城山史跡公園
長野県千曲市戸倉温泉の「戸倉千曲川緑地公園」より戸倉上山田温泉と書かれた白い看板文字の「戸」の字の上に、荒砥城の櫓が見える。「上」の字の辺りに駐車場があるので行ってみた。
①上田市方面
天気があまり良くなく遠くは霞んでいるが、左側に千曲川が流れて上部の木の枝が写っている先が上田市方面になる。手前の屋根は上の写真の温泉マーク上にある「善光寺大本願別院」の屋根になる。
②城山史跡公園
長野県千曲市上山田城山には、約500年前に村上氏の一族である山田氏が築いた「荒砥城跡」を整備して作った公園がある。そこにチビを連れ出した。
③四の郭跡
川中島合戦の頃には、武田軍と上杉軍による争奪戦が繰り広げられた場所でもあるらしい。
④皇紀二千六百年記念碑
紀とは、明治政府が定めた日本独自の紀元(きげん=歴史上の年数を数える出発点となる年。紀年法)で、1872(明治5)年に明治政府が、神武(じんむ)天皇が即位した年を、記紀(古事記と日本書紀)の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年とした。1940年(昭和15年)が皇紀2600年に当たる。
⑤三の郭跡
自分は歴史に詳しく無いのでここからはWikipediaの抜粋となります。
天文22年(1553年)には武田信玄により葛尾城が落城すると、武田氏に従った屋代政国の替え地として、荒砥城を与えられ屋代城から移った。
⑥二の郭門
天正10年(1582年)、武田氏が滅亡した後は、屋代秀正が上杉氏に従い海津城の副将として遇された。しかし主将の山浦景国(村上義清の息子)とはしっくり行かなかったようである。
⑥二の郭門
村上氏一族の中で最初に武田方に寝返った屋代氏は信頼されず、上杉景勝は稲荷山城を築いて監視していた。
⑦二の郭門
天正12年(1584年)4月1日、秀正は徳川氏に通じたため上杉景勝に攻められ、荒砥城に火を放ち、徳川の下へ出奔して旗本となる。
⑧坂城方面
荒砥城は以降、廃城となった。しかし屋代氏出奔後の領地の一部は景勝の人質となっていた真田信繁(幸村)の領地として与えられたとされている。 以上はWikipediaからの抜粋です。
⑨坂城・上田方面
ここからは荒砥城跡に再現された櫓からの風景になります。千曲川に沿って上田方面から
⑨戸倉上山田市街地方面
千曲川の左側が大正橋、右側が万葉橋。手前には戸倉上山田温泉の旅館やホテルのビルが乱立していてバブル期の栄華を偲ばせる。
⑨千曲市から長野方面へと千曲川は続いている。天気が良いと北アルプスの山々が見える。
写真撮影場所
明日は二の郭からの続きを載せる予定です。