昨日、巨木を見てきた。

林業関係者は、休日でも山に行ってしまう人も多いかもね。

幹回り10メートルを超える木、樹齢1000年以上と推定される。

想像もできないほどの長い歴史を刻んだ堂々たる姿は…いつも見慣れているはずの木とは別の生き物にすら見えるほどだ。

木は生まれ落ちたその場所から動くことはできない。

木は動物とは違い、良さそうな場所を狙って種子を落とすこともできない。

その場所が、まったく日の射さない場所かもしれない。落ち葉が多くて土まで根が届かないかもしれない。

どんな大樹も、その最初のときには草花と変わらないような、小さく弱々しい芽でしかない。

…枝に根がついて木になるパターンもあるけれど、小さく弱いという点ではたいして変わらないだろう。

芽吹いた木が成木になれる確率は、10万分の1から100万分の1ともいわれる。

日本の環境下では、木の死活問題としてもっとも重要となるのは日光が確保できるかどうかだという。

そのために、木は幹や根よりも葉を成長させるという。

動物たちは、子孫を残すことにすべてをかけ、戦い、短い命を燃やし尽くす。

草花たちは、なんど踏みつぶされ身を引き裂かれても、冬という死の到来の前に必死で種をつけて子孫を残そうとする。

しかし木は条件が悪ければ花をつけるより葉を優先するという。

生きていれば、命をつないでいれば、自分にもいつかチャンスがめぐってくるかもしれない。そう考えているのだろうか。

こんなに身近にいるのに、人間とはまるで違う世界を生きている生物だ。

天然記念物などになって人々に手厚く保護され、生き永らえている巨木も多いが

逆に新たな巨木が生まれるとき…今はまだ若い木々たちが、このような巨木になるとき…それを見ることは、私たちには絶対にできないのだ。

それは遠い未来の話だからだ。

人々が木を切ったり植えたり、森を切り開いて集落をつくったり、そこからまた人が去っていったり。

林業をやっていると、工業団地にするために山を皆伐するとか、そういう仕事もある。
なんだかやるせない。

工業団地は、100年後にはどうなっているのだろう。
開発が進む地域もあるのとうらはらに、奥地へ入れば限界集落ばかり。
そんな土地柄である。
日本の縮図のようだ。

この、人間とは異色の生物…木に携わる者としては、100年、いや1000年目線でものごとを考えていかねばならないのかもしれない。