【寄稿】優れた保守の論客たち | 徹通塾・芝田晴彦のブログ

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保守とは何か。一言でいえば「里山を護る思想」ということかなと思います。

里山を護ることに理由も理屈もない。先祖伝来護っているのだから、それを続けるわけです。しかし、ただ放っておけば良いわけではなく、こまめに掃除をしなきゃいけない。また、森は伸びるに任せますと、木々の根元に陽が入らなくなりますのでこまめに剪定をしなければならない。保守はそのような地味な改良を続けながら伝統を護る思想だと言えましょう。いや、思想以前の「感覚」と言ったほうが良いと思います。



私のこのような「保守」に対する考え方は、中島岳志(北海道大学准教授)の影響を受けています。

これを読まれると、いま保守と言われている人たちとは随分違うのだなと思われるでしょう。今の「保守政治家」たちは、里山を護るどころか、ブルトーザーで破壊してカジノを建てようとしているのですから・・・・。


私は、その様な今の「保守政治家」「保守言論人(行動保守含む)」に対してはカタカナで「ホシュ」「似非ホシュ」と呼ぶようにしています。


しかし、本来の保守はそうではありません。それを知るために、優れた保守の論客たちの発言を紹介してまいりたいと思います。




保守の論客といえば、小林秀雄、江藤淳、福田恒存、が有名です。残念ながら、三人とも故人です。保守言論人ほぼ全滅したと言えるかもしれませんね(笑)。今生きている方で私が保守であると感じるのは、先ほど書いた中島岳志くらいです。


小林秀雄は「歴史」について大学生たちとの会話で以下のように話しています。


『今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです。歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞こえたりするような、想像上の経験をいうのです。(中略)

歴史を知るというのは、みな現在のことです。現在の諸君のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇って来る。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の働きなのです。こんな簡単なことを、今の歴史家はみんな忘れているのです。』(小林秀雄「学生との対話」/講義「文学の雑感」昭和四十五年 より)


小林の「歴史認識」は、今の所謂「歴史修正主義者」たちの硬直化した安易な断定の乱発とは程遠いものです。しかしこのスタンスこそが、保守なのです。




保守とは、感覚であり、理屈や論理で説明しきれないものを、言葉で表現するという、極めて難解で高尚な作業であると言えます。


先ほどあげた、小林・福田・江藤とも、いずれも文学者であり、その著書は難解であると言われています。しかし、その難解さとは、簡単なことを難しく書く似非学者のものではなく、保守という感覚を表現することの難しさからくるものです。


申し遅れましたが、私は保守ではなく右翼です。しかし、優れた保守の思想家たちには敬意を表しています。


少し長くなりましたので、次回以降に江藤淳、福田恒存の文章を紹介してまいりたいと思います。

(業平)