などなど。こーゆーのを"名もなき家事"と銘打ってインスタでリリースしていましたね、去年。
名もなき家事ではなくとも、
妻「私は仕事に行く3時間前に起きて洗濯やお弁当作りをして子供の支度や音読を聞いたりしてこんなに朝から忙しいのに...夫は仕事に行く1時間前に起きてゆっくりコーヒー飲みながら朝ごはんを食べたりして...せめてあと30分早く起きて洗濯物干してくれたりしてもいいのに...子供の宿題見てくれたっていいのに...」
などなど。
奥様の不満が溜まっていくのもよく聞く話です。
"せめてこれくらいやってほしい"
自分がやることが苦痛なのではない。相手に"やって"というより自分でやった方が手っ取り早いし、精神衛生上良い。
たしかに!
家族であっても、他人であっても、
「あなたに変わってほしい」
と思うのはエゴだな。と思います。
思って...いました。
夫との関係をこじらせるだけこじらせて、たどり着いたのは仏教のお坊さんの本。
自分の恥部がたくさん書いてあった内容に、袈裟懸けに切られながら、血反吐を吐きながら自分の中に取り入れたのはもしかしたら私の両親が不仲だったからかもしれません。
"自分の親のような関係になりたくない"
"自分が育った家庭環境に子供達を置きたくない"
自分が変わればいい。
やりたいなら自分がやればいい。
相手には期待しない。
変わってほしいなんて思わない。
家族であっても個体として違うのだから...
そう思って私は家の中を片付け始めました。
家族が揃うリビング。
洗面台下やバスルームの使うんだから使わないんだからわからないモノ。
そしてキッチン。
自分の持ち物。
子供のもの。
夫の部屋づくり。
限界まで減らした空間の中でそれぞれがどう行動し何を思うのか。
そこから出てきたのもに一個一個丁寧に向き合おうと思いました。もちろん、自分の思いにも。
どうやったら自主的に自分のものや共有物を管理してくれるのか。
その共有物の管理方法は独りよがりになっていないか?
見た目は美しいのか。
細部にまでこだわっているのか。
捨てられるだけ捨てた。
ソファもベッドもカーペットも食器棚もテーブルも机も椅子も服も食器も洗剤もシャンプーも実家から持ってきた思い出も無くした。
そして芽生えた感情は。
自分が変わればいい。
やりたいなら自分がやればいい。
相手には期待しない。
変わってほしいなんて思わない。
というのは、相手に対してとても失礼な事をしているんじゃないか?
もし私が夫や子供にそんな風に思われていたら...?
至らないところがあったら言ってほしい。
家族のためになるなら自分の考え方を変えるのなんて屁でもない。
あなただけがんばらないで。
その業務をわたしにもわけてほしい。
きっとわたしならそんな風に思うだろうなぁ。
わたしはわたしのエゴを手放す代わりに、人の変わるチャンスを奪っていたのかもしれない。
そしてその気持ちも隠さずに、慎重に、言葉を選んで家族に話しました。
「毎日家は綺麗な方がいいというならあなたが掃除機かけてほしい」
「洗濯物をしまって」
「今日は疲れたから洗い物したくない」
「今日はごはん作りたくない」
家族に委ねるだけではなく、家族に委ねられたらわたしも行動する。
夫は読書が好きでいつも何かを本に求めているけれど、初めてわたしの声を聞いてくれいる気がする。
"夢を叶えるゾウ"を読んで、「よし、トイレ掃除するぞ!」と毎朝トイレ掃除したけど、3日で終わっちゃったけど、ここ1年間半くらい毎朝夫が掃除機をかけている。猫のごはんの世話や猫のトイレ掃除も、もう何年も夫の仕事だ。
長女はわたしと同じくらい家事ができるし、次女も毎日お皿拭きをやっている。
お手伝いじゃない。
それぞれがそれぞれの意思で自分の家だからやる。
わたしも自分の意思で食べたいものを晩ごはんに作るし、わたしがやりたいから洗濯する。風呂掃除をする。
そこにある主体性。
エゴに向き合い、
その向き合った気持ちにもう一度疑問をもち、家族に伝えたら、みんなの習慣になった。
行動としては"家事の"習慣づけ"ではあるけれど
わたしは、
"思いやりの習慣づけ"だと思っています。
わたしはよく、"北風と太陽"の話をするんですけど、
北風みたいに、相手を変えようとビュービューやってもなにも変わらない。
太陽みたいに自分がポカポカしながらありのままそこに在るだけでいいんだね。