給付型奨学金の創設へ動きだそうという時、
衆議院議員・上西小百合のTwitterが炎上した。
上西(うえにし)小百合@uenishi_sayuri
私は給付型奨学金については大反対です。幸せの前提がお金持ちだと言うのもどうかと思いますが、仮にそうだとしても大学行けばなんとかなるなんて甘い。稼ぐなら中学から働いたって稼げます。本当に勉強したいなら社会に出てからだってできます。親の見栄で無理やり学校に行かされる事がないように。
2016年12月19日 20:35
そのツイートの劣悪さに、多くの批判が寄せられることとなった。
ツイートはいわく、中卒でも働ける、お金を稼げる、給付型奨学金の創設には反対である、といったところである。
それに対する批判の大部分は、いわく、上西小百合自身実家が極めて裕福な層に位置すること、そもそも国会議員がこのような発言をするのはいかがなものだろうか、といったところへ終始している。(たとえばこちら)
しかし、問題はそこなのか。彼女の意図はどこにあるのか。少し考察してみよう。
①上西小百合の主張
まずは、彼女の主張を噛み砕いて抽象して一般化してみよう。
彼女は、日本において信じられている、ある前提に大きな疑問を投げている。
すなわち、高校へ行って、大学へ行って、雇われて…という前提に対する疑問だ。
「なんで高校にいく必要があるんですか。雇われるという前提がわからない。既にそれこそが管理する側の発想ですよね。日本は緩いですよ。学歴なんてこの国の単なる一宗教です。」
というツイートは、その姿勢を端的に表しているだろう。
その他も、
「企業に入らないと幸せになれないって思う事が情けないし暑苦しい。」
「中卒になれなんて言ってませんよ。中卒でもこの国にはいろんな隙があるって言ってるんですよ。」
「貧乏って嫌だし大変だけど、決して悪い事をしてる訳ではないんですよ。大学行けば、高校行けばなんて、相手のルールに騙されないで。お金儲け(あくまでそれが幸せならですが)なんて要領なんだから。」
「この国で生きていくなら勉強はそんなに重要ではないんですよ。」
「なんで雇われる事ばかり考えるんだろう。怠け者の発想ですよ。」
「大学に行けばなんて、今時馬鹿の発想ですよ。」
というツイートからも、せっせと勉強する⇒高卒⇒大卒⇒雇われる⇒お金稼ぐ、のレールへ疑問を抱いていることは明確だ。
高卒でなくても大卒でなくても、雇われなくても、お金は稼げる、とのことらしい。(さらにお金を稼がなくても幸せになれる…という含みもあるのかないのか。)
これを主張Aとする。
そして、主張の論点が少し違うのが、このツイートである。
「所謂、一流大学に行くには現実的には学習塾に行かなければなりません。その費用がどれくらいだかわかりますか。結局、お金持ちが勝つ構造は変わらないどころかより差がつきます。官僚は学歴が高いし、議員はお金持ちばかりですから、そのバランスがわからないんです。」
結局金を持っている人が大学に行くのだと。そしてその上で、
「逆ですよ。今の受験の実態を調べれば、給付型奨学金を導入すれば格差拡大しますよ。」
「誤解を恐れずハッキリ言えば、日本の全体的な学力低下なんて、大した問題ではないですよ。教育上もっと大切な問題はあるし、他に優先しなければならない事があります。
前にも言いましたが、国際貢献なんてやってる場合じゃないし、給付型奨学金なんて議員の人気取りに騙されてるだけ。」
給付型奨学金を導入すると格差が拡大する、とのことらしい。
どうも、一般的に言われている、格差縮小のための奨学金に異を唱えたいらしい。彼女の議論の筋を通すために、一つの記事を引用しよう。
引用するのはこれ。「給付型奨学金が胡散臭い」という、胡散臭いタイトルである。
引用ここから。
「議論の前提として、日本は学歴社会で、よい大学を卒業して大手企業の正社員にならなければゆたかな生活を送れない、との共通認識があります。日本型雇用の崩壊が騒がれる現在、こうした古い常識がどこまで有効かはともかく、学歴がその後の人生に大きな影響を与えるのはたしかでしょう。
しかしそうすると、高校時代によい成績をとった生徒はよい大学に入り、社会人になって高い給与を得るのですから、その生徒に給付型奨学金を与えることは経済格差をさらに広げることにしかなりません。そもそも政策導入の理由が、貸与型奨学金を返済できずに苦しむ貧困な若者の救済なのですから、制度設計の前にまず彼らの高校時代の成績を調査すべきでしょう。
もうおわかりのように、ここにも度し難い欺瞞があります。要するに、バカな生徒に税金を使うと世論の反発が面倒だから、賢い生徒に給付して見てくれをよくし、“弱者”のためにいいことをしているとアピールしたいのです。日ごろから経済格差を批判している教育関係者も、経済格差を拡大するこの案にまったく反対しません。その理由も明らかで、自分たちの財布にお金が入ってくれば建前などどうでもいいのです。ここまで欺瞞が積み重なると、ほんとうに吐き気がしてきます。」
引用ここまで。
まとめると、
①給付型奨学金を受給するのはどうせ、「高校時代によい成績をとり、よい大学に入り、社会人になって高い給与を得る」人なので、そこに給付するのは逆進性が見られる。
②弱者へ給付する、というのは建前に過ぎない。馬鹿な学生へ給付するのは世論から攻撃されるので、弱者(でもなく、「高校時代によい成績をとり、よい大学に入り、社会人になって高い給与を得る」人)へ給付するという結果を招く。
これを主張Bとしよう。
主張Aは「大学へ行かなくてもいい、生きていく術は色々」説であり、
主張Bは「給付型奨学金は格差を広げる」説である。
②主張A「大学に行かなくてもいい」
主張Aは、大きく分けて二つの主張に分けられる。
「中卒でも社会の隙をつけば生きていける」説と、「大学にいくことへ疑問を投げかける」説である。ここでは同じ土台に立って、人材育成という面での反論をしよう。
まず一般論として、大卒と高卒では平均年収が大きく異なる。
(独)労働政策研究・研修機構によると、男性の生涯年収で6000万円の差が出ていることが報告されている。報道はこれ。一次データはこちらから。
OECDインディケータでも、「学歴が高いほど就業率が高く、所得も高い」「高等教育修了者の相対所得は、年齢の高い成人や技能の高い者ほど高い」(2015年カントリーノート)などとされ、学歴と賃金との密接な関係が指摘されてきた。
彼女がどんな大学生活を送ってきたかは知ったことではないが、こんな日本の大学教育にも、人材育成という意味でも大きな意義があるということは確かだ。
確かに統計からの外れ値として、「社会の隙をついてお金を儲けて」生きていく方もいらっしゃるだろうが、その難易度は半端ではないし、何よりその努力は必ずしも推奨すべきものではない。まっとうな努力をして、まっとうに働いて、それで生きていけるのならそれが最善に決まっている。
資本主義社会を構成する基本構成員は、(雇われる側としての)労働者である。「企業に入らないと幸せになれないって思う事が情けないし暑苦しい。」と彼女は言うけれど、それが資本主義社会なのだ。
そして、もしも労働者が隙などつかずにまっとうな努力をしてまっとうに食っていけないなら、そんな資本主義社会は滅ぶほかないということだ。
注意しておくが、ここでの「まっとうに食っていく」は、男性が一人暮らしして食っていけるという意味ではない。
配偶者をもち、時として配偶者を養い、子供を2人以上作っても食っていけるという意味である。
理由は明白で、そうでないと社会は再生産性を失って衰退していくしかないから。子供を2人以上作れないなら人口は減っていくことしかできないから。そんな資本主義社会は衰退し滅ぶほかないから。
資本主義社会では誰もが事業主にはなれない。雇われることを前提にする社会にいることを認識し、まずはまっとうに(社会の隙などつかずに)頑張る労働者がまっとうに食っていけることを考えないといけない。
ましてや彼女は国会議員という、日本社会をどう良くしていくか考え実行する立場にいるのだから。そのような立場にいる彼女がむき出しにしているのは、汚い言葉を使うなら、「反日根性」だ。
一方、「大学に行っても…」説はこの国で根を這っている。大学に行ってもまじめに勉学に励んでいない学生に、どうして給付型奨学金を出さないといけないのか、と。
上西氏も、「皆さんハッキリ言わないれど、大学のレベルの問題です。あるレベル以下だと就職は難しい。議員だってわかっているけれど人気取りの為に推進します。また、昔と違って今はいろんな職種があります。」とツイートするなど、大学への不満を隠そうともしない。別のツイートで「そうですよ。神戸女学院ですから。馬鹿大です。」と言っているあたりに(有意義な大学生活を送れなかった)ルサンチマンを感じなくもないが。
さてさて、確かに大学生の学力水準の低下が叫ばれて久しい。
上西氏はずいぶんと自身の大学やそこで受けた教育に不満なようで、かつそれが普遍的だと思っているらしいのだが、誰もそこまで視野を狭めてくれと頼んだ覚えはない。
一つサンプルを挙げるなら、私は大学で意義深い学びを経験できたし、そこでの学びは現在の職場でもいかんなく発揮されている。そしてそういう仲間に、沢山の仲間に大学で出会った。
要は人それぞれ、意義深い大学生活を送っている人も、怠惰な大学生活を送っている人もいて当然だろう。
(なぜ大学生の学力低下がここまで叫ばれているのかは別記事で議論するよ)
しかし胡麻化していても仕方ない。ここではっきり言いきってしまおう。給付型奨学金をもらっても、怠惰な大学生活を送る人はいる。なんでこんな努力しねえ奴に給付型奨学金を渡さねえと駄目なんだ、ってバッシングが起きそうな人もいるだろう。私自身、そういう話を聞くとイラっとするのを止められないだろう。それを否定するのは直感が許さんと申しておる。
しかし逆も然り。給付型奨学金によって意義ある大学生活を送れる人も必ずいる。給付型奨学金が無いとあるとでは世界が大きく違うはずだ。
例えば東京大学では、世帯年収400万円以下の学生への授業料全額免除制度を作ったことで、翌年から年収450万円以下からの進学が倍に増えた。(こちらを参照)年収を理由に東大受験を諦めていた層が相当数おり、東大がそのような学費免除制度を作ったことで諦める必要が無くなったということだ。
さらに学生が大学に入ってからも、給付型奨学金のあるorなしで、実家から数時間かけて通うor一人暮らしできる、や、アルバイトに追われて学業どころでなくなるor最低限の余裕が生まれ学業へ集中できる、が変わってくるとなると、この国にとっても極めて意義がある事だ。
「大学生が学業に集中できる」。素晴らしい国益ではないか。そんなに公共性の高いところには税金を投入する意義が十二分にある。それでもし十分に高年収になったなら、後は徴税の役割だ。しっかり税を納めてもらおう。
こういう給付型奨学金のような制度は、対象をいっぱい包括して、大学生の学ぶという権利を保障出来れば、(まずは)それでいいのだ。怠惰な大学生活を送る人に渡る羽目になることを恐れて給付型奨学金を作らないで、年収を理由に大学を諦める人やアルバイトに追われる学生を放置する方が、何倍も愚かな選択のはずだ。
③主張B「給付型奨学金が格差を拡大させる」
ところで一方、主張Bへの反論は容易である。
まず世帯年収を基準に給付型奨学金を創設すればよいのだ。
確かに世帯年収がある(=親が教育資本を豊富に有している)ことは、子どもが豊かな教育を受けることへと繋がり、結果として高年収のスパイラルというべきものが形成される。逆もまた然りであり、教育資本を持たない世帯からの大学入進学率も低い。こうして格差は固定化される。親の年収が進学先に影響を与えていることは、多くの調査統計によって明らかにされているのだ。(少し古いが一番有名なものがこちら)
確かに、大学進学や給付型奨学金が「恵まれた家庭しかあずかれない恩恵」であるというのは一理ある。
給付型奨学金を作っても、そもそも大学進学できるだけの教育資本がない家庭はどうしても存在する。
母子家庭に生まれても、最低限に教育を受けられ(かつ親がしっかり子供と向き合う時間も作れて等他にも条件を満たしつつ)、健全に努力を積み重ねていけば大学へ進学できるような社会であればいいのだが、その難易度の高さは半端なものではない。
しかし何しろ格差是正というのは、そう簡単ではないのだ。もし一気に格差を改善したいなら、給付型奨学金より根本的な子育て支援が必要だろう。
なので今はまだ、給付型奨学金はそういった格差を是正する一つの手段に過ぎなくていい。
今はまだ、ある程度恵まれた家庭しかあずかれない恩恵でもいい。
だから給付型奨学金を皮切りに、そういった支援をもっともっと充実させていけばいい。
給付型奨学金はある程度恵まれた家庭しかあずかれない恩恵だから不平等だ、欺瞞だと言って何も作らないよりは、ずっとずっといい。
私のポジションとしては、給付型奨学金には大賛成です。
ただしそれが十分ではないことは明白です。それについてはまた別記事で。