和歌山にて柿取りの仕事が休みの時に出掛けた場所を載せてみました。

町石道(ちょういしみち)
和歌山県九度山町慈尊院にある「丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)」の駐車場より。この道は高野山へと続きます。
慈尊院外周壁
なんともおもむきのある土壁を見ながら
慈尊院
弘仁7年(816年)弘法大師(空海)が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、一の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とされました。
下乗石(げじょういし)
この下乗石は、天文9(1540)年紀の川の大洪水によって流出した旧慈尊院南門に建立されていたその上部である。紀伊名所図会に「慈尊院村の北路傍にあり。法務権僧正定海と記せり。長者補任によるに保延2年の建立なり。」とあり保延2(1136)年の建立となれば、県下最古の下乗石といえる。 (立て札より)
それぞれの門に下乗札がかかっており、皇族・貴族はここで馬・籠を降り自分の足で行くことになる。
土壁
築地塀というのだそうで、境内の周囲3方約250mにわたり和歌山県一の古さと壁の厚さがあり県指定文化財だそうです。
弘法大師堂
御本尊は弘法大師。脇仏は、四国八十八ヶ所霊場の御本尊八十八躯をおまつりしてあるそうです。
地蔵尊
慈尊院拝殿
「我が子が開いている山を一目見たい」弘法大師の御母公が香川県の善通寺より訪ねてこられました。
慈尊院
しかし、当時の高野山は女人禁制でありましたので、弘法大師の元には行くことができず、この慈尊院で暮らしていた。
多宝塔
本尊は大日如来が置かれているため、大日塔とも呼ばれています。弘法大師の創立。現在の塔は寛永年間(1624~1643)に再建される。
百八十町石
九度山町から高野山へと続く約21キロの道程で、今も一町(109m)ごとに卒塔婆石が残り、歴代天皇や法皇、関白や将軍をはじめ一般庶民が、現在に至る千余年の間、ふみかためてきた信仰の表参道です。高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22kmの道中に180基ある最後の町石。
丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)参道
空海(弘法大師)が真言密教の道場の根拠地を求め歩いて大和国宇智郡に入ったとき、そこで猟師の姿に扮した地主神・狩場明神(高野御子大神)に紀伊国にある霊地・高野山の存在を教えられた。狩場明神はその使いである白・黒二匹の犬に空海を高野山まで導かせた。
丹生官省符神社鳥居
後、弘仁7年(816年)、空海は嵯峨天皇から高野山の地を賜った。この縁により、空海は高野山の地主神狩場明神とその母である丹生都比売大神を高野山の入り口である当地に丹生高野明神社として祀ることとした。
丹生官省符神社
弘法大師が慈尊院を開創した弘仁7年(816年)、その守り神として地元にゆかりのある丹生都比売・高野御子の二神を祀った神社
179町石
丹生官省符神社を出てすぐの左手にある179町石
文章は町やそれぞれのホームページから抜粋や参照として使わしてもらいました。