昨年3月11日、私は名古屋のオフィスにいた。気持ちの悪くなる大きく長い地震だった。
早速テレビを着けると、俺達夫婦の故郷である東北が震源地だという。時間が経つ毎に津波の押し寄せる予想高さが巨大化していく(本当だろうか?)。家の女房に電話すると、宮城県牡鹿郡女川町にいる(はずの)女房の老母に電話がつながらないという。 それが悪夢の始まりだった。
地震と津波による惨状が、マグニチュード9.0という前代未聞の破壊強度のニュースと一緒に伝わってきた。 これでもかといわんばかりの目を覆う故郷の荒廃を見せつけられると、女川の家と母はどうなったのか?居てもたってもおられなくなってきた。 読売新聞社の記者が徒歩で女川に14日に入ったスクープ写真が報道された。 、、、、、「女川壊滅、全滅」というものだった。 瓦礫の山で一軒も家が無い、町が無くなっていた。
数日後航空写真を見つけたという、仙台市で被災した義弟から連絡があった。 自宅は土台しか残っていなかった、、、。 あのひどい写真からは予想できなかったけれど、助かった方が結構おられて、数か所の避難所が立ち上がっていた。 有り難いことに避難所に居る生存者名簿をネットで知らせてくれる人がいた。 でもその中にも母はいなかった。
仙台に居る義弟も生活インフラや仕事が無くなっている状況で、おまけにガソリンが供給されず、母を探しに行ける手段も閉ざされていた。 このままではらちが明かず、俺達が名古屋からガソリンを持っていけば、捜索できるだろうと考えた。 出発の前日の夕刻、義弟から電話が入り、見知らぬ人が、母は今まで報告されなかった避難所にいると知らせてきたという。
仙台は大雪の翌朝、義弟と我々夫婦は俺の車で女川に向かった。 3月18日だった。
どこもかしこもひどい有様で、女川の手前の石巻市は見る影もなかった。戦後の焼け野原のように、防空頭巾のようなかぶり物にリュックを背負った人たちが、跡地で探し物をしていた。泣いている人たちにもたくさん会った。 全国各地から警察、消防、自衛隊の人たちが支援に駆けつけてくれて、ちょうど1車線だけなんとか道が通れるようになって、橋も臨時でかかっていた。だからこれより以前にはとてもこれなかったとおもう。 全国からの支援有難う!
でも女川はもっと悲惨だった。石巻市は半壊にせよそれでも家は残っていた。女川は瓦礫だけ。家という家がない。15Mの高台(自宅はそのふもと)にある女川病院の一階天井まで水が来て、安全と思われた駐車場の車が崖からどんどん落下したそうだ。
でも連絡があった女川高校の体育館に母がいた! 灯油は夜12時まで。 トイレは足に不自由な母(86歳)を周りの人が抱えてくれて暗い階段を下りて行く。 隠れた避難所で救援物資がこないから、皆が見つける、出しあう食糧を分けて食べる。 横に連絡をくれたケアマネージャさんが付き添ってくれていた。
母に親しくしている近所の人が、避難を勧めに来たという。 そこへ日頃お世話になっていたケアマネージャが飛び込んで救出してくれたという。ちょうど3時に女川町役場で福祉の会議が予定されており、地震の
際には母の自宅前だったようだ。(女川町役場も3階のモダンな建物だったが全没した)
更に幸運なことに日頃逃げることになっていた女川病院に行かず、女川高校に向かったことだ(誰かがそっちへ行けとケアマネージャーに言ってくれたそうだ。)
彼も新婚で、ちょうど石巻市に居る奥さんが安否を尋ね回って避難所でやっと再会したばかりだった。
皆が助け合って、この未曽有の災害に立ち向かっている! 皆に感謝だ!
さあ母を「救出」できたので、これでめでたし、めでたしとはならなかった。
何せ全県、全住民に被害が襲っていたのだから、、、。
母はそれから住む所を転々とせざるを得なかった。故郷に近いところに身を置きたいという母の願いには応えることが出来なかった。女川の復興プランも簡単には進まない。
この5月末、やっと女川と石巻市の中間にリフォームしたアパートに入ることが出来た。
これからしばらくここに落ち着いて、将来をかんがえてほしいと思う。
愛する人を亡くした人、実家が無くなった人、帰るべき故郷を失った人、とても「喪失感」という言葉では言い表せない、大変な状況だ。
しかし今本人は健気に皆に笑顔を見せてくれる。
生きていてくれて有難う!お母さん!