岩淵進君のこと | 徹通塾・芝田晴彦のブログ

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今日5月29日は、岩淵進君が33回目の誕生日を迎える筈だった。

平成27年のある日。山口祐二郎君や高橋直輝君と飲んでいる最中、岩淵進君の話題になった。それまで度々、抗議活動の場などで『替天行道』(たいてんこうどう)の幟を掲げていた彼のことはある程度知っていた。中共政府による三民族弾圧に対する抗議を端に政治運動に身を投じた岩淵君とは、反差別運動などで顔を合わせる機会が幾度かあった。


(H28.5.29 私の誕生日会での岩淵君)

小柄で大人しく、礼儀正しい奴という印象だったがその日、山口君や高橋君から聞かされた彼の行状は全く異なるものだった。中でも「反差別運動を共にした左翼思想の仲間から酒の席上、右翼であることを貶された岩淵君が激高、カウンターに飛び込み刃物を奪ってその知人に襲い掛かり、周囲が必死で止めた」という一件。「このままでは何時、無益な人殺しをするのかわからない」と心配になった私はその場で彼に電話した。「お前は不安定過ぎて何をするかわからない。これから俺がお前の面倒を見る」。それが彼との付き合いの始まり。


(平成27年 米国大使館前で岩淵君と)

以降、暫く岩淵君とは社会運動を共にする。プライベートで飲むこともあった。彼は時折電話を掛けてくるのだが、それは大概深夜で、しかも酩酊していて何を言ってるのかわからないことも多かった。

普段は大人しいが、酒が入るとよくわからなくなる岩淵君。パートナーが見つかれば落ち着くかなと思った。それは周囲も同様に感じていた様で、彼の意中の人を聞きだした高橋直輝君がセッティングまでしたのだが、結果は不発だった。だが、その原因は異性に対して消極的過ぎる岩淵君の性格によるものだった。後日、「意中の人」であるその彼女に聞くと、「彼は肝心なことを言葉で表してくれなかった…」。



平成28年の3月某日の深夜、酔った岩淵君から電話があった。曰く「日本の右翼は駄目だ。口先ばかりで何もしない。(山口)祐二郎を刺して俺も死ぬ」。「山口君に何かされたのか?」と聞くもそうではなかった。これだけはハッキリ書いておくが、山口祐二郎君は彼の説明する動機には全く関係無い。確かにこの時、私が彼の面倒を見ている状態だったが山口君が岩淵君の兄貴分であることには変わりはなかった。故の甘えの様だ。ともかく理由を聞くと、いろいろな右翼人士や団体の名を挙げ、如何に彼等が日本の為にならなかったのかを延々と話し始めた。「だから死ぬのか?  君は野村秋介氏を尊敬していると聞くが、そこに氏のような大義はあるのか?」などと諭し、一時間くらい彼と話した。

それから半年後の平成28年9月5日、「前日の晩、岩淵君が自ら命を絶った」との訃報を聞く。死の数日前も彼から電話をもらったが、その内容はいつものように何を伝えたかったのか中々理解するのが困難だった。同様の電話は山口君以下、憂国我道会関係者数名にあった。さすがに一同心配になり、近いうち岩淵君を誘ってみんなで話そう…そんな相談をしていた矢先のことだった。

彼のその死について、ご遺族の意向もあって現時点で理由の全ては明かせない。然し私が知る岩淵君のそれはあくまで彼の一面に過ぎない。一部では『しばき隊』の内部紛争の末の自死と云う憶測まで流れたが、そんなことでは無いと言い切れる。

「お前の面倒を見る」と言ったにも関わらず、私は彼の魂を支え切れなかった。冒頭の写真の宴席の後、山口君と並んでニコニコとしながら手を振って、路上で見送ってくれた岩淵君の笑顔が未だに忘れられない。そして、彼と関わりの深かった高橋直輝君が先日亡くなった。彼に関してもいろいろ想うことがあり過ぎるが、それは後日書く。

岩淵君の葬儀はそうした事情もあり近親者や、限られた知人のみで執り行われた。死に化粧の施された彼の表情はとても安らいでいるように感じたのがせめても…だった。それから少し経て、山口祐二郎君の呼び掛けでささやかな「お別れ会」を開いた。高橋君が聞き出した「意中の女性」、それと、それより前に生前私が彼から聞いていた「好みのタイプの気になる人」両名に声を掛けた。二人とも快く応じてくれた。彼女達は後日、岩淵君のご実家を訪ね、あらためて彼の冥福を祈ってくれた。あの時死なずにいれば、いいこともあったのに…岩淵の馬鹿野郎!とあらためて思った。