片付けは正義なのか。


正義っていう言葉を使うと、ものすごく強い印象があるのは私だけでしょうか。


至上主義でもいい


Q.まりこさんは、片付けは正義だとおもいますか? 


もしくは、


Q.まりこさんは、片付け至上主義ですか?


という質問をされたら、私の答えはどちらにも「NO」と言います。




これは、どの言葉をチョイスするか、好ましく思っているかとか、言葉に対して個人が抱く印象とか、そういう話かなーとも思うんですが、私は普段、片付けに対して正義や、至上主義というな、絶対的位置づけを表すような表現はしないです。



片付けた方がいいか、片付けない方がいいかって言われたら、片付けた方がいいよー(´・Д・)」


私はこんな感じです。



普段の私の発信が、"片付けましょうヽ(´▽`)/"って言っているので、片付け!片付け!って言い続けてる人のことを、「片付けは正義」「片付け至上主義」と主張している人という印象になる。というのはとてもよくわかります。


例えば、ミュージシャンが"音楽はいいよ、音楽はいいよ"って発信してるのと一緒で。


私も、片付けはいいよ、片付けはいいよ、と発信しています。


音楽は聴くという行為がわりと簡単にできちゃうけど(CDをセットしてポチっと。iTunesでポチっと。とか。聴く行為はわりと気軽ですよね。)じゃあ、プレイしてみて。ってなったらグッとハードル上がりますよね。


「音楽はいいよー、音楽聴こうよー、ねー、ポチッとすると音楽聴けるよー」


と、言われるのと、


「音楽はいいよー、音楽やろうよー、今からギター買いに行こうよー、マイクの前に立って歌ってみよーよー」


って言われるのじゃ全然ハードルの高さ違いますよね。


プレイしようよー!って、ムリムリっ!いやいや!そんなつもりじゃなかった!´д` ;


ってなりますよね。



まあ、自分で音楽の例えを出しておいてなんですが。。。



片付けは常にプレイなんですよね。自分でどうにかしなくちゃ得ることも失うことも良さも悪さも、何も感じることもできない。


音楽は対価を払ってその良さをgiveしてもらえるけど、

自宅の片付けはbe myself。対価の得られないbe my self。

be my selfと同時に、同居人がいるとしたら、同居人に対するgiveでもありますけど。


そして、↑ここに、あえて対価を得られないと書きましたけど、じゃあ、対価ってなんだ。。。っていう。


日々の片付け行為にギャラが発生しているご家庭はあまりないと思うんですね。


ママが片付けた。パパがママに1,000円お支払いした。そんな家、聞いたことないw


(あ、でも、キッチンの換気扇の掃除を旦那さんがやったら奥さんが旦那さんに5,000円払ってるっていうのは聞いたことあるっ(毎日掃除したり洗濯したりゴハン作ってる奥さんにもーーー(´・Д・)」って心の中で叫んだよねw)



日常の片付けを繰り返す中で得られる対価って、感謝だと思うんですよ。


感謝があるのとないのとじゃ、片付けた人の気持ちが全然違うんですよね。


"報われている"という気持ちで生きていく事ができる。


私が片付けた事が、家族に"喜んでもらえている。"




わたし、今でこそ片付けて生きていますし、片付けを仕事にするくらい片付け好きの変態に仕上がっていますけど、独身の頃の一人暮らしの部屋、ひっっっっどいモンでしたよw


2週間に一回、母親が片付けに来てくれていましたからねw(ついでに鍋いっぱいにカレーを作っていき、2週間に一回カレー地獄を味わっていましたからねw母親のことキレンジャーって呼んでましたからねw


なかなか人って自分のために行動するってできにくい生き物で。"誰かのため"という大義名分があるとものすごく頑張れちゃったりするわけで。それを繰り返していくと習慣になったりするわけで。



そのほかに対価があるとするなら、それは協力だったり、対話だと思うんです。


片付けている人に協力する。とか、

片付けについて対話して、同居している人たちが思っている気持ちいい空間を共有する。とか、そういうことだと思っています。



って長々と書いたけど、こんなに複雑な感情がうごめき、それぞれの家の数だけやり方や考え方がある片付けという行為に、


正義や至上主義という言葉は、同じテーブルに乗せる言葉ではないなーと思っています。



わたしの発信内容が、そう捉えられるから、そういう気持ちが裏テーマとしてあるのか?という意味で、それは片付けは正義とおもっているのか?とか、片付け至上主義という人なのか?と言われることも時々ありますが、そう捉える側の気持ちの問題もあるのかなーと思うので、そういった場合は、「そうじゃないですよ。」をお伝えした上で説明しますけどね。その説明がその方に届くかどうかも、わたしが丁寧に言葉を手渡しできるかどうかにもよるし、相手側が、わたしの言葉を湾曲せずに受け取ってくださるかどうかにもよるのかなーとも思います。



いつだってわたしの立ち位置は片付けたいという方の伴走者で在るという事です。