暑いですねえ。溶けます。

藤村です。

前回の記事の最期に、「次は低迷の理由に踏み込みたい」と書きました、が、
実はその低迷の理由に踏み込む議論は、結構すでにあるんですよね。

すなわち、例えばノーベル賞受賞者も警鐘を鳴らしているような、基礎的予算の削減や「選択と集中」により、研究者が研究をする時間がない、挑戦的な研究が出来ないといった議論です。

NiSTEPによると、「大学改革、中期計画等の策定により、研究以外の業務エフォートが増加している」、「人員削減により、1 人当たりの事務作業や仕事量が増加(事務職員の不足)」、「機器のメンテナンスに時間を取られる」、「まとまった研究時間を確保できない(細切れ時間)」など。研究をアピールするために書類を書くために研究時間が減って研究が出来ない、、と。なんでしょうねこの喜劇は。

そういうわけで、この記事で何を書いても二、三、四番煎じ感が否めない・・・(´・ω・`)

なので、ちょっと道がそれますが、何故こんなに「選択と集中」が信仰されているのか、ということで、財務省の思惑について書いてみましょうか。
 

選択と集中。

限られた資源をどこに厚く投じるか選択し集中させるという事です。(まんまやんけ)

しかし選択と集中の度が過ぎることで、

①成果がわかりにくい研究ができない

②短期的プロジェクトをするしかないので、長期的目線で研究ができない、挑戦的研究ができない

③文学など製品開発につながりにくいと予算が取れない

など、批判がされてきました。

1.財政審というものがあります
まずは、財政審=財政制度等審議会の資料でも見てみましょう。

財政審は財務省の有識者(?)会議で、財務省の主張が極めて色濃く現れます。
そしてなおかつ、財務省渾身のギャグが吹き荒れる場でもあります。

ものの例えですが、お腹を空かせた子どもが「お母さんがごはんを作ってくれないのでお腹がすきました」と言っていたら、

・発展途上国ではもっと飢えている子どももいるんだよ
・歴史的には小児労働がされてきて子どもも働いてご飯を手に入れてきた。規制緩和で小児労働を推奨しよう。
・アンタは最近成績が下がっている。成績の下がっている子どもに食費を出すのはいかがなものか。
・日本人は他国に比べて小柄なので食事が少なくていい
・アンタの兄弟のが100m走のタイムがいいから食費も選択と集中をする
など、あらゆる理屈を並べてお金を出さない自分を主張する場です。
 

こちらをご覧ください。2017年10月31日の財政審資料です。

例えば論文数の話をすると、「政府からの研究開発費あたりの上位10%論文算出数がドイツより少ないから、もっと選択と集中を」と。ピンポイントな数字から都合よい結論を出しすぎでは。

 

 

2.なんでそんなに選択と集中

どうしてそんなに、お金を出したがらないのか。選択と集中を信仰するのか。
私は訳あって何度か、財務省主計局の方とそのあたりおしゃべり(という名の陳情)をしたことがあります。

要約するとだいたいこんな感じです。

私「選択と集中で、基礎的予算を減らして、競争的予算を増やすと研究時間が減って研究が衰退してかくかくしかじか」
財「そういう実態があるのは聞いています」
私「じゃあなんでそれでも選択と集中をするんですか」

財「日本の財政状況も悪くてパイが限られています」

私「だからその限られたパイの配分というところでも、選択と集中をしすぎだと主張しているのです」
財「そこは、アカウンタビリティです」

アカウンタビリティ。血税を投入するのだから、説明責任があるという議論です。

私はその時、財務省としては学術研究を良くしていくために選択と集中している、のではなく、
アカウンタビリティのために選択と集中を行うという印象を受けました。

さらに言うなら、研究学術が良くなることよりアカウンタビリティの方が重要とするような印象を受けました。

もっと性格悪く言うなら、こいつら別に研究学術が良くなることを目的にしていないんだなという印象を受けました。

でも、これは今の研究学術の問題の本質だということです。
すなわち、アカウンタビリティを果たすために労力を裂いて、研究が出来ないという本質です。

さらに挑戦的な言葉を使うなら、選択と集中は自己目的化していると言っていいのかもしれません。だってアカウンタビリティのための選択と集中って、要するに選択と集中のための選択と集中だと言い換えられるじゃないですか。

3.まとめ
もしかしたら、財務省は選択と集中によってより研究をよくしていこうとしている、と思っている諸兄もいらっしゃるかもしれません。
ですが私の主張としては、必ずしもそうだとは思いません。
財務省には財務省のステークホルダーとしての原則があり、自省の権益の拡大を目的とした、選択と集中の推進があるのだというのが私の主張です。