すっかり空いてしまいましたが、また、ここで書いていこうと思います。

夢は楽しまなくちゃ。

 

最近読んだ本で感想を書きたいものたち

 

『蜜蜂と遠雷』

 

蜜蜂と遠雷 蜜蜂と遠雷
1,944円
Amazon

 

『豆の上で眠る』

 

 

『潔く柔く』

 

 

『声(字が出ない)の形』

 

とりあえずこれだけ。

 

あ、昨年の新潮R18も応募しました。一次にもひっかかりません。

今年こそは!

アラフィフの私としては、今の就活とか、若者にとってのSNSとか、当事者的には見られないわけで、ほーそうなんか、大変だなあという思いで読みました。

 

まあ、自分自身、昔、まじめに優良企業とか一流企業を狙って就活したわけでもないし、今でも、そういうたぐいはエリート系に限るんじゃないかともおもうけれど。

そういうたぐいの若者の現実をリアルに感じられる作品だと思います。

いや、むしろ、ネットで情報はたくさん仕入れられるわけだから、大手も視野に入れやすくなってると言えるのかな。

 

ツイッターとか、フェイスブックとか、登録はしているけれど、読み専門で発信はしていない自分の立場から言うと、発信て、やっぱり気を遣うと思う。

リアルなつながりのない世界での発信なら、本音が書けるけれど、リアルなつながりがある世界での発信は、現実世界と同じだから、一回の発信で広く確実に広がる点で、くつがえせない怖いものになる。

リアルに発言するよりも、むしろ確実に残る点で怖い。たとえ、すぐに消去したとしても。

 

人はみな、誰かとつながっていたい。

自分を知ってほしい、理解してほしい。

いい人に思われたい、認められたい、だけど、本音を吐きたい。

そんな人として当たり前な思いが、屈折し、暴かれて狼狽する、そんな物語でした。

 

一番人間らしいのが拓人なのではないかと思う。

だから、拓人の周りには、光太郎や、サワ先輩や、ギンジがいる。

本音を見透かされるのはきまり悪く、恥ずかしいけれど、もともと人はそういうものだから、かっこ悪いのも含め、さらけ出せれば、拓人も一回り大きくなれるのではないだろうか。

理香も拓人ももっと素直にありのままに生きれば生きやすいのに、めんどくさい人間なんだよね。

ストレートな生き方しかできない瑞月はある意味残酷だし、光太郎は適度にさりげなく毒を吐くから器用に生きられる。

 

でも、みんないろいろ抱えているんだよね。

そういうのを抉り出す、胸ぐらをつかまれる、身につまされる作品でした。

 

 門の前ではもう、たくさんの同級生がひしめいていた。満流がてつの姿を見つけたときにはてつはもう、満流の方に駆け寄って来ていた。

「どうだった?」

てつは泣きそうに笑って、ひじを曲げた両手を小さく上げて見せた。

「I高決定。」

あの、事故のせいだ。そう思うと、なんだか満流は後ろめたいような気がした。しかし、てつは、けなげにも、すぐに笑顔で

「でも、ユウちゃんも一緒だから、よかった」

なんて言う。

 職員室で芳村に報告すると、芳村は顔をくしゃくしゃにして笑いながら、満流の頭もくしゃくしゃにして、小さな眼を潤ませたので、満流は目を見ないでへらへら笑った。満流にとっては精いっぱいの、感謝のへらへら照れ笑い。

 

 廊下に出るとみんなの中に瞳もいた。同じタイミングで目が合って、瞳がまっすぐ満流に向かって歩いてくる。

「御利益あったやろ。」

そう言ってにっこり微笑んで、あのお守りをポケットから取り出して、振って見せる。満流も右ポケットから出しながら。

「仲野にもらったやつ?」

そう言うと、瞳は少し間を空けて、

「私がミカと一緒に行って、買って来たんよ。卒業式の予行演習の後。それも。」

そう言って満流のお守りを指さした。何か言おうと口を開けたら、下駄箱の方から歩いてくる祐二に出くわした。祐二と瞳とを交互に見て、どぎまぎしていると、

「ああ、東野君の方はミカからだからね。」

祐二は何?と言うように瞳を見たけれど、瞳は鼻にしわを寄せて思わせぶりに笑って、女の子の集団の方へ行ってしまった。

 祐二はひろしに報告に行ったら、大笑いされて、吹っ切れたと言う。瞳の言葉が気になったけれど、てつと一緒に祐二が担任に報告するのを待って、三人で校舎を出る。「ちょっとつき合って。」と祐二に言われて体育館の中に入っていくと、ミカがバスケットコートでボールをついてこっちを見据えていた。

「おっそーい!」

少しふくれっ面をして、それでも、なんだかうれしそうに、ミカがボールを投げてきた。

 祐二はミカに呼び出されて、しぶしぶ学校に来たのだった。

 体育館には誰もいない。今日は授業は午前中だけで、在校生はとっくに帰宅していた。

 

 2on2ね。そう言って、ミカは有無を言わさず満流らをコートに引っ張り込んだ。

 みんなバスケは大好き。部活を引退して、ずっとバスケから離れていたから、すぐさまボールを取ってドリブルシュート。満流のシュートは美しい弧を描いたものの、リングに当たって跳ね返った。くっそー。ムキになる。ミカがリバウンドを取ってシュート、鮮やかに決まる。そこから何となく、満流と祐二、ミカとてつの組になって、2on2の試合が始まる。ミカは体力もテクニックも上背も全て備えているので、四人の中で、圧倒的な強さを見せつける。しかし、満流らも、男としてのプライドがある。そうやすやすとワンマンショーをされてはたまらない。

 ミカからボールを奪おうと、祐二がミカの行く手を遮る。あっと思った瞬間、勢い余って祐二とミカは重なり合うようにして、ふたりで転んだ。先に起きあがった祐二が「大丈夫か」と言って、自然にミカの手を取って引き起こした。ミカの頬が一瞬ぱーっと赤くなる。だけど誰も気付かない。バスケに集中しているだけ。

  

 

 もう限界。一番先に音を上げたのがてつだった。それから満流。だけど、残った二人はなおも1on1で続けた。

「俺ら、コーラ買ってくるから。」

そう言って体育館から出ようとすると、入り口のところで瞳が座り込んで見ていた。

「あれ?開田、何してるの?」

てつが声をかけると瞳は笑いながら、

「ミカ、待ってるの。」と言った。

「でも、お邪魔そうだね。」

そう言って、二人の後を、ちょこちょことついて来た。しかし、門の正面にある自動販売機にコインを入れる頃になって、てつはもしかしてお邪魔なのは自分ではないかと、はたと気付いた。

「あ、俺、もう帰らないと。」

そう言って、コーラは買わずにそのままあたふたと走って行ってしまった。

「いる?」

瞳に聞いてみる。瞳は小さく首を振った。そして、自販機の脇のブロックの低い段に腰掛けた。

 取り出し口に手をつっこんでかがみ込むと

「ねえ、」

振り向いたら、仔鹿のようなまっすぐな黒い瞳が同じ高さで満流の目に飛び込んでくる。見つめられて思わずそらす。瞳が空を仰いでつぶやいた。

「自分の心って、自分でもわからんものやね。」

あの日、体育館の裏で、大弥を前にして、初めて「この人じゃない」って思った。頬をうっすら上気させた大弥に、「やっぱいいや。」って言ってそのまま置き去りにして走って帰ってしまった。気づかなかったわけじゃない。認めたくなかっただけ。でも、あの時、やっと心の鍵がカチッと開いた気がした。 

 空を仰いだままの瞳を横から盗み見るようにして、しばらく黙ったままでいたら、瞳が答えを求めるようにまたこっちを見た。視線を合わせて、でもやっぱりついそらして、満流も空を仰いで口を開く。

「…そうかも。」

瞳に呼ばれて家に行くまで、俺も自分で自分の気持ち、全然分かってなかった。

 誰が好きかなんて、試験問題のように、頭で考えて決めるものじゃないんだ。ただ、一緒にいたい、目で追ってしまう。それが答え。そしてその気持ちは自分でどうすることもできない。

 だから俺の視界には、あんなにいつも、瞳がいたんだ。なにも考える必要はない。こんなにも簡単なのに、心は何で答えを隠そうとするんだろう。

 瞳はまっすぐ満流を見てる。今度は満流もそらさない。沈黙が続いた。なんかお互いふっと笑って、なんとなく隣に座って、並んで前を見ていたら、体育館の出入り口から、祐二とミカがなにやらわめき合いながら出て来た。

 門の前まで来て、突然ミカは祐二に回し蹴りをする。祐二は大げさに後ろに下がってかわしながら笑っている。

「おもろいやつ。」

沈黙を破って、ふと口をついて出た。瞳も笑って言った。

「ミカらしいや。」

 

 「満流」

そう言って、ミカが体育館に置きっぱなしだった満流の上着を道路の向こうから投げた。そしてまだ祐二とふざけている。立って上着をキャッチして、満流は脇に抱えた。

 何かがきらっと光って道路に落ちた。瞳が拾い上げると、いびつな形のペンダント。片方がギザギザに欠けている。あのときの、ラブペンダント。

 満流は正面の祐二たちをぼんやり眺めながら、蓋をピシッと開けてコーラを飲み始めている。おいしそうにのどを鳴らして。

「ねえ、一口、ちょうだい。」

満流の顔をのぞき込むようにして、瞳は言った。あの時のように、西日に照らされ、きらきらと大きな黒瞳を輝かせて。

 

〈完〉

 

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 胸騒ぎがした。呼んでいるような気がした。瞳に、呼ばれているようなそんな気が、根拠もないのに湧いてくる。

 今日、高校の廊下ですれ違った時、何かを言いたそうに目を見つめられた。この前、大弥と連れだって、体育館の脇に消えて行った瞳。告白したのだろうか。聞く権利はある。そんな気がした。

 

 バシューっと噴きこぼれる音がして、良子は台所にすっ飛んで行く。シチューの鍋が噴きかけたのだ。とりあえず夕飯の方を先に済ませようとそのまま腕まくりをして台所に立った。連絡は夕食後でもいい。先延ばしにするのは性に合わないけれど、もう少し、あと少し、気持ちに余裕ができてからで。

 背中越しに満流が血相変えて玄関から出て行ったことには気づかないまま。

 

 頭がパンクしそうにふくらんで、一気に沸騰してくる。思わず、外に出て、冷たい外気を胸一杯に吸い込む。何も考えず、そのまま自転車を飛ばして、気がついたら、満流は瞳の家の門の前で、自転車にまたがったまま片足で立っていた。

 

 しばらく玄関を見つめていると、玄関灯がポッと灯って、マリが門の前まで出てきて郵便ポストを覗いた。門灯も灯り、人影にふっと目を上げて、マリは怪訝そうに自転車ごと突っ立った満流に目をやった。

満流は軽く会釈して、間髪入れずにすぐにUターンして、来た道に向かって自転車を飛ばした。何してるのか、十分でもさっぱりわからなかった。

 

 家に帰り着いて、玄関を開けると同時に電話が鳴った。そして一度鳴って切れた。台所から顔を出し、迷惑そうな顔をする良子を制して満流は電話の前に立った。

 ゆっくりとプッシュボタンを押す。そして、すぐに切る。すると、間髪入れずにまた、一度、電話が鳴って切れた。満流もまた、一度鳴らして切る。もう一度かかった時、やっと電話は二度、三度、鳴り続けた。

「もしもし。」

満流はゆっくりと受話器を上げて、落ち着いた声で瞳に向かって話しかけた。

「おまえやったんや。」

 

 瞳はそれには答えないで、

「明日、がんばろうね。ちゃんと、ミカにもらったお守り持っとる?」

「ああ。」

「じゃあ。」

そう言って、ぷつんと切れた。それだけで、満たされた気持ちになった。ただ、瞳の声を聞いただけで、「がんばろうね」と言ってもらえただけでもう、満流は十分だった。

「誰?誰やったん?」

良子が不思議そうにキッチンから満流の顔をうかがう。

「ああ、…えっと…てつ。」

とっさに浮かんだ名前を出す。

「え?いつものいたずらも?」

「違う違う、今日だけよ。」

あわてて否定する満流に、良子は腑に落ちない顔をしながらも、それ以上は何も言わず、出来上がったサラダボールをテーブルに置いた。

 

 夕飯の後、満流は引き出しを開けて、奥に手を突っ込む。そして、制服のポケットにそっと入れた。階下では良子がケラケラ笑う声が聞こえた。

 

 入試二日目。英語と理科だ。祐二と連れだって教室に入ろうとすると、瞳が廊下の向こうで目配せをした。手に何かを持って、こっちに向けている。

「あいつ、なにやってんの?」

祐二が先に気付いた。

 手にしているのは、昨日ミカにもらったのと同じ紫色のお守りだった。満流も右ポケットからお守りを出して掲げた。そして、同時にそっと左ポケットにも手を入れた。

 

 英語も何とかなったような手応えはあった。祐二も、全て終わってしまったら、もうすがすがしい顔をしていた。廊下に出て、隣の教室にいる瞳の姿を探したけれど、他の女子数人と一緒にいたので、そのまま祐二と帰った。

 

 今日から自由。受験勉強から解放されて、満流は何だか張りつめていた気持ちが一気に緩んでこのまま永遠の眠りについてしまいたいくらいだった。

 ベッドに横になる。目をつむる。満たされた気持ちと、一抹の不安。もし、落ちてたら……。でも、それはすぐに開放感で消えていく。とにかく終わった。がんばった。今までの人生で、一番。いや、がんばったこと自体、人生で初めて。

 

 卒業式、答辞は生徒会長の大弥が蕩々と読み上げた。満流からは、後ろに座っている瞳の様子はうかがえなかった。君が代を歌って、校歌を歌って、最後に芳村のはからいで、今の心境にぴったりのはやりのポップスを在校生一同が歌い始めたら、すすり泣きの声が増してきた。

「永遠の思い出を…」

 体格の良い芳村が、鼻を真っ赤にしながら、大粒の涙を流しているのが気の毒だけどちょっと笑えた。

瞳は顔を上げてまっすぐに正面を向いていた。こんな中途半端なまま、泣けるわけがない。はっきりさせたい。自分の気持ち。多分もう、迷わない。だって、探し当ててくれたから。

 

 翌日が合格発表。祐二と二人で掲示板の前に立つ。満流の番号はすぐに見つけられた。けれど、祐二の番号はどこにもなかった。祐二を気遣いながら瞳を探すと、瞳が父親と、二人同じように目じりを下げて、笑っている姿が見えた。その横ではマリも細い目を一層細くして笑っていた。

 

 良子が出かける前に用意していたサンドイッチを一人で食べていると正文が満流の正面に座った。

「ようがんばったな。お父ちゃん、お前を尊敬するわ。」

この人の顔を見ると、なんだか嬉しい気持ちが半減する。

「お父ちゃんのこと、まだ許せんのか。」

唐突に言われ、落とした視線に喉仏がボコッと出た父の細い胸ぐらが映り込む。

「別に」

横を向いて無関心を装おうとした。

 あの日のことは、何度擦っても、消えない。思い出さないようにしていたのに、この人の存在を無視することで、記憶の奥に葬り去ろうとしていたのに。

 言いたくないのに言葉が口を突いて出た。

「別に、許すとか許さんとか、そんなんじゃない。けど」

正文の筋張った首筋。しわだらけの焼けた細い腕。くたびれた革のベルト、ちっぽけな、泣きそうな、そんな姿になんだか怒りが込み上げてくる。

「俺は、俺はあんたのようには絶対にならん。」

「ああ、なるな。とうちゃんみたいにはなるな。おまえなら大丈夫や。」

正文は今、しっかりと満流の目を見て、なぜか誇らしそうにそう言った。

 なんなんだ、この人。こんちくしょう。なんでそんなこと言うんだよ。悔しくないのかよ。息子にそんな偉そうに言われて、腹立たないのかよ。

 怒りと疑問、悲しいわけじゃないのに、頬が濡れてきた。なんでここで涙なんだ。一度出ると洪水のように溢れ出す。悲しいのか、悔しいのか、フラッシュバックかわからない。意味が解らない涙に、体ごと押し流されていく。こんな奴の前で泣くなんて嫌だ。

 二階にあがろうと正文に背を向けた瞬間、正文が満流の肩を後ろからがっちりと掴んだ。がたがた震えていた。掴まれる前から。震えが止まらない。自分の方が力があるはずなのに、小さな正文の腕に抵抗できない。

 ふと思い出す。とびかかってふり払われる前までは、腕にぶら下がったり、首に抱き着いたり、父の肩車で柿の実をとったりもした。小さい頃、遊んでもらいたくて、いつもまとわりついていた。細いけど、力のあるこの腕。俺はたぶん、その頃、この腕にあこがれていたんだ。

 震えがだんだんおさまって、涙もやっと、止まったら、正文も腕を離し、目を潤ませて、肩をポンとたたいた。

「おまえは母ちゃんに似て、がんばりややけん、大丈夫や。」

そう言って、右手で涙を拭いた。やっぱり何も言えなくて、目も合わせられなくて。でも、少しだけ、前には進めたような気がした。

 顔を洗って満流は気を引き締めるために両手で自分の頬をたたいた。パンパンとはじける音がして、澄んだ気持ちがプラスの方に高ぶってきた。俺は合格したんだ。俺は、確かに、合格したんだ。俺が戦ってたのはあいつなんかじゃない。大弥でもない。俺はとにかく、まあとにかく、受かったんだ。それ以上でも以下でもない。

 

 一時に学校へ集合。公立高校が第一志望の者は、全員職員室に集まることになっていた。

 満流は一人で学校へ向かった。何気なく道端を見ると、満開の菜の花が風にふわふわ揺れている。歩いても歩いても、菜の花は途切れない。今まで、そんなの見ようとしなかった。でも、見てみると、びっしり密集した菜の花は、四方八方を向きながら、長いのや、短いのや、いろいろありながら、大きな黄色い帯になって、風に揺れて、通る人を優しく見送ってくれるよう。正文が、手入れして、大きく長く、広げた菜の花畑。満流は立ちどまって、ゆっくりと、しっかりと、見渡した。

「まあ、きれいな菜の花畑。今年はぬくかったけん、はよう咲いたんやねえ。」

同じように立ちどまって、見知らぬおばさんが携帯で写真をパシャリと撮った。

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 「伊勢大弥が好き。」

耳の奥で、瞳の声が、何度も何度も繰り返し聞こえる。リフレイン。リフレイン。リフレイン。

 なんで、俺に言うんだよ。しかも、なんでよりによって、大弥なんだ。

 眠れない。ベッドの上で、満流は頭を空っぽにしようと天井を見上げる。瞳の黒目がちな大きな眼、そして突然、さっきの浅黒い、彫りの深い瞳の父親が天井に浮かび上がる。瞳と同じ、大きな二重瞼。まっすぐに俺を見た。笑ったときの少し下がった目尻は、瞳と違って、人なつっこく、親しみがもてた。満流よりもさらに高い身長、紺地にピンクの水玉の、おしゃれなネクタイ。ぱりっとした黒のスーツ。

 

 はっ、全然ちがう。満流は天井に向かって大きく首を振る。

 

 いつも色あせたポロシャツを着て、背中を丸めてる人。満流と視線を合わせようとしない、力のない窪んだ目。酒の力を借りてしか、自分を表現できなかった人。家族をばらばらにした自分の父。

 

 唐突にある光景が満流の脳裏に浮かぶ。良子と寄り添う瞳の父親。それを見ている父。大弥と寄り添う瞳。それを見ている自分。乾いた唇がびりっと裂けて、薄いピンクの血が滲む。

なんだよそれ。

 天井に浮かぶ二人の影。ピンクの血が、赤褐色になって、茶の木目に、じわじわと浸み込んでいく。影はじりじり大きくなって、部屋全体を呑み込もうとする。

 いやだ。なりたくない。あいつみたいに、なりたくない。俺はあいつみたいに、下を向いて生きるのなんて、いやだ。

 

 トシヤの心の奥でかすかに何かが始まりかけたのは事実。でも、それは、一夜でかすんで消えた。

マリの目は朝少しだけ腫れぼったかったけれど、夕方瞳が学校から帰った時には、いつものマリに戻っていた。両親の仲はいつも通り。昨夜のことを、瞳は何も聞くことができなかった。

 

 満流は朝から頭が割れるように痛い。昨日なかなか寝付けなくて、うつらうつらしてきたと思ったら下の寝室からぼそぼそと話し声が聞こえて。気になって、なおさら眠れなくて。今朝起きたら悪寒がして、熱を計ると三十九度近くあった。

「昨日じゃなくてよかった。」

良子はいつもの快活な母に戻っていた。

「今日は一日ゆっくり休みなさい。」

そう言って、自分はばたばたと仕事に出かけていった。

昼前に、正文が、様子を見にドアを開けた。なんとなく、ベッドで目を開けていた満流は正文と視線が合って、すぐに目をそらした。

「昼飯、食べれるか?」

もうしばらく寝かせてほしいと言うと、正文はうなずいて、部屋を出ていった。後ろ姿をちらっと見たら、丸い背中が老人のように弱々しい。布団をかぶって目をつむった。体がますます熱くなって、汗が全身から吹き出てきた。

「俺は八洲に入ってやる。負けたりなんかしない。俺はあいつとは違う。」

 今初めて、本気で八洲に入りたいと思った。負けたくない。ただ、ただ、負けたくない、そう思った。朝飲んだ解熱剤の効果もあって、汗と共に一気に体温が下がっていった。ぐっしょりと濡れた布団の中で、しばらくひんやりとした感触に浸っていた。しばらくすると、体がすっと軽くなった様な気がした。冷たい布団からそろそろと這い出て、着替えるために下に降りた。

 リビングで正文がテレビをつけたままぼんやり新聞を読んでいる。台所には一人用の小さな土鍋にお粥が用意してあった。何も言わずにダイニングテーブルで、満流は一人、お粥をすすった。冷えたお粥がのどを通って胃にたどりつく様が感じられるほど、空腹だったと気づいた。

 

 「満流ぅ、どう?」

玄関ドアがばんと開いて、良子が小走りで台所に入ってきた。自分の手のひらを満流の額に当てる。

「まだちょっとあるね。」

そう言って、目をテーブルに落として

「なに、あんた、温めもせんと。そんな冷たいの食べとんの?」

あきれた顔でそう言って、温めようと土鍋を持った瞬間、つるりと手が滑って、土鍋が床に落ちて大きくかぱっと割れた。食べ残したお粥は床にだらりと散らばった。

「もう…。」

良子はいらいらした風に満流に背を向けてすぐに片づけ始めたが、そのうち動きが緩まって、一点を見つめて床に座り込んだ。

 正文はリビングで、相変わらず新聞を広げたまま。満流はなんだかそこに自分がいることが、間違っているような気がして、音を立てずに二階の部屋に上がった。

 

 翌日学校に行くと、廊下でてつが待ちかまえたようにしてすり寄ってきた。

「みっくん、密かにN高受けた?」

「はあ? んなわけないじゃん。」

「じゃやっぱ、ニセダイヤか。」

昨日、五年ぶりに我が校からN高合格者が一人出たと噂になっていると言う。みんなは大弥だと言っていたが、てつは満流の可能性を一人で信じていたのだ。

「ダイヤ、東大行くのかなあ。」

てつが夢でも語るような目をしてつぶやいた。そしてすぐに情けない目になって、俺なんて、I高滑ってたらどうしようかと思ってるのに、なんて言う。

 教室に入る。社会の授業は三権分立について。

「大弥、総理大臣になるかな。」

斜め後ろのモリがそっと満流に耳打ちする。みんなダイヤがうらやましくてたまらないらしい。自分の怠慢は棚に上げて。

 満流はあいまいな笑みを浮かべる。

「さあね。」

もう一列後ろの瞳の席がぽつんと空いている。今日は瞳が受ける私立高の受験日だった。

 

 I高は、満流もてつも祐二も、あのモリも合格。やはり、受けた者全員が合格だった。

 

 公立受験の二日前、卒業式の練習があった。満流が何気なく前を見ていたら、気まずそうにこっちを見ているえみりの視線にぶつかった。何となく視線を外す。視界の隅で手で顔を覆うえみりの気配が感じられた。

 抱きしめて、キスをして、恋人同士のようなことをしながら、心はどこにあったのだろう。好きだったとは思う。だけど、本当に好きか、一番好きかと聞かれたら、答えに困る。

 この前、瞳と向き合って、心の底からわき出た思い、あれが俺の押し殺していた思い。唇が触れた瞬間、沸き起こった炭酸水が弾けるような幸福感。全世界を巻き込んで、高速回転で巻き散らしたい生のパワー。あれが本当の俺の気持ち。瞳が俺を好きじゃなくたって、変わるものなんかじゃないと、今頃になって気づいた。だからって、どうなるものでもないけれど。

 

 練習が終わり、解散。もう、あと一週間で中学生にはお別れだ。どうってことない。何もない。俺はまだ、何も残せていない。勝負はこれから。

 視界の中に瞳がいた。目で追う自分。情けないけれど、これが自分。そして見てしまった。瞳がまっすぐ大弥のところに進んで行って、二人で体育館から出て行ったのを。

 てつや祐二としゃべっていても、何をしゃべっているのかわからなくなって、いつもと逆転して、てつに思いっきりつっこまれた。

 

 入試当日。満流は祐二と連れだって、八洲高校に電車で向かった。

「みっ君、俺、昨日ひろしのとこ行ってきた。」

祐二がいきなり真顔で言った。丸い目の奥に強い芯が感じられた。満流はその先を待った。

「謝っても許してもらえんかもしれんけど、謝ってきた。」

「うん。」

「一緒に合格して、ひろしを喜ばせような。」

 

 正門のところで、入っていく制服の中学生の波の中で、一人紺のジャージ姿のミカが流れに反して外を向いて突っ立っていた。誰かを探しているようで、満流と祐二が近づくと、ぱっと笑顔になって、つっこんでたポケットから手を出して、

「これ、あげる。」

そう言って、小さな包みを二人に差し出した。

「おいずしさんのお守り。爺ちゃんの病気も良くなったし、御利益あるんよ。」

満流と祐二、二人に同じものを同じように渡した。そして、「がんばってね。」そう言って、手を振りながらランニングで行ってしまった。

「おかしな奴。」

二人で顔を見合わせた。

「あいつ、みんなに配って回ってるんかな?」

「さあ。」

中身は合格祈願のお守りだった。出石寺と書いてある。ミカ、ここまで走って来たのか? 根性あるなあ。なんて祐二が変なところで感心している。

 

 一日目が終わって、祐二は微妙な顔をしていた。満流の方は、問題は明日の英語。苦手な英語がどこまで得点できるかが、満流の合否の要だと、いつも家庭教師に言われ続けていた。

 

 良子がイスにどっかと腰をおろして、手帳を見つめながらため息をついた。別にやましいことは何もしていない。顧客にチョコレートを配って、最後に回ったのがトシヤの事務所。それから数人で行く食事会に誘われて、松山まで行って盛り上がって、若い子らはそのまま飲み会に行ったから、最後に二人でお茶を飲んだ。そう、それだけ。それを偶然マリの友達が見ていたみたいで、勝手に誤解して……

 でも、楽しいと思った。確かに、ずっと忘れていた遠い気持ちが湧き出てきていた気はした。閉じ込めないといけない、開放してはいけない気持ちがそこまで来ていた気がした。

 

 あれからマリとは連絡をとっていないが、一件確認しなければならない書類がある。書類の上部にメッセージを簡単に書いて、立ちあがって、ファックスの送信口に書類を入れ、マリの家の電話番号をプッシュした。だけど、一度のコールですぐに切った。やっぱ、いきなりファックスを送るのは失礼よね。溜息を一回ついて、なんとなく振り返ると満流がそこにいた。

 「あんたいつからそこに」言いかけたら電話が鳴った。一回目のコールが終わるのを待って、良子が受話器を上げると、ツーという音。

「ワンギリや。最近無い思うとったら。」

満流に向かって苦笑しながら、ちょっとバツが悪そうに肩をすくめた。

 

 先送りにしてきたことが、満流の中ではじけそうになる。

 ワンギリ…最初はえみりかと思っていた。でも今の。瞳の家にかけた直後に返事のように返ってきたワンギリ。

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 新学期を迎え、三年生の教室は感傷的になっていた。もうすぐ、卒業、もうすぐ受験。

 八洲の滑り止めに満流が選んだ市立高校は、祐二もてつも滑り止めに選んでいる、金さえ払えば誰でも入れる例のI高。

 遠くてお金もかかる私立はあくまで滑り止めなのは田舎の中学の常識。みんな公立狙い。だから公立の方ががぜん偏差値は高くなる。もちろん、大弥やミカのような例外はあったけど。

 二月に入るとクラスの雰囲気は受験一色。あのモリまでが、数学の参考書を真剣に見つめてる。ぎりぎりなヤツも、投げやりなヤツも、結局みんな何としても、どこかにひっかかりたい。人生最初の勝負どころに失敗したくなくて。切羽詰ってから焦ってる。

 

 I高の受験日は二月十四日。満流は良子からお守りタイプのチョコレートを渡された。「かーちゃんのチョコなんてご利益ないって。」そう言って笑ったけど、一応素直に鞄に入れた。

 てつも祐二も、モリらも一緒だったから、早朝の行きの電車は修学旅行気分。はしゃぎすぎて頭から英単語がぽろぽろこぼれるんじゃないかと心配する程だった。片道二時間の道のりが、あっと言う間に感じられた。

 家に帰り着いたのは五時。食卓にはもう夕食の支度が整っていた。良子は仕事で遅くなるから、三人で先に食べれるよう用意してあるのだと、美咲が舌足らずなしゃべり方で得意げに報告した。冷めたてんぷらをレンジでチンして三人で夕食を食べてしばらくうとうととしていたら、電話が一回鳴って切れた。そして続いて今度は何度もコールが響いた。

 

 寝ぼけ声で受話器を取ると、聞こえてきたのはかすれた低い、瞳の声だった。

「満流?」

「……うん。」

間髪入れずに瞳は言った。

「うちのお母さんいますか?」

「え?……いないと思うけど。」

満流は念のため、一応子機を持って家の中を回ってみる。窓から外の車庫も見てみたけれど、母親もまだ帰っていない。なんだか狼狽してしまう自分が情けなかった。瞳が何を言っても、自分はただ、おろおろして、問われたままに答えるだけ。未だに。

 「ママから電話あったの、知ってる?履歴に残ってるんだけど。」

七時頃からうとうとしていた満流は、八時にここにかかったはずという電話には気づかなかったし、出てもいない。正文か、美咲がとったのだろうけど、二人とももう寝ているようだった。

「お母さん…良子さん、どこにいるの? 携帯つながらないんだけど…」

「……どこかはわからんけど……。」

どこにいるかは聞いていない。基本、聞かない。時計を見ると十時を回っていた。

「でも、もう帰ってくると思うけど。」

続けてそう言った。

「そう、……じゃあ…、」

そう言うので、切るのかと思っていたら、

「今日、どうだった?」

さっきとは少し変わって優しい声で瞳が続けた。

「どうって?」

「I高。」

「ああ。」

そう言って、少し置いて、

「多分、できたと思う。」

「そう、それはよかった。」

瞳がくすっと笑った気がした。少しだけ、二人の間の隙間が埋まった。今なら言える気がした。

「あの」

「なに?」

「ノート、とってくれて、サンキュ」

一瞬沈黙。そして、

「ああ、別に、暇だったから、」

そう言われると、もう次が出ない。また距離が遠くなる。次の言葉が出てこない。またもや沈黙。だけど思いがけない次の言葉。

「うちのママがね、帰ってこないんよ。」

少し語尾を震わせて、でもはっきりした声で瞳は言った。唐突に言われたので、とっさに言葉が出てこなかった。満流はやっぱりただ、「え?」と言ったきり。

「何かわかるかなと思ってかけたんだけど…。」

ぽつんとそう言って、瞳は自分から電話を切った。切った途端、

「ただいまあ。満流、試験どうだったん?」

やけに明るい良子の声が玄関から響いた。

 瞳の一件を伝えると、良子は不審そうな顔をして、バッグから携帯電話を取り出した。充電切れ。この時初めて電源が切れていることに気づいたようだった。アポを取って会いに行くような仕事ではないし、毎晩充電する習慣がないから、よくあることだ。家のファックス電話の受話器をとってリダイヤルで電話を掛けた、

 

 電話から漏れ聞こえたのは、マリがうちの家と良子の携帯に電話してそのあとすぐに出かけたまま、二時間以上たつのに帰ってこないということだった。電話を切ると、良子は思いぶりな顔で奥の和室に行ってしまった。

 十一時を少し過ぎた頃、再び電話が鳴り響いた。すっかり目が覚めてしまった満流はテレビのバラエティー番組をぼーっとながめていた。

「もしもし。」

思った通り、瞳の声がした。

 

 どうしてこんなに早く、自転車を走らせているんだろう。えみりに振られて、もう女なんかはこりごりだと思った。女なんかに関わりたくないと思ってた。なのに俺は、なんでこんなにも急いで、瞳の要求に応えようとしているのだろう。

 風が痛いほど冷たい。耳も鼻も真っ赤になってきてるのがわかる。手袋の中の手の先だってハンドルを握る形のまま凍り付きそうだった。だけど、ダウンジャケットの中の体はペダルを踏めば踏むほど熱くなってくる。心はなんだか瞳の元へ駆けつけることに浮き足立っている。「来てほしい」なんて、面倒くさい。そう思いながら、夢中でペダルを踏みしめていた。

 

 五分そこそこで瞳の家の大きな門の前についた。センサーが満流を関知して門灯がぱっと点る。それと同時に瞳が玄関から出てきた。

 瞳は濃い赤のセーターとタータンチェックのミニスカート。グレーの厚めのタイツをはいていたけれど、外気に触れて一瞬寒そうにした。

 来ることだけを考えていたから、着いてからどうするかなんて考えていなかった。瞳に言われた通りに中に入り、出されたふかふかの客用のスリッパを履いて、リビングへと歩く。また、でくの坊になってしまう。

「そこに座っといて。コーヒー入れるけん。上着も脱いだら?」

そう言われて、やっと我に返って初めて口を開いた。

「すぐ帰るから。何もいらん。」

リビングは異様に暖かくて、ダウンジャケットを着たままの満流には暑いほどだったけれど、脱いでしまうとなんだか何もかも瞳の指図通り動くのが当然と思われてるようで、少ししゃくに障った。しかし、コーヒーはすでに用意してあって、香ばしい湯気が満流のささくれそうな心を少しだけ柔らかくしてくれた。何も言わず、瞳はコーヒーを満流の前に差し出して、ダイニングテーブルを挟んで満流の対面になる場所で、イスに腰掛けた。

 しばらく沈黙が続いた。すぐ帰ると言いながら、帰れない。

「何しに俺は来たんだろう。何で俺はここにいるのだろう。」

意味をなさないもやもやが、満流の頭で渦巻いていた。

「パパもママも帰って来なくて、連絡もつかなくて…なんか怖い。」

電話口でそう言われ、思わず「行く」と言ってしまった。だけど俺は瞳を守るため、瞳の不安を鎮めるため、こうしてただまぬけに突っ立っているのか。

 ぼんやりと正面を向いていたら、うつむいて、顔の見えない瞳の髪の毛の隙間から、涙が床にこぼれ落ちたような気がした。

 

 近づいて、抱きしめて、涙を拭ってやりたい。衝動的にそう思う。今度こそ、今こそ。でも、足は動き出す気配すらない。強力接着剤でくっつけたみたいに床にへばりついて、一歩も前に踏み出せない。頭と体と口が全てバラバラで、満流は自分自身が何をしようとしているのか、何を言い出すのか、もう自分でもわからなかった。

 コーヒー豆の甘みな香りが満流の心をくすぐって、じわじわと解きほぐしていく。柱時計の振り子がコチン、コチン、催眠療法のように深層心理を呼び覚ます。

「俺は瞳のことがずっと、……」

「俺は瞳が、……やっぱりずっと……」

声には出していない。脳でしゃべった。自分に言ったつもりだった。でもその声は、思いは、瞳に届いた。かすかに。風のように。

 

 

 瞳はふっと顔を上げた。まっすぐに満流を見つめた。その目に涙はもうなかった。

「何? 今、何か言った? 」

そして、

「ちょっと、すごい汗。」

そう言って、イスから立ち上がって引き出しを開けてタオルを出し、満流に渡そうと近づいて来た。

 その瞬間、内側から何かがつきあげてきて、外に向かって放出された力がぐらっと満流を捉えた。差し出されたタオルごと、手を持って引き寄せたら、瞳は満流の動きに合わせるように、抵抗なくすっぽりと胸の中に飛び込んできた。

 赤いセーターの瞳の体が今、腕の中にあった。甘い桃の香りが鼻孔をくすぐる。瞳の香り。リップクリームじゃなく、コロンかな。

 ダウンジャケット、やっぱり脱げば良かった。後悔してももう遅い。ごわごわとしたダウンの膨らみが、二人の間をはばんでいた。はばまれたまま、静かに二人はただ抱き合っていた。まるで恋人同士のように。

 

 五分くらいそうしていただろうか。気持ちはずっとそうしていたかったけれど、額から流れ続ける汗に、どうしてもがまんできなくて、満流は瞳の肩をつかんでそっと自分から引き離した。

「熱い。」

そう言って笑うと、瞳も赤い顔をして笑って、持ったままだったタオルを満流の額にあてて汗を拭った。

 瞳の顔がもうほんの目の前にある。顔を少しだけずらせば、両手で肩を引き寄せれば、去年の今頃毎晩夢見てた、何度も何度も繰り返した、頭の中だけの映像だったあのシーン。瞳の唇に、自分の唇が、直に触れる、キス、することができる。

 

 目が合って、五秒くらい見つめ合って、それでもやっぱり何もできなくて。お互いちょっと笑った。今度は瞳の方が、ダウンジャケットに顔をうずめるようにして、そっと満流に抱きついてきた。そして、瞳が顔を上げた瞬間、どちらともなく近づいて、二人の唇がわずかに触れた。触れた瞬間、光が走った。二人で、目を見つめて、またちょっと笑った。閉ざしていた心がぱちんとはじけて、シュワ―っとコーラの飛沫が広がっていく。じんわりとかみしめるような幸福感に包まれた満流の耳に、囁く籠った瞳の声がくすぐったい。

「うち、好きな人がおるんよ。」

この状態なら誰だって、満流と同じ、期待を抱く。しかも今日はバレンタイン。一度は別れたけれど、二人は強く、結ばれていた。固い心の絆があった。そう。俺は、やっぱり……瞳のことがずっとずっと好きだった。忘れたくても、忘れられなかった。わかっていたけれど、今、それを、真正面からやっと認めることができた。

 それなのに。瞳の口から出た言葉が、満流の耳に届いたとき、拾った音を脳が理解するまでに数秒を要した。乾いた音が耳に虚しくこびりつく。

「イセダイヤが、好き。」

何それ。何なんだよ。全然意味がわかんねーよ。

 

 車のエンジン音が遠くから聞こえる。その音は、だんだん近づいてきて、家の前でぷつんと止まった。玄関ドアが開いて、すらりと背の高い、品のいいサラリーマン風の男性が入ってきた。スカッとしたほのかな香水の香りがふわっと鼻腔をかすめた。

 満流と目が合って、男性は一瞬怪訝そうな顔をしたが、

「長崎満流君。瞳のこと、心配して来てくれたんよ。パパ連絡くれんから……」

そう瞳が説明すると、トシヤは目尻をふわっと下げて、急に人なつっこく微笑んだ。

「君が、……。」

満流をまじまじと優しい目をして見つめながら、

「すまんかったね。君まで巻き添えにしてしまって。」

そう言って、今度はちょっと困った顔をした。後ろにマリが目を伏せて立っていた。

 

 来たときよりも外気はいっそう冷たく感じられた。汗はすっかり冷たくなって、火照っていた体はあっと言う間に芯まで凍り付いた。車で送るというトシヤの申し出を、頑なに断って、満流はがむしゃらに自転車のペダルを踏んだ。何も考えられず、真っ白な頭のまま。ふと気づくともう家の車庫に自転車を止めていた。

 部屋にはいると良子がリビングで座っていた。良子は一瞬顔を上げただけで、別に何も言わなかった。いろんなことがありすぎて、何が何だかわからない。乾燥した冷気で唇がぱさぱさに渇いて、もう、さっきの余韻のかけらもない。まったく。

 

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 今日もえみりが二階の階段の踊り場で満流を待っている。えみりの家は満流の通学路とは逆方向。校門までのつかの間のデートだけど、えみりにとっては大切な時間。他愛のない会話をしながら五分程度歩くだけだったけれど、それだけで、よかった。その間、満流は自分だけのものだった。そして、何よりも、周りのギャラリーが、自分と満流をカップルとして認めてくれることが嬉しかった。一年生の時からずっと好きで、憧れていたんだから。同級生の他のライバルを蹴落として、自分が射止めたんだから。

 退院から周りを固められ、勤勉にならざるを得なくなった満流には、えみりと遊んでる時間はなかった。とにかく、十二月にある最後の模試で、なんとか八洲高受験の切符、担任の許可を手に入れなければならない。もちろん、それがなくても、受験することは可能だが、母も、家庭教師も、一様に、何としても、芳村のゴーサインが出ることを満流に求めた。

 

 毎日のように来る家庭教師は東京のK大学理工学部卒で、技術関係の職についたが性に合わず、今はUターンして、実家の家具屋の手伝いをしている三十前の独身男だ。彼は畑違いの仕事のかたわら、得意な勉強を満流に教えることを自らとても楽しんでいた。満流のゴビ砂漠の脳には水が必要だった。家庭教師は自分の中で持て余していた水を、毎日欠かさず、たっぷりと与えた。満流の砂漠は案外豊富な資源を含んでいて、水はしっかり吸収され、いろんな種を発芽させた。もともと数学は好きだった。確率、場合の数でちょっとつまずいただけ。そこを丁寧に教わると、みるみる成績は上がった。加えて主に漫画と映画からだけれど、国語的センスも案外あって、解き方のノウハウが身につけば、面白いように国語の成績も上がっていった。要するに、書き手が何を言いたいのかをとらえ、出題者がどう答えさせたいのかを見破る。国語は駆け引き。

 理科も社会も参考書を覚えていけばいいだけだし。時間さえかければどうにでもなる。偏差値は、八洲高に、ぎりぎり合格ラインというところまで来ていた。問題は英語。これだけは、理屈じゃなく、丸覚えしなければ、どうにもならない。やみくもな暗記。それは苦痛だった。しかし、イラストで示したコアで覚える英語を身につけると、なんとなく理解できた。英語には英語のニュアンスがある。結局理解。理解から入り、面白さがわかると、覚えることが楽しくなるんだ。

 満流は学校での十把一絡げのちんたらした授業はそっちのけで、ひたすら家庭教師の出す宿題を解いた。マンツーマンで一ヶ月。中学二年分の復習がばっちりできた。あとは、ここ最近習ったことを、また急ピッチで詰め込んでいくだけ。

 与えられた事をこなすことは楽だった。目的も道も、がんばれる環境も全部作ってもらう。言われたとおりにがんばる。自分の能力を持て余し、宙ぶらりんだった家庭教師は、地下に眠った満流の能力をせっせと掘り出す魅力に取りつかれた。二人の関係は、やがて大きな歯車のように寸分の狂いなくかみ合い、ギリギリきしみながらもゆっくりと動き始めた。満流は家庭教師に自分のすべてを任せて、突き進むことができた。もちろん疑問がないではない。だけど、それが正しいかどうかなんて考えてはいけない。今は立ちどまらず、受験という流れに乗って行くだけ。解れば解るほど、もっと知りたくなってくる。ここができるヤツとできないヤツの分かれ目。あんなに覚えるのが嫌だった英語の教科書を、今は二年分、ほとんど暗記できた。覚えればまた、より深く理解できる。教科書が物足りないほど、満流は知識欲にかられた。

 

 十二月に入ってすぐ、事実上受験校を決めるポイントとなる模擬テストがあった。数学と理科はかなりできたと自分でも思えた。国語は漢字以外はとりあえず全部埋めた。社会はまあまあというところ。地理も歴史も頭の中でつながってくれば加速度的に理解は深まる。問題は英語。なんとなくフィーリングで埋めたけど、わからない熟語もあって、自信はなかった。

 模試が終わった日、えみりがクッキーを焼いてきた。満流のために本を見て初めて自分で作ったと言う。模試が終わってせいせいしたのと、えみりの紅潮した頬がかわいかったのと、クッキーが形はいびつだけどけっこう美味しかったのと、なんかいろいろなものがごちゃまぜになって、満流はだれもいなくなった二年C組の教室でクッキーをほうばったその口で、えみりの頬にくちづけた。ミカに言われて、学校では少し離れて歩くことにしていたから、久しぶりのキスだった。

 軽く触れただけだったけど、えみりは頬だけじゃなく、耳たぶまで赤くした。もう、腕のギプスも首のプロテクターもとれて、自由に動ける満流は、えみりの体を正面から両手で抱きしめた。そして、クッキーを飲み込んで、今度は唇にキスをした。えみりも満流の体にしっかりと腕を回し、満流を受け止めた。そして、

「もっと一緒にいたいな。」

そう言って、真っ赤な顔のまま、満流を見上げた。

 

 ひと月がんばったから、ちょっと休憩。そんな気分で満流は自宅から反対方向のえみりの家に向かっていた。最初の頃のように、えみりをもう、面倒くさいとは思わなかった。かわいくて、愛しくて、ふわふわの体を、ずっと抱きしめていたくて。

 

 十五分ほど歩いたところにえみりの家はあった。ちょうど満流の家とは学校をはさんで同じくらいの距離になる。キティちゃんだらけの子供っぽい部屋だった。家には誰もいなかった。

 えみりの顔の倍もある一番大きなキティのぬいぐるみを「これもーらい」とにぎって「じゃあ」と冗談で帰ろうとすると、えみりはわざとらしい甘えた声で「だめえ」と言って、満流の上着の裾をつかんだ。

 ぬいぐるみを放して満流はえみりの体を抱き留めた。そして、部屋の奥のベッドに二人で倒れ込む。あまいスプリングのマットに、二人の体が大きく弾んだ。

 えみりに馬乗りになるような格好で、満流は上からえみりを見つめた。そして、ホワイトベージュのセーターごしに、右手で胸に触れてみた。えみりは固く目をつむっていた。そのまま満流はセーター、ブラウス、その下のキャミソールを、順番にたくしあげていき、やっと現れたブラジャーの中央から、こぼれ落ちそうなえみりの生身のバストを鷲掴みにした。

思いがけなく柔らかくて、拍子抜けがした。こんなにも、とろけそうなくらい柔らかいなんて。

 頭は冷静なつもりだったのに、体の芯だけ硬直し、外に向かって力が出ない。そうしたいという衝動は確かにそこにあったけれど、肘から先に力が入らず、そこから先にはどうしても進めない。胸に当てた手を離し、体をひねって、えみりと並んだ格好で、ベッドの上にあおむけになった。えみりはたくし上げられたブラウスとセーターを下にひっぱって、上半身を起こし、座った格好のまま反対側を向いてうつむいていた。そしてしばらくして満流に向き直って、「いいよ。」と言って両手で満流の右手をとった。

 放心したように天井だけを見つめ、そのまま寝転がっていた満流は、握られた右手をできるだけ優しく放して、勢いをつけて上半身を起こし、ベッドから降りて

「俺、帰るわ。」

変な風に聞こえないように、注意して小さい声で言った。

 後ろでえみりの鼻をすする音がした。そんなつもりじゃなかったのに。泣かせるつもりも、いやな思いをさせるつもりもなかったのに。ちょっと息抜きがしたかっただけなのに。

 振り向くと、もっといやな思いをさせるような気がして、どうしていいかわからなくて、満流はそのまま黙ってえみりの部屋を出て、玄関ドアの鍵を開けて、外に飛び出した。

 こんなことしてたんじゃ、八洲、狙えなくなるなあ。そんな思いが頭をよぎった。えみりの唇の感触が、舌のなめらかさが、胸の柔らかさが、触れた部分から溶けていくように気持ちよかったのは確かだったから。

 溶けそうになる体を阻止するように、満流は全速力で自宅に向かって走り出していた。考えちゃいけない。今は何も。受験のこと以外は。良子と家庭教師にうまく洗脳されている。でも、本当に自分がやりたいことなんて、わからないから。母がそれを望むなら、それが自分の望みだと思えばいい。

 

 模試の結果は二週間後に返ってきた。校内で十八番。一気に百番越え。短期間にここまで成績が上がるとは思っていなかったので、自分でも驚いた。志望校別の順位でも定員二百名中、百二十位。偏差値でも合格圏内だ。八洲高がぐんと近づいてきた。もちろん、芳村はゴーサイン。

 良子は満足げに微笑んだ。家庭教師は、英語がまだまだだなと冷静に分析したが、きつねのような細い目の端には安堵の色が浮かんでいた。

 

 期末試験でも、満流はこれまでにないすばらしい成績をあげた。学年で十番。奇跡的な順位だった。二学期も終わりに近づき、えみりとは接触のないまま三週間近く経っていた。

 いつも放課後、階段の踊り場で満流を待っていたえみりは、あの日から姿を現さなかった。受験に専念するため、携帯電話は良子に取り上げられて、メールもできない。

 終業式の時、体育館で斜め前の二年生の列に並んでいるえみりの横顔が見えたけれど、えみりはいつもと違って、三年生の列を一度も振り向かず、頑なに前を向いていた。

 

 冬休みに突入し、朝から晩まで勉強ばかりの毎日が続いた。さすがに三日目には満流は息切れしてきた。朝から良子は仕事で外出。正文は畑に出たまま。妹は昼から近所の友達の家に遊びに行っている。家には誰もいなかった。

 シャープペンシルを鼻の下に挟み、イスの背もたれに全体重をかけて天井をあおいでぼーっとしていると電話が一度鳴って切れた。最近多い。あきらかに故意だと思える。

 「えみり…」自分でも不思議なくらい即行で、受話器を上げて、生徒手帳のメモ欄にえみりが自分で書いた丸い字体の番号を見ながら、満流はプッシュボタンを押していた。

 

 長かった。十回くらいのコールの末、甘ったるいえみりの声が耳いっぱいに広がった。

「もしもしぃ?」

「……あ、俺」

「え?……満流君?」

そう言ったきり、えみりは黙り込んだ。しばしの沈黙。

「久しぶり。」

「うん。」

「何しよったん?」

「メール。」

えみりが一言ずつしか返さないから会話が進まない。

「うち、来る?」

まどろっこしいからダイレクトに誘ってみた。無性にえみりに会いたいと思った。えみりの柔らかい唇に触れたいと強く思った。

「満流君……」

「何?」

「あのね。」

鼻にかかったふわふわした甘い声。英語でびっしりだった満流の頭に、マシュマロの風が吹いて、少しずつ単語の山が崩れて溶けていく。

「満流君は本当にえみりのこと好き?」

何度か聞かれた言葉だった。結構はぐらかしてきた。でも、今日は答えられる気がした。

「うん。」

「一番好き?」

新たな難題。一番? 一番も二番もない。今の気持ちはただ、なんとなく、えみりに会いたかった。

「多分……。」

笑いながら言ってみた。えみりの柔らかい猫っ毛が頭の中で風に揺れる。会って、えみりに触れたい。それが今の素直な気持ち。えみりを傷つけようなんて思わなかった。でも、なぜか、一番とは言えなかった。

「やっぱり……満流君はえみりのことなんてどうでもいいんやね。」

さっきまで優しく吹いていた風はその言葉にぱったりと止み、しばらく沈黙は続いた。そして、

「えみりね、この前、告られたんよ。さっきもその子とメールしよった。」

「……。」

「まだ返事はしてないんやけど、」一呼吸おいて、

「つきあおうかな。」

ゆっくりとえみりはそう言い、そのまま黙って満流の返事を待っていた。考えるより先に言葉が出た。

「つきあいたいんなら、つきあえば?」

少し待ったけれど、えみりは何も言わないので、満流はそのままがちゃんと電話を切った。なんと言えばよかったんだ。突然のことに頭は回らなかった。つきあって欲しいと言うからつきあった。他の子とつきあってみようかなというからつきあえばと言った。俺に何を言わせたいんだ。めんどくさい。そいつの方がいいなら、そうすればいい。頭のてっぺんで冷たく細い風が吹き、四方八方に意味をなさないアルファベットの瓦礫がしゅるしゅると吹き荒れた。地面に落ちたマシュマロは熱に溶けてだらしなくアスファルトにへばりつく。

 

 てつに会いたいな。家に行ってみると誰もいなかった。その足で祐二の家にも回ってみる。祐二も留守。手袋してくればよかったと後悔した。晴れているから最初、そう寒いとは感じなかったけれど、外にいるとじんじんと寒さがしみてくる。自転車を飛ばした。

「何してるんだろ、俺」

できるだけ早く家に帰ってこたつに潜り込みたかった。もういい。もう女なんかウンザリだ。

 

 新学期を迎え、三年生の教室は感傷的になっていた。もうすぐ、卒業、もうすぐ受験。

 八洲の滑り止めに満流が選んだ市立高校は、祐二もてつも滑り止めに選んでいる、金さえ払えば誰でも入れる例のI高。

 遠くてお金もかかる私立はあくまで滑り止めなのは田舎の中学の常識。みんな公立狙い。だから公立の方ががぜん偏差値は高くなる。もちろん、大弥やミカのような例外はあったけど。

 二月に入るとクラスの雰囲気は受験一色。あのモリまでが、数学の参考書を真剣に見つめてる。ぎりぎりなヤツも、投げやりなヤツも、結局みんな何としても、どこかにひっかかりたい。人生最初の勝負どころに失敗したくなくて。切羽詰ってから焦ってる。

 

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 翌日、数学教諭は意外そうな顔をして、昨日のテストのトップを発表した。

「長崎満流、百点。」

いつもトップから答案を返すのがポーカーフェイスのこの教師の常だが、今日は、誰もが予期せぬ名前。しかも、満点。

 教室にどよめきが起こった。みんなが一斉に満流の方を見た。当の満流は教師から答案をもぎ取って、バツが悪そうに右手で頭をかいた。

 瞳もびっくりして思わずみんなと同じように満流を見つめた。

「俺も、開田にノートとってもらえばよかった。」

満流が席につくなり、いつも赤点すれすれのモリが、笑いをとろうと思って大げさな口調で言った。周囲の者達は、ただにやにやしている。眉毛の端がぴくっと動いたけれど、動じないふりをして、別にどうでもいいように、満流は薄く笑った。瞳は何も聞こえなかったかのように、窓の外を見つめるふりをした。

 

 

 十一月に入ってすぐに文化祭があった。寒い日が続いていて、小雨の中決行した屋外でのバザーは、凍えるくらいだったけれど、テントの下で食べるあったかいうどんが一層おいしく感じられた。一通り日程を終えて放課後、やたらとカップルが目立つ時間帯。満流もまた同類。北校舎二階の角、えみりとの待ち合わせの場所には今日は先客あり。倉庫に上がる三段ステップの二段目に誰かが座り込んでうつむいていた。タイトな体つきで、えみりではないとはすぐにわかったけれど、もしかしたらと思ったけれど。黒いまっすぐな髪が、顔全体にかかって、顔が見えなくて、人の気配で顔を上げた瞳が先にあっと声を上げた。

 文化祭、瞳は午前の部活披露のステージで体操の模範演技をする予定だったけれど、当日になって、プログラムは変更されていた。ステージには上がったけれど、ジュニア選手権四国大会四位という賞状を受け取っただけだった。終始下を向いて、なんだか元気のない様子だった。四国大会四位。それは、瞳には喜べる成績ではない。中学総体と同じ、あと一歩で全国大会をのがしたのだから。コーチのがっかりした顔、マリのわざとらしい慰め、どれもこれも、うんざり。一人になりたい。一人で泣きたい。そう思った。でも、泣けなかった。

 立ちすくむ満流の前をすり抜けて、瞳は走って行ってしまった。少しして、逆サイドの角からえみりがにこにこ顔をのぞかせた。

 

 翌日、朝の会が終わって、日直の合図で立ち上がった瞬間、急にがたんと音がして、瞳が倒れた。一瞬の貧血だったようで、すぐに意識を取り戻し、起き上がったけれど、芳村の指示で保健委員に付き添われ、保健室に運ばれた。

 お調子者のモリが「開田、アレだったんじゃない?」なんて、知ったかぶりに言って、女子に白い目で見られていた。

 母親が迎えに来て、瞳は早退した。放課後、何も知らずに瞳と一緒に帰ろうとB組に寄ったミカは置いてきぼり。教室から出てきた満流らにちょうど鉢合わせたので、満流やてつとふざけながら校舎を出た。周りに人がいなくなって、急に満流に小声で耳打ち。

「あんた、昨日、えみりと廊下でキスしてたいうてほんと?」

満流は絶句した。見られてた。見えないと思っていたのに。満流のどぎまぎにミカはあざけるように言った。

「デマかと思うとった。ふうん、えみりとねえ…。」

えみりがバスケ部をやめたのは、おしゃべりばかりでよくサボるえみりをミカがいじめたからだという噂もある。噂の真偽は定かではないが、えみりの印象がよくないのは定かみたいだ。二人から離れ、自転車置き場から自転車を出そうとするミカに、てつが大きな声で言った。

「仲野、推薦きたんだろ?行くの?」

ミカにバスケの名門、松山の私立高校からスポーツ特待生として推薦の申し込みがあったのは校内で話題になっていた。ミカは頷いて、

「うち、バスケだけがとりえやけんね。」

そのバスケでも認められない俺達はとりえなしか。そんな気持ちで満流は溜め息をついた。

「ま、あんたたちの分までがんばるわさ。」

ミカは溜め息の意味をとらえて皮肉っぽく笑い、ヘルメットをかぶり、自転車にまたがって颯爽と行ってしまった。

 

 校門の前の自販機でコーラを買おうとしていると、てつが満流に目くばせする。背筋を伸ばし、まっすぐ前を向いて、歩いてくる「ニセダイヤ」二人で同時に呟いた。

 本当の名は伊勢大弥。新入部員の自己紹介で、自分の事を「ダイヤモンド」の「ダイヤ」だと言って以来、満流たちの間で苗字をパロッて「ニセダイヤ」と呼ばれていた。彼は一年の時、誰よりもバスケがうまくて誰よりも練習熱心だったのに、一年で部活をやめた。男バス部で唯一ミカのように、推薦が来たかもしれない奴だった。二年になって、パソコン部に入り、生徒会長もこなし、今は全国でも有名な進学校N高校に目標を定めて勉強しているらしいというもっぱらの噂。その大弥が目の前を通り過ぎる。

 

 「おまえ、なんでそんなにサボるの?」

一年の時、大弥に聞かれてにやけて「しんどいけん。」なんて答えた事がある。

 強くなりたい、「花道」のように華麗にダンクシュートを決めたいなんて、そんな野望だけはしっかりあったけど、大弥のようにがむしゃらに生きるなんて、かったるい。ほかにもいろいろやりたいことはある。強いて挙げれば……そこはまあ、ゲームとか、漫画とかくらいしか思いつかないんだけれど。

 いつもだれかとつるんでる満流とは正反対で、一人でいることが多い大弥。

「惜しいな。おまえとだったら、県大会も夢じゃないかもしれんのに。」

そう言われたのは一年の終わり頃だったように思う。俺に失望してやめたのか。そんなことをふと思ったりもした。まさか、違うだろうけど。

 

 「気絶ってしてみたかったけど、あんまりいいもんやないね。」

倒れた時に机でぶつけて、赤くはれたおでこを見舞いに来たミカに見せながら瞳は言った。

「なんか最近全然眠れないんだ。」

「瞳、体操続けたらいいんじゃないん? せっかく推薦来たのに。うち、瞳の華麗な段違い平行棒、一度見てみたいし。」

 瞳にもミカと同じ私立高校からの推薦の申し込みはあった。毎週土曜日の夜に練習に行っていた高校だ。体操のような競技は高校になってからいきなりやっても、なかなかついていけるものではない。小さいころから基礎を積んだものだけが、上にいけるのだから、主だった選手はみな、推薦という形でスカウトされる。 

「この腰じゃ無理、ね。それにうち、ミカみたいに才能ないもん。」

 四国でベスト3に入れなくて、全国に行けなかっただけでなく、練習のしすぎで持病の腰痛が悪化して、ドクターストップの状態。軽く床運動のさわりをこなすだけの予定だった文化祭でも直前で演技を辞退した。体操に腰痛はつきものだけど、瞳の体はもうぼろぼろ。もともとそこまで体は柔らかくないし、筋肉質でもない。才能のなさを努力で補ってきた。コーチの期待に応えるために、母に満足そうな顔をさせるために。でも、この先、こんな体で体操ばかりやって、意味があるのかな。瞳は五歳の頃から今まで迷いもなくがむしゃらに続けてきた体操に、翳りのようなものを感じ始めていた。そしてそれと自分が同時に生きていることの意味の無さも感じ始めていた。私がやってきたことって、結局何? 本当に自分のやりたいことだったの? 全身で、自分の気持ち、周りにアピールできたらいいのに。私は私の気持ちさえ、よくわからない。

 

 夜、部屋の子機で大弥の家のダイヤルをプッシュする。でも、ワンコールで切る。最近よくやる優柔不断な行動。非通知にしてるから、誰からのコールかわからない。私がここにいるのだと、気づいてほしくて。だけど、自ら名乗りたくなくて。

 あたしって結局何がしたいのかな。一年の時に同じクラスだった、伊勢大弥。ずっと心にひっかかっていた。名前のダイヤに負けないように、努力を惜しまず自分が輝ける存在になりたいと、自己紹介で言っていた。そして、行内行事でもなんでも、物事にまじめに取り組む姿勢に好感が持てた。「好き」ってやっぱりこういうことを言うのじゃないのかな。

 だけど、一方で、くすぶるこの気持ちがなんなのか、よくわからない。時々現れる満流のはにかんだ笑顔にすがりたくて、あいつが目をそらせばそらすほど、こっちを向いてほしくて。あんないい加減な人、好きじゃないと思うのに。

 がんじがらめにしているのは自分だと、気づかないままさらにもがいて、見えない糸はもっと絡まってしまう。

 

 子機を握りしめていると、マリがドアをがちゃっとあけた。

「瞳、起きとるん?」

あわてて子機をポケットに隠して

「うん、もうちょっと。」

何食わぬ顔で、開いていたテキストに目を通しているふりをした。

「最後は瞳の好きにしたらいいと思うけど、ママは八洲高校に行った方がいいと思うよ。体操は、もう限界だと思う。趣味でできるようなスポーツじゃないしね。」

いつもそう。最後は瞳が、と言いながら、誘導するのはママ。体操をやれと言ったのもママ、全国目指せと言ったのもママ。全国大会行けなくて、腰痛が悪化したら、今度は体操やめて八洲受けろと。それは多分間違ってはいないけれど、なんかママには言われたくない。なんか虚しいし、なんか悔しい。木工に飽きたからドール、体操だめになったから進学校。私はママの趣味とは違う。

 母が「おやすみ」と出て行って、瞳はポケットから子機を出して、しばらく考えて、それからゆっくり、空で覚えてるもう一つのダイヤルをプッシュした。そしてまた、ワンコールでぷつんと切った。

 

 「電話鳴っとるで。」

そう言って、満流が良子を見上げた瞬間、電話は切れた。良子はずっと険しい顔をしていた。入院中は同室の患者の手前もあって、あまりあの夜のことには触れなかった。家に帰ってからも、不自由な体の満流を気遣って何かと世話をやいてくれた。退院した翌日から夜には家庭教師が家に二時間いたから、家庭教師に気も遣ったし、満流が勉強に打ち込む環境も必要だろうと満流にも気を遣っていた。だけど、今夜は家庭教師が来ない日で、それをいいことに満流は学校から帰ってずっとテレビ漬け。勉強しなくていいのかとやんわり言っても、テレビを見て馬鹿笑いするだけの満流に、良子の中で、今まで我慢してきたものが一気に弾けた。電話が鳴ったのは、怒り沸騰の良子がテレビをコンセントからバチンと抜き、満流をにらみつけた瞬間だった。

 あの夜のことを逐一問いつめられた。噂で、毎晩満流たちが夜遊びをしていたこともばれてしまったし、無免許運転はちょくちょくやってたことも、煙草を吸っていたことも酒が入っていたことも、全部ばれていた。

 「あんた、いつからそんな不良になったん。親の目を盗んで夜出歩いて、挙げ句の果てには警察沙汰になって、しかもお酒なんて……。あんたはもっと賢いと思うとったけど、結局お父ちゃんと同じや。」

正文のことまで飛び出して、良子は自分の言葉に自分で興奮していく。当の満流はこんな時、頭は冷ややかで、良子から少し目をそらして、床を見ているだけ。満流は酒は飲んでない。だけど今の良子に聞く耳はない。ただ、嵐が過ぎるのを待つだけだった。あーあ、せっかく滑らない話のオチにさしかかったところだったのに。

 しかし、今夜の嵐はいつもと違っていた。良子は、満流から顔を背け、声をあげて泣き出した。満流はとまどった。母親の涙を見るのはあの出来事以来だった。

 

 満流がまだ小学校低学年の頃、役場の不正行為が発覚し、当時主任だった正文一人、悪者にされ、トカゲの尻尾切りのように職場を退職させられた。辞めてからの正文は、毎晩酒を飲み、次第にアル中のようになり、暴れて、挙句の果てに、母を殴って、大けがを負わせた。掃き出しの窓に頭をぶつけ、血を流しているのにまだ、母に襲いかかろうとした父。幼い満流は母をかばおうとがむしゃらに父にとびかかったら、ふり払われて割れたガラスが足に刺さった。今も右足首のちょっと上がポコンと穴のようにへこんでいる。

 あの日のことは、擦っても擦っても、記憶にこびりついて消えない。母の実家から、毎日毎日病院に通った。母は夜になると、いつも布団の中で泣いていた。満流の中の、悲しいトラウマ。母の涙が、あの時の涙にフラッシュバックして、頭が割れそうに痛くなる。見たくない、聞きたくない、もううんざり。悲しませたくなんかなかったのに。

 

 母親が泣いているのはまぎれもなく自分のせいだとは思うけれど、一方で、本当に、俺のせいだろうかという疑問もあった。結果的には心配をかけて、迷惑もかけたけれど、自分だけが悪いとは思えなかった。

 

 狭いこの家のどこかにいるはずの父親。この騒ぎに気づいているはずなのに、一向に姿を現そうとはしない。気づいているからこそ、現さない。いつも大事な時にはいないんだ。妹は自分の部屋でもう眠っている。怒って、泣いている母、そ知らぬ顔の父、そして、何も言えない自分。脆い砂の塊は良子の嵐でまたはらはらと舞い上がって、胃の中に広がっていく。

 動くこともできず、ただ床を見つめて、座って時間の経つのを待っていたら、ひとしきり泣いてやっと冷静さを取り戻した良子がティッシュで涙を拭きながら言った。

「あんたが八洲高に合格してさえくれたら、母ちゃんはもう何も言わん。好きにしてええけん。とにかく、もう、お願いやけん、あんたまで母ちゃんをがっかりさせんでや。」

声を震わせながらそう言い切って、さすがにバツが悪そうに立ち上がって、台所に向かった。ほとぼりがさめた頃を見計らうように、正文がリビングに入ってきて、テレビのスイッチを入れた。あれっと言って、コンセントに気づき、何食わぬ顔でソケットに差し込む。満流はギプスの左手を、右手で労るようにさすりながら、立ち上がって部屋を出た。砂がどろっと固まりかける。

 良子をなぐった父の拳が、振り払われたあの腕が、満流の中でうごめく。粘土状の塊が堅い拳になって自分の胸ぐらをつかむ。もう思い出したくない。あの日のことなんて。リビングの隣の寝室の引き戸は開け放されていて、父親の布団の中ですやすやと眠る六つ下の妹の姿が目に入った。粘土状の塊をもう一度体に収め、満流は二階の自分の部屋に上がった。

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 それぞれの家には警察から連絡が入り、ひろしを除く各々の両親が蒼い顔をして飛んできた。満流の痛々しい姿を見るなり良子はおろおろと落ち着かず、正文は、良子の横でただ気弱そうに突っ立っていた。警察と医師の話を一通り聞いて、自損事故で、命に別状はないとわかると、良子は一先ず安堵の溜息を洩らした。両親の居所がわからないひろしには、大分時間がたってから、親戚のおじさんが迎えに来た。ひろしの父は大分前に家を出て行って、母は夜の仕事をしたり、飲んだくれたり、ぷいといなくなったりしてると、前にひろしが自嘲するように言ったことがある。ひろしの下には幼い妹と弟がいる。ひろしは学校へ行かないのではなく、行けないのではないかと思わないでもなかったが、そう思われることをひろしが一番嫌っていたので、みな、何も言わなかった。

 

 良子はてつ、祐二の親と連れ立って、早朝、畑の持ち主に謝りに行って、警察にも頭を下げた。車は大破したけれど、四軒で出し合って、弁償することになった。ひろしの家は出せる能力がないのが分かっていたし、いつ帰って来るかもわからないので、実質三軒で負担したようなものだが、時期が時期だけに、ここで揉めるわけにはいかなかった。幸い中古のボロパジェロだったから思ったほどの金額ではなかったし、何より運転していたのはひろしでよかったと、三軒の親たちは、内心胸をなでおろしていた。そして今度は高校中退のフリーターたちとつるんでいたのは中学にもろくすっぽ行っていないひろしのせいだと勝手に思い込み、もうひろしとは付き合うなと、各々の親たちが自分の子に念を押した。良子は悪いのはひろし自身ではなく、ひろしの親だと言ったけれど、ひろしとは距離を置く方が、満流の身のためだとも言った。理不尽さに胸がむかむかしてきたが、反論も、ひろしの擁護もできない自分に、一番むかむかしていた。みな自分が一番大事なだけだ。ひろし以外みな。ひろしは自分のことなんてどうでもいい、自分の大切なみんなを守ろうと、罪をかぶってくれたのに。。

 

 良子が各所に謝りに行っている間、病室には正文と満流の二人きり。気まずい空気が流れる。かつて役場仲間だった祐二の父と、正文は、正文が役場を辞めてから折り合いが悪く、正文は他の親たちとは目も合わせず、事の処理をすべて良子に任せていた。丸椅子に座り、膝から下を小刻みに揺らしながら黙って目を伏せている。頭のてっぺんが禿げているのが、ベッドを起こして座った状態の満流の位置からよく見えた。役場の仕事をやめてから、生計は良子の保険で立て、正文はずっと大して金にならない畑仕事ばかりしている。その代り、幼かった美咲の面倒は正文が良子の代わりにみた。だから美咲は母よりも父の方に懐いている。

 それほど根つめて働いている風には見えないけれど、まだ五十代なのに、腰が少し曲がってきてる。海風にさらされて、肌は耳の隙間までこげ茶に焼けている。てつの父親も、祐二の父親も、同じくらいの年齢だろうに、一人だけ、ずっと老けていて、なんだか生気がない。盗み見るように観察していると、不意に窪んだ目を少し上げて、

「大丈夫か。」

満流にはめったに口をきかない父が久しぶりに満流を見て言った。そして、諭すことも、なじることもしなかった。

 

 学校は退院するまで休まなければならない。どうせたいした勉強はしていない。よほどの内申書でないかぎり中南は大丈夫、のはずだった。だけど、それが怪しくなってきた。

 謝罪と、どうしてもキャンセルできなかった仕事を済ませ、午後から正文と共に学校へ行って校長に平謝りに謝り、担任の芳村と話をしてきた良子は、神妙な顔をして満流の病室に入って来た。六人の相部屋。満流は廊下を出て右手にある談話室に連れて行かれた。

 

 「あんた、大浜高校、危ないかもしれんよ。」

まだ怪我の痛みがずきずき残る満流にはそんなこと、今はどうでもよかった。でも、良子はおかまいなしでしゃべり続ける。

「内申書には今回の事は書かないらしいけど、悪い噂はすぐに広まるだろうから大浜高校は要注意だって。」

「ふーん。」

別にどうしても大浜に行きたいわけじゃない、私立でもいいし、なんなら中卒でもいいんだ、なんて投げやりな事を満流が漏らすと良子は目をむいて満流を責めた。

「あんたには、もっとましな人生を送ってほしい。父ちゃんも母ちゃんも高卒で苦労したから、大学まで行ってほしい。あんたは父ちゃんによく似たとこがあるから、ちゃんとした学歴や資格を持っていないとだめになると思うんよ。」

 父親に似ていると言われて満流はいやあな気分になった。あの人のようにだけはなりたくない、ずっとそう思っていたのだから。黙っている満流に良子は穏やかに言った。

「芳村先生がね、今からならまだ間に合う言うんよ。あんた、一、二年の成績、そう悪くないけん、今から死ぬ気でがんばったら八洲高校行けるいうて。」

「は?」

満流は一瞬耳を疑った。聞き直してもやっぱり八洲。この辺で一番、いや、断トツにレベルの高い高校だ。母は気でも違ったのか。

 今回の一件は示談として処理されたが、狭い田舎のこと、学校関係者の耳には当然入る。公立校はどこも素行には厳しい。しかも大浜は同じ西海町内にある高校だ。しかし、八洲は西海町からは二つ隔てた南予地区の高校だ。家から遠いので通学も電車か自転車になる。それに唯一八洲はユニークな校風で、中学時代、少々悪い噂があっても、寛容に受け入れてくれるというのだ。もちろん、学力は必要。ここが難関なのだが。

 良子は満流に八洲を受けさせようともう決めていた。一度決めたことは絶対に貫く。満流は自分が八洲高校を受けることになったのを受け入れるしかなかった。

 別に反対するほどの情熱なんて初めからない。受かろうと落ちようと母の問題。俺の知ったこっちゃない。死ぬ気でがんばれば行ける? がんばることそのものが難しいのに?

 

 良子がベッドを仕切るカーテンを開いたまま洗面所に行こうと廊下に出るとなにやら甲高い声で誰かとあいさつをかわしている。「あら、おじいさんが、そう、それは大変ね」なんて声が聞こえる。そして

「失礼しまーす」

と体育会系の野太い声と同時にミカがドアから顔を出し、同室のおやじたちにいちいち「こんにちは」なんて会釈しながら入ってきて、満流のベッドをみつけて顔をしかめ、

「おまえ、ほんっと、懲りない奴だな。」

満流への第一声はこれ。

とはいえ、首にプロテクターをはめた痛々しい姿に目を細くして

「大丈夫か?」

とだけ聞いた。そして、学校でとんでもない噂が飛び交ってる事や、てつも祐二も今日は学校を休んだことなどを報告して、はい、とピンクのクリップで留めてある一束のレポート用紙を差し出した。クラスメート有志がとってくれた授業のノートだと言う。

めくってみてドキっとした。

「これ…。」

そう言ったものの、なんて聞いていいのかわからず「サンキュ」とだけ言ってまた字を眺めていると、

「すごく丁寧だろ。それ。」

ミカが意味ありげに言った。

「これ誰が……」

そう聞きかけた時、

「あら?」

えみりの声。えみりが友達と二人で開けっ放しのドアの前にいた。

「じゃ、あたし、じいちゃんの病室に行ってくるわ。」

ミカを見てびっくりしているえみりに真顔で会釈して、来たとき同様部屋のベッドにいちいち会釈して、ミカは病室を出て行った。入れ違いに良子がヤクルトを四つ抱えて戻ってきた。

 えみりは白いカスミソウとピンクのカーネーションのかわいい花篭を良子に渡し、膝の上で良子にもらったヤクルトをくるくると弄びながら「びっくりした。」とか、「痛い?」とか、単語を並べた。満流も「うん」とか、「いや」とか短く返すだけ。良子が、背後で目を光らせているのでどうも居心地が悪い。

 本当はもっといろいろしゃべりたいのだろうけれど、えみりはミカがなんでお見舞いに来たのかだけはきっちり聞いて、十分くらいで、名残り惜しそうに病室を出て行った。

 「かわいいけど、ちょっと頭悪そうな子やね。まあ、後ろにいた子よりはましやけど、……かあちゃんはミカちゃんが一番いいと思うわ。」

いやいや、ミカ関係ないし。友達の方も引き合いに出されていい迷惑。無理やり連れてこられたのだろう。少し後ろで口を半開きにして終始ぼーっとしていたから良子の言い分も解らないではないが。

 良子が帰った後は、同室の兄ちゃんやおっちゃんから、「あんたもてるねえ。男前やもんなあ、」なんて冷やかされた。七十くらいのじいさんなどは、良子がスタイルいいし、真矢みき似の美人だと言って顔をくしゃくしゃにして褒めまくっていたし。確かに良子は鼻筋が通っていて、ちょっと男好きのする顔をしている。満流の目と鼻は母親譲りだ。バリバリ仕事をしているからか、三十代半ばにしてはスリムだし若々しい。でもまあ、真矢みきは言い過ぎでしょう。所詮田舎のおばさんだ。暇な入院患者はちょっとしたことでもネタにしてオーバーアクションで退屈を紛らわすのだ。

 

 学校からそう近くないのにえみりは一週間、毎日見舞いに来た。その笑顔は満流にとって退屈な一日を潤す清涼剤になった。良子は平日は仕事で七時以降にしか来ないから、それまでは、二人っきりで病棟の隅に隠れて、不自由な首をいたわりながら、キスしたりもした。そんな時、ぽっと頬を赤く染めるえみりは無性に愛しく思えた。

 

 えみりはミカに変わって授業のノートを毎日持って来てくれた。えみりの方からミカに申し入れた。ミカに宣戦布告するようでちょっと怖かったけれど、恋する女の子は強い。えみりは勇気を振り絞って、お願いしてみた。運動会の日、満流を呼び出した時の勇気に比べたらこんなのちょろい。それに、ミカは厳しいところは厳しいけれど、いったんバスケを離れると、後輩にもくったくなく冗談を飛ばしたりする面白い先輩だから。とは言え、やっぱ一人じゃ無理だから、バスケ部の友人に付き添ってもらったのだけど。

 するとミカは、あっさりと二つ返事でえみりにバトンタッチ。昨日は入院してるおじいさんの見舞いがてら顔をのぞかせただけで、毎日病院にノートを運ぶ気なんてさらさらなかったのだ。えみりが3Bにノートを取りに行くと、クラス委員の楢崎恭子がえみりにノートを渡してくれた。授業ノートは何人かで手分けしてとっていると恭子に聞いたとえみりは言っていたけれど、そこに書かれた字は明らかに毎日同じ筆跡だった。その授業ノートはとてもわかりやすくて丁寧で、今日、どんな授業をしたのかが手に取るようにわかるものだった。それをながめているだけで、この一週間、学校へ行くよりもずっと勉強できたのではないかと満流には思えた。小さく角ばった右下がりのその字は、あの時の手紙の字に、よく似ていた。

 

 骨折もむち打ちも抱えたまま、満流は一週間で退院し、良子に連れられ、ひとまず学校へ挨拶に行った。これで校長室に入るのは二度目だ。今度は校長の言葉を神妙に聞いた。平謝りに謝る母の姿は見たくなかったから、ずっと校長の太鼓腹を見つめているしかなかった。校長室から出て、改めて母を見ると、目の下が黒ずんで、なんだかこの一週間でやつれたような気がした。一気に四十代半ばの中年女性の風貌。

 口の中一杯に砂が湧き出てくる。さらさらと、ただ流れていた後悔が、今胃袋で固まって、形になった気がした。母に申し訳ない。だから、退院したその日から、家庭教師をつけられ、本格的な勉強を強いられても、黙って従った。だけど、期待されても困る。俺は、期待には添えない。

 

 翌日から授業に出た。3Bの教室。満流が教室に入っていくとにやにやしながら男連中が寄ってきた。なんの問いも何のねぎらいもなく、いつもの朝のように一週間ぶりの満流に接する。少し首と腕をいたわるそぶりはみせながら。満流もそのありがたい歓迎に応えてにやけるだけ。教室を見渡すと、瞳がまっすぐな黒い髪を風になびかせて開いた窓から外を見ていた。

 

 久しぶりの授業はすいすいと頭に入った。あのノートをいつもながめていたのと、昨日の家庭教師のおかげだ。数学の抜打ちテストがあったけど、満流は自分でも驚くほど問題が解けた。範囲はこの一週間に習ったことだった。

 

 席替えがあって、瞳は今は満流の斜め後ろの席。窓際の一番後ろ。問題を解き終えて溜め息。数学は得意だけど、ここはできて当然。だって二回もノートに書いたのだもの。平然と教室に入って来て、何食わぬ顔をして席に着いた満流を後ろから眺め、瞳はなんだか一週間、やるべきことができて平和だった自分に気づく。毎日ノートを取りに来る小犬のようなあの子は、満流の新しい彼女だと、みんなが噂していた。もてるんだ、あいつ。それは悲しいことではなく、むしろ喜ばしいことだと思えた。やきもちなんか焼かない。自分が勝手に振り回してしまったことの罪滅ぼしが、できたようで、嬉しい気分だった。でも一方で、不安にかられる。なんなのかわからない不安に。まっすぐに、自分の心を信じることができたら、もっとすっきりできるのに。

 

 放課後、てつが3Bに顔を覗かせた。祐二に会いにD組に寄ったら一足先に帰っていた。

「ユウちゃん、あれからますます受験勉強に燃えてるんや。」

てつがそうつぶやいた。祐二も担任から事情を聞いて、何としてでも八洲高に受かろうとがんばっているらしい。てつに、自分も八洲を受けることになったとは、言い出せず、満流は黙ってうなずいた。

「満流、もう事故るなよ。」

ミカが廊下の向こうで大声を出し、親指を下げて長い舌を出す。

「うるせえ。」

そう言って反対方向を向くと、教室から出てくる瞳の視線にぶつかりそうになって、あわてて踵をかえした。

 

 

 十二時。もうガラスをこつんとされなくても気配でわかる。車の音が遠くで止まる音が聞こえると、満流はこっそり家を抜け出した。チャリで遊んでいるうちに、夜遊び仲間が増え、満流らはバスケ部の元先輩たちの集団にも出入りするようになっていた。先輩が車を出して、行動範囲が俄然広くなる。

「あれ、祐二?」

てつの隣で祐二が頬をピンクにして照れくさそうに笑ってる。

「今日だけ入れてな。ストレス発散するけん」

てつとひろしが肩をすくめ、初心者マークの周がぶいーんと車を走らせた。

 おんぼろパジェロはすでに定員一杯。寿司詰めの車内はなんだかこの世に自分たちしかいないような感覚を生み出す。自然ににやけてハイな気分になってくる。たまり場の諒の家にいつものようにどたどたと入り込んで行くと、いつもと違って、派手目のギャル風な女の子三人が入ってきた。

 その後ろから周の職場仲間の男二人も来て、女三、男四、それと満流たち中学生のガキ四人という、妙な集団になってきた。真ん中の二重の幅の広い、目の大きな子が、やたらと満流を見てきて、何なんだと思ってたら、周に手招きされて、ガキ四人は部屋から体よく追い出された。

 

 「あー、疲れた。」

ひろしが今まで息ができなかったかのように大きく深呼吸してみせる。

「おれら完全にお邪魔虫やったもんな。」

祐二が言うと、てつはキョトンとしていた。まあ、せっかくだから今夜は四人で楽しもうということになって、ひろしが車のキーをプラプラさせる。

「とにかく例の場所、行こうや。」

周のパジェロで例の場所、車で砂浜のすぐ近くまで入れる海岸に向かった。諒の家からは細い裏道を通って五分ほどで来れる場所だ。国道378号線。夕日が日本一綺麗だと謳われている場所だけど、今は霞んだ月が出ているだけ。

 

 車を止めて部屋から持って出た飲み物を飲みながら車内であれやこれやしゃべった。夜中の吹きさらしの海岸では十月中旬でも、かなり寒い。窓を閉め切ると、ガラスがほわーっと白く曇る。

 ひろしと祐二は缶入りの発泡酒を飲んだ。満流とてつはコーラ。てつは前に一回飲んでみて、すぐに気持ち悪くなって、飲むのをやめたのだけど、満流は酒は一生飲まないと決めている。

 ひろしはポケットから煙草も取り出してぷかぷかやってる。勧められるまま、満流たちも吸う。夜中のドライブでは、酒が入るのは初めてだったけど、煙草はいつものこと。満流は買ってまでは吸わないけれど、勧められればいつも吸った。皆が吸うと煙たすぎて、結局寒いけど窓を開けた。

「さっきの高校生、どの子がよかった?」

ふだんあまりしゃべらないひろしが酒の勢いで饒舌になっていた。

 祐二が真ん中の子と答えた。三人ともまあまあだった。ただ、真ん中の子が目が大きくてはっきりとした顔立ちで、後の二人の印象をぼやっとさせていた。

「真ん中の子、みっ君ばかり見てたな。」

残りの三人が顔を見合わせてにやっとした。

「ちょっとケバかったけど、目は瞳ちゃんに似てた。」

と言って、ひろしが何とも言えないでれっとした顔をしたのでてつがすかさずフォローした。

「ひろっちゃん、開田のこと、好きなんやもんね。」

するとひろしが負けずに返した。

「てつもそうやん。」

満流には初耳だった。てつは耳たぶを赤くして、唇を真一文字にしてひろしを見た。そして両手を振って強く否定した。

「一年の頃のことやが。今は違うけん。」

 

 ひろしとてつは一年の時、同じA組、瞳もA組だったらしい。ひろしは一年の五月まではきちんと学校に行っていたが、その後、だんだん休みがちになり、二年になってからは一度も登校していなかったのだ。

「俺、瞳ちゃんに会うために学校行ってたようなもんやけん。」

祐二が横槍を入れる。

「ほんなら、今は? 学校行ってないやん。」

動じず、にやりとひろしは笑う。

「そりゃ、学校がかったるくなったけん行かんだけやどな。瞳ちゃんは俺のことなんか相手にしてないし。」

「ふうん。」

祐二がなんだか興味深そうに聞いている。満流はなんて言っていいか分からないので黙っていた。

「開田ってどこがいい?」

祐二はなおもひろしに質問を浴びせる。

「まず顔。それとあの姿勢…」

てつがじれったそうに乗り出して、口をはさむ。

「ひろっちゃん、体育館で開田の練習見て、ほれこんでるんよ。」

めずらしく、言いたくて仕方がないらしい。酔いが回ってきたのかひろしは口をゆるめ、目を遠くにやったままゆっくりした口調でしゃべり出した。

「なぁんか、俺、感動したんじゃ。あーんな細い棒の上、平気で一回転するんで、びびったわ。背筋ピーンと伸ばして、何回も何回も飽きもせずに同じことして、」

 ひろしの家は、町営体育館の裏にある。体育館は大きなガラス張りの窓で、中の様子が外から見える。まじめに生きること、おなじような日常をおくることを毛嫌いしてるとばかり思っていたひろしがそんなことをいうのは意外だった。

「体育館の覗き見はいけませんよ、ひろしくん。」

祐二がわざと真面目な顔をして、その後にやっとしてひろしをこずいた。ひろしは目を向いて、

「体操はゲージュツやけ、ユウちゃんも一回見たらわかるって。」

まじめに熱弁するひろしをもの珍しそうに見ながら、祐二はひろしの横で居心地悪そうな顔をしている満流に今気づいた。

「ひろっちゃん、みっ君がなんか言いたそうにしとるよ。」

ひろしが不思議そうな顔をして満流を見た。学校に行っていないひろしに、満流と瞳との噂が耳に入るはずがない。てつも何も言わないし、もちろん満流も言わない。ひろしの周りに同級生の仲間はほかにいなかった。にやにやしてばかりの祐二と何とも言えない顔をしている満流、頼みの綱のてつに目を向けると

「みっくん、、開田とつきあっとったんよ。」

てつは自分のことのようにちょっとはにかんで言った。ひろしは腫れぼったい目を思いっきり見開いた。そして、

「へえ、さすがみっ君や。」

過去形のところは気にせず、穏やかに

「やっぱり瞳ちゃんえらいな。」

満流は瞳にふさわしい相手だと認めているのである。満流は性格いいし、頭もいいし、スポーツもできる。それにかっこいい。だからお似合い。そうひろしは言った。

「でもな、こいつ、ふられてんの。」

祐二が笑いながら暴露しておまけに

「俺はつきあうまえに振られたけどな。」

なんて大笑いしている。何のことか飲み込めないひろしに、またもやてつが楢崎との一件を説明すると、

「楢崎恭子ちゃんもいいな。俺、恭子ちゃんでもいいや。」

そう言ってひろしは頷く。

「おまえ結局誰でもいいの?」

話題が楢崎に流れたところで満流がやっと口を挟むと、祐二は祐二で

「恭子ちゃんでもって何だよ、」

不服そうに言ってるけど、目をくりくりさせて、内心ちょっと嬉しそう。

「あの子、えくぼがかわいいよな。ちょっと太めだけど、俺なんかにも笑ってくれるし、おっぱいでかいし。」

そう言ってちょっとひろしがいやらしい笑い方をしたのでとうとう祐二にどつかれた。祐二、まだ楢崎を好きなのかな、なんて思って見てたら目が合った。そして、

「おっぱいと言えばえみり、でかいよな。」

祐二は楢崎からえみりにほこ先を向けて、満流をターゲットにしようとする。

「うんうん、校内で一番くらい。」

てつがあいづちをうつ。今まで言いたかったけど、言えずにいたので、この時とばかりに。さすがのひろしも下級生までは把握できていなかったようで、ぽかんと口をあけて聞いている。

「そうかな。」

しぶしぶ答える満流を祐二は攻撃する。

「開田に振られたっていうけんまた俺らと同じになった思うたら、すぐ次の彼女できるんやもん、カッコイイ奴はいいよな。」

「みっ君、もてるもんね。」

てつも同意。 

 ひろしはやっと自分の発言の場がきたとばかりに意気揚々と

「うん、俺も女だったらみっ君彼にしたい。」

と厚めの唇をすぼめてキス顔の真似をする。喜んでいいのか、悲しんでいいのか、満流は苦笑するしかない。

 そんな無駄話ばかりでいつのまにか午前三時。海岸通りから裏道に入り、ひろしの運転で引き返すと、もう合コンは終わったらしく、ひっそりとした部屋で、諒だけが酔い潰れて寝ていた。

 車を置いて歩いて帰るにはみんなの家はそれぞれ少し遠い。しかも、雨がポツポツ降ってきた。今までも満流らが道路を運転する事はたまにあったけど、いつも周が助手席にいた。県道ではごくたまーにだけど巡回しているパトカーに出くわすことがあり、みつかったらやばいけど、みつからないようにできるだけ裏道を通って、ひろしがみんなを車で送り届けることにした。酔ってはいても一番運転が確かなのがひろしだったのだ。なんてったってひろしは一年の頃から母親の軽自動車を山道で乗り回していて、運転歴三年のキャリアなのだから。

 祐二の家が一番近いので、まず祐二の家に向かうことにする。すると祐二が、「こんな夜遊びは今日だけにするから、記念にちょっと運転させてほしい」と言い出した。運転は初めてだから大丈夫か?なんて言いながらも、結局誰も止めなかった。県道に出るまでの、畑に囲まれた田舎道だけ、ということで。

 

 ひろしと入れ替わり、ハンドルを握った祐二は、おそるおそるアクセルを踏んで発進する。「お、うまいじゃん」とひろしにほめられ、調子に乗ってアクセルを踏み込んで、助手席の満流に目配せしたつかの間、目の前にみかん畑があらわれ、パジェロは緩いカーブを曲がりきれずにまっすぐ畑につっこんだ。しかも、ブレーキを踏む代わりに焦ってさらにアクセルを踏み込んで、密集するみかんの木にあわや激突。思い切りハンドルを切ると、土手の斜面に片側を乗り上げ、勢い余って別の木に衝突し、はずみで横転。タイヤを真上にして止まった。

 深夜の静まり返った畑で、ドーン、ぐしゃんと不気味な音が響いた。あっという間の出来事だった。天井はつぶれたけれど、片方のドアはなんとか開いた。四人は血だらけになって素早く外に出た。腐ったみかんとガソリンの臭い。呆然としていると、すぐそばの民家に明かりが点いて、車のライトの前方から、懐中電灯をぶらさげて人がやってきた。

 

 四人とも怪我をしていたのですぐさま救急車が呼ばれた。警察にも連絡がいった。家主が電話をかけている隙に

「運転していたのは俺やから。」

突然の出来事に動転し、何も言えない三人に向かって、ひろしが囁くように言った。

 とっさに満流とてつはひろしを見て、それから祐二に目をやったが、祐二は下を向いたまま、何も言おうとしなかった。

 無免許運転、しかも酒気帯び。真っ先に浮かぶのは内申書。そして怒りと悲しみで途方にくれる親の顔。体は無事だ、無事だからこそ、心がぎしぎし震えた。

 

 祐二は今日だけだからと言った。ひろしは日常的に運転していた。でも実際に運転して、事故を起こしたのは祐二だ。満流の頭はざわざわとざわめいた。頭が痛い。ガラスでぶつけて割れた額の痛みがズキズキ心臓に突き刺さる。だけど、ひろしが警察に名乗り出ても、ただ自分のくたびれたバスケットシューズを見つめていた。

 幸い畑の主はてつの父の親戚筋にあたる、満流の親も祐二の親も顔見知りのみかん農家。突っ込んだのはみかん畑。私有地だ。そこだけ切り取れば、道路交通法違反にはならない。そして、祐二の叔父に警察官がいたので、未成年の夜遊びも、酒も、たばこも全部伏せて、事を穏便にすませることができた。

 一番けががひどかったのが助手席に座っていた満流で、むち打ちと、額と耳が大きく裂けたのと、左手首の骨折。念のため、一週間の入院を言い渡された。運転していた祐二は天井で頭頂部を打ってたんこぶができただけ。後部座席から運転席に身を乗り出していたひろしは通院程度の軽いむち打ち、寝ていたてつは衝撃の瞬間まで力が抜けていたせいか、顔に少しのかすり傷ですんだ。そして軽症の三人は、すぐに検査が終わり、帰る事ができた。