いのように思える。理屈で正邪をつけようとした教えとあくまで修行による魂の救済を求めた思想の違いか?。

ユダヤ、キリスト、イスラムは源流が一緒だが育ちは全然違う。 お互いを「異教徒」と呼び、十字軍をはじめ戦争を何世紀も続けてきた。トルコはあれだけ「西側社会」に尽くしているのに今なおEURO加盟はお預けだ。これも西欧のイスラム文化への根深い嫌悪感のせいだ。

イスラムの教えも厳しい風土で生き抜くためか激しく非妥協的だし今日の対立の原点があるともいえる。


理屈、議論、外交術で粘り強く妥協点を探る、このコミュニケーションスタイルを交渉の基本とすべきだと思う。 交渉だけでなく、他人とのお付き合いの方法としても大変有効だと思う。「デベート」を若いうちに、素養として日本でも教えていってほしい。大学の「雄弁会」でだけでなく。言語に加え世界に通用する技になってくれるはずだ。

簡単にキレたりしない「大人の人間」がもっともっと増えていって我が社会のリーダーを占めて欲しい。

そうなればもっと優しい社会が出現すると思う。


「あなたもすぐかっとならないでね!  人の話は最後まで聞くのよ!」