【寄稿】三島由紀夫と伝統と児ポ法 | 徹通塾・芝田晴彦のブログ

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「歌は残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、血の比喩として使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や露や、さういうものが明白な肉感的世界の象徴であり、なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。」(三島由紀夫 春日井建歌集『未青年』序 より)

これは、歌人春日井建の処女歌集に三島由紀夫が書いた序である。三島は「短歌」という伝統芸術からなまなましさ、官能性を感受している。つまり彼は、その本質を理解し、彼の中で短歌は、ありがたい文化財的な遺物ではなく生きているものなのだ。

歌舞伎もまた、三島が大きな影響を受けている伝統芸術である。彼の優れた評論文を残したマルグリット・ユルスナールが歌舞伎を「流血趣味のメロドラマ」(『三島あるいは空虚のビジョン』より)と端的に表現している。これは見事な洞察というべきで、三島の作品世界にはこれが見事に花開いている。

片や、三島はサブカルチャーの芸術家たちを多く評価した。池田万寿夫、横尾忠則、春日井建・・・、今ではその世界の大御所であるが、その時点では主流ではなくサブであった人たちだ。三島はなぜ、サブである彼らの芸術性を理解できたのであろうか。それは、私は三島が伝統芸術の本質を理解していたからだと思う。三島は世俗的権威など関係なく、対象を評価した。事実、歌舞伎の「名家」の役者たちを厳しく批判したりしてる。

さて、私は「児ポ法」について書きたいのだ。このような法律の論議がなされること自体は、当然なことであると思う。小さな子供のお母さんたちがそれを願う気持ちもわかる。しかし、言論弾圧につながる法案は強行されるべきではない。

私が、許せないのは、歴史と伝統を守りましょうだの、普段から表明している保守政治家たちがこれを強行していることだ。


彼らは、サブカルチャーと言われる諸作品を、「下品、不道徳」と批判する。片や、世俗的権威という城跡に守られた「伝統芸術」というありがたい、ある意味では安全なものにひれ伏している。

しかし、彼らは伝統芸術というものを本当に視ているのか?読んでいるのか?例えば歌舞伎の主人公たちの多くが遊女、花魁、犯罪者たちであることを知っているのか。


とりあえず、自分が「保守」なんていう位置づけにあるから、伝統だの歴史だの言っておけ、「日本会議」にも加盟しておけ、なんてレベルであるとしたら、全く日本の伝統も歴史も軽く見られたものである。彼らは、伝統芸術を理解できない連中であるからこそ、サブカルチャーも理解できず、安易な児ポ法強行に加担しているのである。


橋下徹が、文楽を「人形劇なのに(人形遣いの)顔が見えるのは腑に落ちない」と発言し失笑を買ったが、それを笑う保守政治家連中も似たり寄ったりというところで、橋下のほうがまだ正直なだけましだというべきか。


彼らは、言ってみれば、歌舞伎を幾度も弾圧し、歌麿を捕縛した江戸期の権力者たちの思想的末裔にすぎない。文化なんてものははなから理解できない者たちであり、その時点で本当の「保守」ではないというべきである。

私は伝統芸術を尊敬する立場から、「児ポ法」強行に真っ向から反対を表明する。
(業平)