(質問)
悟った人々はすべて臍(へそ)に中心を定めているのでしょうか。
たとえば、クリシュナムルティは、頭と臍のどちらに中心を定めているのでしょうか。
またラーマクリシュナ(19世紀インドの覚者)は、ハートと臍のどちらに中心を定めているのでしょうか。
(答え)
悟った人はみな臍に中心を定めている。
しかし悟った人それぞれの表現は、ときによって別個の中心を通じてあふれ出すことがある。
この区別をはっきり理解することだ。
悟った人はみな臍に中心を定めている。 それ以外の可能性はない。
だがその表現となると、話は別だ。
ラーマクリシュナは自分をハートから表現する。
ハートを自分のメッセージの媒体として使う。
臍で見つけたものすべてを、ハートを通じて表現する。
彼は歌い、そして踊るーそのようにして自分の至福を表現する。
その至福は臍で見つけたものだ。それ以外のどこでもない。
彼は臍に中心を定めている。
だが臍に中心を定めているということを、
他人にどうやって伝えたらいいだろう。
彼はハートを使ってそれを表現した。
クリシュナムルティは頭を使ってそれを表現する。
だからこそ、このふたりの表現は矛盾するのだ。
もしラーマクリシュナを信じたら、
クリシュナムルティのほうは信じられない。
また、もしクリシュナムルティを信じたら、
ラーマクリシュナのほうは信じられない。
そもそも、信じるというのは、体験よりも表現を重視することだ。
理性で考える者にとっては、ラーマクリシュナは子供じみて見える…
「この騒ぎはいったいなんだ。踊ったり、歌ったり。この人はいったいなにをやっている。ブッダは踊ったりしなかった。なのにラーマクリシュナは踊っている。まるで子供みたいだ」
理性から見れば、ハートは子供じみている。
ハートから見れば、理性は役に立たないもの、表面的なものだ。
クリシュナムルティの語ること、それは同じものだ。
その体験はラーマクリシュナの体験、 チャイタニヤ(十五世紀のインドの覚者)
の体験、 ミーラ(十五世紀のインドの女性覚者 ) の体談と同じだ。
もし本人が頭に中心を定めていたら、
その説明、表現は理性的なものになる。
もしラーマクリシュナがクリシュナムルティに会ったなら、
きっとこう言っただろう、
「さあこっちへ来て踊ろう。なぜ時間を無駄にする。踊りのほうが簡単に表現できるし、もっと深く入れる」。
クリシュナムルティは言うだろう。
「踊りだって?踊ったら催眠状態に陥ってしまう。踊ったりするよりも分析だ! 推論だ! 徹底的に推論し、分析し、注意を研ぎ澄ますんだ」
表現に使われる中心はそれぞれ別だが、 その体験は同じだ。
その体験は絵にも描ける。
禅師たちはその体験を絵に描いてきた。
悟りを開くと、それをよく絵に描いたものだた。なにも言わず、
ただそれを描く。
ウパニシャッドの賢者たちは、美しい詩を創ってきた。
悟りを開くと、彼らは詩を創る。
チャイタニヤは踊った。
ラーマクリシュナは歌った。
ブッダは頭を使った。
マハヴィーラ(ジャイナ教の問祖)も頭を、理性を使った。
そうやって自分たちが体験したことを説明し伝えた。
ブッダやマハヴィーラは、 その体験を表現するために、偉大な思想の体系を創り出した。
その体験自体は、理性的でも情緒的でもない。
それは両方を超えている。
ごく稀に、両方のセンターを通して表現できた人間がいた。
たとえば、クリシュナムルティのような人間とか、ラーマクリシュナのような人間だったら、きっといくらでも見つけられよう。
だが両方の中心を通じて表現できるような人間は、たまにしか現れない。
そんな人間は人々を混乱させる。
そんな人間と一緒にいると、まったく落ち着かない。
その両方がどのように関連しているのかわからない。
一見すると、両方は互いに矛盾している。
たとえば、私がなにかを言うーそのとき必要なのは理性だ。
すると、理性的な人々、頭指向の人々が、たくさん寄ってくる。
ところがある日、私は人々に歌を歌わせたり、踊らせたりする。
それを目にすると、 どうも居心地が悪くなる。
これはいったいなんだ。なんの関係もないじゃないか。
だが私にとっては、なんの矛盾もない。
踊りもまたひとつの語り方だ。そしてときには、より深い手段だ。
理性もまたひとつの語り方だ。そしてときには、非常に明快な手段だ。
両方ともに表現の一手段だ。
もしブッダが踊っていたら、
あなたはとまどうだろう。
もしマハヴィーラが裸で立って横笛を
吹いていたら、あなたは眠れなくなるだろう。
いったいマハヴィーラはどうなったのか。気でも違ったのか。
クリシュナだったら横笛もいい、だがマハヴィーラにはおかしい。
マハヴィーラの手に横笛だって。考えられない! 想像すらできない.....。
それはマハヴィーラとクリシュナ、
またブッダとチャイタニヤとの間に矛盾があるからではない。
その原因は、 表現の違いにある。
プッダにひきつけられるのは、ある特定の型のマインド、
つまり頭指向のマインドだ。
そして、チャイタニヤやラーマクリシュナにひきつけられるのはその逆,ハート指向のマインドだ。
ここに問題が生じる。私のような人間は人々をとまどわせる。
私はその両方をひきつける。
そうするとみんなまごつく。
たとえば、私が語っているときには、頭指向の人間は居心地がいい。
ところが、私がほかの表現様式を用いると、頭指向の人間は居心地が悪くなる。
他方についても同じだ。情緒的な方法が用いられるとき、
ハート指向の人間は心地よい。
ところが私が論議し、理論的に語ると、彼はいなくなってしまう。
「これは私向きじゃない」というわけだ。
昨日のことだが、ひとりの婦人がやって来て言った、
「アーブー山に行ったときのことですが、少々とまどってしまいました。
第一日目のお話はすばらしいものでした。魅了されてしまいました。
ところが、それからキルタン(賛歌)が始まり、踊りが始まったのです。
それですぐに帰ろうと思いました。自分に向いていなかったからです。
それでパスの停留所まで行きました、でもどうしようか迷いました。
もっとお話が聞きたかったからです。それで戻りました。
お話を聞き逃したくなかったんです」。
彼女はとまどったに違いない。彼女は言った、
「まったく矛盾していました」
確かに矛盾しているように見えるだろう。
というのも、両方の中心が互いに矛盾しているからだ。
しかしその矛盾はあなたの中にある。
あなたの頭はハートに対して安らいでいない。
両者は立いに葛藤している。自分の内側にある葛藤のせいで、
ラーマクリシュナとクリシュナムルティが葛藤しているように見えるのだ。
頭とハートとの間に橋を架ければ、
きっと両方ともに表現の媒体だとわかるだろう。
ラーマクリンュナには,まったく教育がなかった。
理性の発達がなかった。純粋なハートの人だった。
ひとつのセンターたけが発達していたハートだ。
クリシュナムルティは純粋な理性だ。
彼が手引きしていたのは、何人かのたいへん活動的な理性主的者たちだった。
アニー・ベザント、リードビーター、そして神智主義者たちだった。
彼らは、今世紀における偉大な体系構築家だった。
実際神智学は、かつて創りあげられた体系の中でも、もっとも偉大なもののひとつで、きわめて合理的だ。 彼は理性主義者たちに育てられた。
彼は純粋な理性だ。ハートや愛について語るときできえ、
その表現そのものが理性的だ。
ラーマクリシュナは違っている。
理性について語るときでささえ、 彼は不条理だ。
あるときトタプリ(19世紀インドの覚者)が彼のところへやって来た。
ラーマクリシュナは、彼からヴェーダーンタを学び始めた。
トタプリは言った、
「その馬鹿げた献身はやめなさい。
その母神カーリーからきっばり手を引くんだ。
それをきっぱりとやめないかぎり、なにも教えてはやれない。
ヴェーダーンタは献身ではない。知識だ」。
そこでラーマクリシュナは言った、
「わかった。だがちょっと待ってくれ。
これから母のところへ行って聞いてくるから。
この馬鹿げたことをきっばりやめていいかってね。
母に聞いてくるから、ちょっと待ってておくれ」
これがハート指向の人間だ。
母を去るときでさえも、彼女に尋ねる。
彼は言った、
「母はたいへん情け深い。きっと許してくれる。 だから心配はいらない」。
トタプリには、 彼の言うことが理解できなかった。
ラーマクリシュナは言った、
「母はたいへん情け深い。
どんなときでもけっして「だめ」と言ったことがない。
もし私が
『母よ、私はあなたから離れます。というのも、これからヴェーダーンタを勉強するので、こういう馬鹿げた献身をやってはいけないのです。だから許してください。』
と言えば、許してくれる。
きっとこれについても全部、私の自由にしてくれる」
頭とハートとの間に橋を果けるのだ。
そうすれば、今までに悟りを開いた人々はみな、同じことを語るだろう。
たとえその言語は違っていようとも。
OSHO講話録 源泉への道