誤解を恐れずに言うと、現代の人間への評価はいくらお金を持っているか?ということじゃないのか?と思えてくる。
きれいごとじゃなく、胸に手を当てて本音で考えてみよう。
うまいことをやって、うまいこと立ちまわって、うまいこと玉の腰に乗って、うまいこと親、兄弟、親戚から
うまい話がきて、、、とかそういう「棚ボタ」の話だって、「成功物語」に加えられるんじゃないか?
でもこれは本当に危険な考え方になってしまってると思う。俺自身うまいことをやっている人間(金がある奴ほど大胆だが)を見て、「スゲー」とあきれるやら度肝を抜かれることがある。
何もお金を持っているのが悪いといいたいわけではない。むろんあったほうがいいとは思う。
俺達の親の世代は、明治、大正時代の更に彼らの親たちの「群雄割拠」、「一攫千金」、大陸浪人」とかの、人間性の極限まで問われる生きざまに、いつも、のしかかられながら、無益と強慾、悲惨と残酷な戦争に巻き込まれ、彼らの罪でない戦後の焼け野原から復興と俺達の子育てと教育にそれこそ「体を張って」立ち向かってきた。彼らは、古い考えの影響を受けていたかもしれないが、信用、義理、情け、勇気、学問、家族、これらを大事な生きる上で譲れない物という信念を持っていたに違いない。俺も親父達の生き様を今思い返してこうした花向けの言葉を送ってもいい。
唯、俺達の世代からすれば、「貧乏はもういやだ!」という言葉に、俺達のベースが、親を見て生まれたのはないかと思っている。 愛する親が一生懸命滅私奉公、家族のため這いつくばって頑張っていた。
それでも日々の生活は良くならなかった。ただ環境は右肩上がり、、、。「俺達は親の轍は踏まない!」、「己を捨てて皆のため、、でなく己のために生きる人生を!」、俺達の世代は親たちの生きざまを見て皆がそう思いながら育ってきたと思う。
何も俺達の力でこうなってきたわけじゃない。世界が先ほど述べたように、資本主義社会に未曽有の(無限に思えるような)資本と金融の大膨張が続いのだ。俺達はそこを生き抜いただけだ。
今、逆にわが日本がシュリンクのサイクルに陥っっている時、「俺達は何か大切なものを捨ててきた」という後悔を覚えてならない。
生きる上で大事なことは今を必死に生きること。自分にとって譲れない大事なことを守ること。次に続く子供達、世代を何よりも育てること、それと大部分の「庶民」の子だった我々から見たら、俺達の親は、曲がったことを由と思わずむしろ清貧を選んだ、、、今思っても勇気ある生き様、喝采を送りたい。
残念ながら現代は過去の栄光にしがみついて、政治家の誰も日本の未来のインフラにかかわる投資をしようとしない。企業家も金を儲けるため、どううまく言い訳をして「日本脱出」を果たそうかしか考えていない。庶民も不満を言うだけでこの恐ろしい未来のシナリオを直視しない。
しっかり見据えたら何も怖がることはない。「お祭りは終わったし、もう二度と来ない」。
これからは、最低の生活基盤を作ることに注力しながら、「お金以外の」生きる楽しみも同時に作る人生を求めることが本当の幸せにつながるのではないだろうか?
幸いわれらの次の世代は、俺らの「薄い」価値観に見切りをつけて、自分たちの人生観を設計し始めていると思う。 まあこの世代間のリレーがうまくいけば、俺らの世代もまんざら必要悪の世代だったなんて悪名を立てられずに済むというもんだ。
若い諸君!次の日本は頼んだぞ! 及ばずながら助っ人は受けるから、、。
でも君たちも次へ世代への繋ぎは考えてくれよ。それがリレーというもんだ。
子供は最低二人、、。それも使命だよ。