平祥子は斜め前の方に座る酒耶麻衣子を目の端に捉えながら、聞きたくもない教師の講釈を無意識に聞き流し、昨日からの不可思議な出来事を思い返していた。昨日の放課後に元気のない麻衣子がなんとなく気になってしまったこと、麻衣子の家で起こった黒マスクの男とその時に麻衣子に取り憑こうとしていた不気味な黒いもやっとしたもの・・・。それらが祥子を得体の知れない運命に導こうとしているかのように感じる。
これまで退屈な日常に少々嫌気が差していた祥子であったが、山城龍仁や岩佐らと遭遇したことで何かが変わりつつあると感じていたことが、まさに今実感できていた。確かにそれらの出来事は喜ぶべきことではないが、祥子にとって日常とは逸脱した事象に遭遇しむしろ喜々としていたのだった。
フツウは怖がるとこよね、ここは。
祥子はそんな自身の性格におかしさを感じ、思わず口元をゆがめふふふと笑う。はっとして口元を押さえ、誰にも気づかれなかったかとそっと周りを見回す。どうやら誰も祥子のことを気にはしていないようで、先生のさながら念仏を唱えているような講釈に朦朧としているようだった。
あぶないやつと思われるとこだったわ。
祥子は意識を昨日の事件に戻す。
なんでマイコちゃんが狙われたんだろう・・・。
黒マスクの男もあの不気味な黒いもやもやっとしたものも、あきらかに麻衣子を標的にしていたのである。丸ノ原や警察の人たちはそうは考えていないようだったが、麻衣子に取り憑こうとしていたものが見えていた祥子には、あきらかに標的が麻衣子だと理解できる。そして、その理由を究明することが先決だと祥子は確信していたのだが、残念なことに昨夜も今朝もその話を麻衣子にする暇がなかった。すぐにでも二人で授業を抜けて話をしたいと祥子は思ったが、麻衣子は熱心に授業に聞き入っている。せっかく昨日の事件を忘れて集中している麻衣子を、また怖がらせることもないとは祥子は思っていた。だが一方では、自身のせっかちな性格を抑えるのに必死だったのである。
放課後になるまで待てそうにないと、祥子は顔に出ないようにため息をつく。


ようやく放課後になり自分を抑えてぐったりしていた祥子に、麻衣子が声をかけた。
「帰ろう、祥子ちゃん。」
自分の机に臥せっていた祥子を麻衣子は笑顔で見下ろす。その笑顔の裏側には昨夜の出来事を怖がっている麻衣子がいることを、余人にはまねのできない敏感さで祥子は感じ取る。
マイコちゃんってば、かわいいわ。
祥子は急いで教科書をかばんに詰め込み、勢いよく立ち上がる。
「今日の晩御飯は何かなぁ、たのしみぃ。」
祥子がそう言い放つと、麻衣子は声を出して笑った。その笑い声はいかにも麻衣子らしく元気でさわやかなものであった。それを見て祥子は、よかった・・・とあらためて思うのだった。


帰り道、祥子は唐突に昨夜の話を切り出した。
「実はね、あたしには目に見えないものが見える力があるのよ。」
そう言い放つ祥子に麻衣子が戸惑っているのにもかかわらず、昨日の黒いもやもやっとしたものを見たと続けた。それを聞いて麻衣子はよくわからない・・・と応える。
「あの時は怖くて死にそうだったのよ。」
その言葉を聞いたとたん祥子はひとつの事実に思い至る。
そういえば鷲尾先生も似たようなこと言ってたわね・・・。
先月の廃工場での一件のとき、祥子に初めてあの黒いもやもやっとしたものが見えたのだ。当時はあまり気にはしてなかったが、あの時確かに鷲尾先生は何かが怖かったと言っていた気がする。
そうか、あの黒マスクはマイコちゃんを怖がらせるのが目的だったんだわ。
祥子は何ら証拠もなく短絡的な思考の末に、真実に到達する。その結果、麻衣子が黒いもやもやっとしたもの取り憑かれ、鷲尾先生のように操り人形と化すことになったかもしれないと思い至る。
「ねぇ、マイコちゃん。変なこと聞いていい?」
そう前置きをした上で、祥子は酒耶家に何か盗られて困るようなものがないかとたずねた。
「たとえば、そうね・・・おじいさんが大切にしていたものとか?」
祥子の言葉に耳を傾けながら、麻衣子は首を傾げる。


「どんなものでもいいわ。」
そう続ける祥子に麻衣子は困惑する。確かに酒耶家には多少の財産があるはずである。だがそれがどれほどのものなのかは麻衣子にはわからない。
「たとえば、そうね・・・おじいさんが大切にしていたものとか?」
おじいさんが大切にしていたもの・・・と言われて思いついたのは、他人には価値などまったく無いに等しいものである。
「あの写真ぐらいしか思いつかないわ・・・。」
確かにあの祖父の部屋に飾られた一枚のポートレートは、孫の麻衣子が部屋を訪れる度に祖父が眺めていたような気がする。しかし、それは家族にとって大切なものであって、決して価値のあるものとはいえないはずである。
「あの写真か・・・。」
祥子はそうつぶやくと何やら考え込んでいる様子である。麻衣子はその姿に戸惑いを感じながらも、正直安心を覚えるのだ。これまでは友達とはいってもそんなに深い付き合いをしたことはなかったが、昨日からの出来事の中、祥子はずっと麻衣子と一緒にいてくれたのである。そして、あの事件の最中も麻衣子が怖がらないように、ずっと肩を抱いていてくれていた。その時、唐突に麻衣子はお礼を言ってなかったことに気づいた。
「祥子ちゃん・・・。」
麻衣子がそう切り出し、続けてありがとうという前に、いきなり祥子が声を上げる。
「わかったわ!」
祥子の声に驚き、麻衣子は身を硬くする。一方、祥子は何かを確信した様子でひとりうなづいていた。
麻衣子は口から出かけた言葉をぐっと飲み込んで、何が?・・・と尋ねた。
「早く帰ろう!全てはそれからよ。」
そんな祥子の言葉に、麻衣子の戸惑いは増すばかりである。だが、麻衣子のそばに立つその祥子の姿は頼もしくもあり、そして心強くも感じられる。
麻衣子にとって祥子は今まさに、かけがえのない親友となっていたのである。



                                               ・・・ ケンセイ #28 へ続く