朴裕河教授著「和解のために」は、『教科書・慰安婦・靖国・独島(竹島)』問題に、日韓<和解のための議論が可能な土台を作る>ことを目的としています。
「帝国の慰安婦」同様、彼女の冷静公平な視点に感心しました。時に日本に非常に厳しく、また韓国にも冷静な分析をやめません。
各章、それぞれ興味深く読み「慰安婦」の章には特に深く感銘を受けました。また「靖国」の章には彼女の「和解への努力」に感心しつつも少し違和感を持ちました。
「国家のために亡くなった人々を手厚く遇するものとされる靖国思想が、古くからの『伝統』ではなく、近代以降にはじまる思想であることはすでに指摘されている通りである。」
(朴裕河著「和解のために」第三章 靖国‐「謝罪」する参拝/四「国家のための死」と守られるべきもの)
確かに、国家単位での戦争というものが国民皆兵で行われたのは近代以降であり、それは「古くからの伝統」とは言えないでしょう。
しかし、そうではない側面も「靖国思想」にはあります。
左派の評論家・橋川文三氏は「靖国思想の成立と変容」(昭和49年「中央公論」)でこの問題に触れています。
「『日本人古来の念願』とよばれているのは、死後もこの国にとどまろうとする心のことで、古くは『太平記』の湊川のところにも、近くは軍神広瀬中佐の死にもあらわれてくる『七生報国』という言葉にこめられたのがその念願でした。(中略)
靖国神社の成立は日本人の念願のあるものをみごとにとらえていたということは大事な一点であろうと思います。
たとえ軍国神社としての性格を完全に拒否することはできないにせよ、それは明治国家が全くの恣意によって戦没者を祭りあげ、祭りすてに利用しただけの施設ではなかったというところに、靖国問題のむずかしさがあるわけです。」
(橋川文三「靖国思想の成立と変容」)
つまり、靖国神社の成立の要因の一つである「日本人古来の念願」は、すでに「太平記」のころにも確認されているというのです。
「ここで注目したいのは、安政以降国事に斃れた人々、またとくに戊辰戦争において戦死した各藩兵士の招魂祭が私祭として各藩においてさかんに行われはじめたということ・・・」
(橋川文三「靖国思想の成立と変容」)
又、<近代以前>の「藩」単位での「招魂祭」がさかんに行われていたということもあり、それに維新政府が危機感を持っていました。
「靖国神社の問題を考える場合、すべてそれが死者の怨念を鎮めるという政治目的のための虚構の施設であったとすることは、やはり片手落ちとなります。ふつう靖国神社はいわゆる創建神社として、明治の国家神道を代表するもののようにいわれております。(中略)
しかしこの解釈はそれ自体政治的なものであるという反論を招く可能性がないわけではありません。靖国にこめられた日本人の気持ちは(中略)たとえば軍国主義的報復の思念にそのままつながるものではありませんし、そもそも(中略)日清日露のころまでの未だ軍国主義化されきらない日本民族の心情を考慮するならば、それがはじめから軍国主義形成の為の霊魂支配方式であったとはいいきれないところがあるということです。(中略)靖国思想もまた、日本人の伝統的な霊魂観の延長上にあるという側面をみおとすわけにはいかないと思います。」
(橋川文三「靖国思想の成立と変容」)
「政治目的のための虚構の施設」として靖国神社を軽視することは、靖国の粉砕を目指される方々にとっても間違いであろうと思いますし、ただ単に政治利用してやろうなどという「似非ホシュ政治家」の『靖国軽視』もけっして許されるものではありません。
*下線引用者
(業平)