次は小学校卒業の頃のお話。

 

私が小学校5年生の頃、地元にもともと中学校と高校はあったんだけど、

私達の学年が卒業する頃、その高校がなくなり、新たに中高一貫校ができることになって、

私達は必然的にどっちか選ばなくてはいけなくなりました。

 

新しくできる一貫校は進学校を目指していたし、私の唯一無二の親友がもともとある中学校に行くと

言っていたので、私もそうしたいと思っていました。

そう親友と約束した記憶もあります。

 

だけど両親に早々に「ダメだ」と断られてしまいました(笑)

 

普通の中学校に入れば、高校は少し離れた所まで通わなくてはならず、そうやって通わせる金銭的余裕がなく、

中高一貫校ならエスカレーター式に高校まで上がれるからです。

 

小学校卒業とともに、親友とも離れ離れになりました。

 

この時からだったと思います、家族に対して反抗心を抱くようになってしまったのは。

 

家にお金がないのは私の手術代も大きく関係しているのも分かっていたから。

私がいなかったら、私が手術を望まなかったら、、、いまだに思い出して考える事があります。

 

でもどうして私の行きたい道へいけないんだろう。

やりたいことができないんだろう。

常に考えてましたね。

 

中学に上がってから、たくさんの転機がありました。

私の反抗心も爆発します(笑)

 

それはまた次のブログで。

 

 

 

 

 

なんで9歳?って疑問は、そのうち晴れるかと(笑)

 

私は、「先天性総胆管拡張症」という病気をもって生まれました。

先天性総胆管拡張症とは...↓

肝臓の外の胆管が拡張する先天性の形成異常で、基本的に膵管と胆管が合流する奇形を合併します。

膵管と胆管がつながっているので、膵液が胆管内に容易に逆流して、様々な症状を起こします。

(姫路赤十字病院より抜粋)

 

私の場合は、一番は腹痛で、嘔吐や黄疸もありました。

前回のブログを読んでくださった方は分かるかと思いますが、私は双子です。

双子の姉も同じ病気なのではと調べましたが、姉は大丈夫でした。

 

1歳半の頃に1度目の手術をしました。

それで終わるはずだったんだと、母は言っていました。

けれど症状は良くならず、「癒着だ」と言われ続け、入退院の繰り返しでした。

私の記憶にあるのは保育園の頃からだけど、本音で辛いことを書き綴るなら、

いつまでこの苦しみが続くんだろうって子供心に症状が現れるたびに思ってました。

 

しょっちゅう入退院を繰り返していたので、保育園や小学校前半の頃の友達との思い出やイベントの思い出が

あまりありません。

一度入院すれば1ヶ月以上絶食の時もしょっちゅうありました。

食べられない、食べちゃいけない、でも食べたい...この感情は常についてまわりました。

お医者さんから「食べてもいいよ」と言われても、食べるものは大きく制限されていたし、よく噛まないと消化にも悪いから、

母や兄弟が常に私の食べている姿を注視していました。

 

 

点滴も拘束されている感じがしたし、手の置き場所や点滴している箇所によっては血液が逆流するときもあって

すごく痛かったし、あおぶちができるし、そうなるとまた点滴し直しだし、それも辛かったです。

 

転機が訪れたのは、小学校3年生で、9歳の頃でした。

有名な大学病院の先生が、たまたま往診に来たことがきっかけでした。

私の症状を聞いて、どこがどう痛いのか、何が一番つらいのか、私や母の話を全て一生懸命聞いてくれました。

そのうえで一度大学病院で検査することになり、結果、癒着ではなかったことが分かりました。

詳しいことは、母にしかわかりません。

沢山家族や先生と話し合い、もう一度手術することになりました。

集中治療室に行くことになるかもしれないリスクも背負っての手術でしたが、無事に成功し、目が覚めた時に

「これでもうお腹痛くならないんだ」ってなぜか達成感に満ち溢れていた記憶は未だにしっかりあります。

 

どのくらい入院していたかもう覚えていませんが、手術からそんなに経っていないのに、食事が始まったころの

最初の3時のデザートがホットケーキだった時の衝撃は忘れられません(笑)

え!?これ食べていいの!?って、手術したばっかだよ!?って(笑)

嬉しすぎて、幸せすぎて1ミリずつフォークでちびちび時間をかけて食べていました。

今でも思い出すだけでニヤニヤします(笑)

手術前は絶対に食べられなかった麺類も、消化に悪いと言われていた食材が入った食事も普通にベッドに運ばれて来る度に

【私もうほんとに治ったんだ。もう大丈夫なんだ】と自信と嬉しさでいっぱいになりました。

 

あれから21年。

私の今まで生きてきた年月からすればたった9年だけど、私の全てを作るには十分すぎた9年でした。

トラウマも、幸せも、痛みも、性格も

「食べること」には人一倍敏感だし、「痛み」は、誰かの痛み(心も身体も)であったとしても自分で感じてしまうくらいだし、

一人の病室で外を眺めながら抱いていた絶望は、今の幸せを重ねても消えてはなくならない感情です。

 

そんな私と上手に生きているつもりだけど、たまに辛くなってしまうこともあります。

「マインドリセット」ってホントに大事。

今はこれが上手にできるように、メンタルコーチの先生にコーチングしてもらっています。

 

自分の話(自分自身の事でも、今の自分の気持ちの事でもね)を声に出すってすごく大事な事なんだと最近

知りました。

「ねえ聞いて!」って感覚ではなくて、単純に今思っていることをつらつらと、そこに脈絡がなくても声に出すだけで

自分の考えやマインドがリセットされていって、そのうち何かしらの感情や答えみたいなものが見つかることもある。

その時に抱いたイメージや感覚を忘れないこと。

 

私のこの経験が、誰かの心に届きますように。

私のこの体験が、誰かの救いになりますように。

 

長々とお読みいただきありがとうございます。

 

では、また次回!!

初めまして!

 

インスタグラムから飛んできてくださった方も、単純にブログを見に来てくださった方も初めまして!(二回目(笑))

 

私は AYANO といいます。

生まれも育ちも新潟県です。

雪深い山の中で生まれ、今は荒波激しい日本海側でゆったりと?暮らしています。

 

メンタルコーチのスキルを身につけるため、コーチングを受けています。

 

私がメンタルコーチという存在に出会ったのは、私の家族のうつ病が原因でした。

子供の時から「メンタル」とか、「心の病気」とか、「うつ病」とか、そういった【心】に関することに興味がありました。

私自身、あまりメンタル強いほうではなかったし、私のまわりにそういった悩みを抱えてる人がたくさんいたからです。

でも勉強してまで、、、って思ってたし、正直私勉強好きではないので(笑)。

 

去年の事でした。

家族だけど、姉だけど、それ以上に私の一部で全部だと思っていた姉が、うつ病になりました。

 

声をかけても返事がなく、血が通っていないような顔色。

そんな姉を見るのは初めてでした。

とてもショックで、見ていられませんでした。

家族なのに、私の全てなのに、目を背けてしまったのです。

 

自分にできることは何もないんだと、自分の無力さを知りました。

 

その日から、【心】を勉強しようと決意しました。

 

だけど、何をどうやって?

検索しまくりました(笑)

それはもういろんなワードで(笑)

そこでヒットしたのが「メンタル」でした。

いろいろなところでメンタルを調べ、「あ!これだ!!」と思い、たどり着いたのが【メンタルコーチ】でした。

 

誰かがくじけそうになった時、自分はダメな存在なんだと思い始めたとき、生きる活力がなくなりそうになっているとき、

そんな「自分軸」が傾き始めたときに、私がその軸を元に戻すお手伝いが出来たら、こんな最高な事はないと思います。

私にはその力があると思っています。なぜか(笑)

 

いろんな意味で、すべてにおいて強い人はいないと思います。

それでいいんです。

だから、一人で抱えこまないで下さい。

話すだけ無駄なんだと思わないでください。

メンタルコーチというスキルを通して、たくさんの人にメンタルコーチという存在を知っていただき、

誰かを支えられるようになりたいと思います。

 

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。

これからもゆるゆると投稿していきたいと思いますので、覗いていってくださると嬉しいです。

 

では、また次回!