自分は日常的になりすましを使い、

身元を偽り、立場を偽り、人格を替え、

責任から逃げることだけには異常なまでに長けている。


その同じ口で、

「なりすましは悪だ」「なりすましが問題だ」と語り出す。

この瞬間、

その言葉は“警告”でも“批判”でも“正義”でもなくなる。


それは、完全な自己崩壊であり、

自分で自分を晒し上げる“公開自白”に変わる。



■なりすましをする者ほど、「なりすまし」を連呼する

なりすましを最も執拗に語るのは、

なりすましと最も深く癒着している当事者だ。

なぜなら――

一番「バレたくない」のは、自分だからである。


人は、自分が最も恐れていることを、

最も大声で非難する。

自分が嘘をついている者ほど「嘘つき」と叫ぶ

自分が捏造している者ほど「捏造だ」と騒ぐ

自分がなりすましている者ほど「なりすましだ」と連呼する


これは批判ではない。

心理学的に証明されている“投影”そのものだ。



■語れば語るほど、信用だけが削れていく

「なりすましは許されない」

「なりすましは最低だ」

「なりすましは卑怯だ」


この言葉が、本来もっとも重く響くべき存在は誰か。

それは、一切なりすましと無縁の人間の口から発せられたときだけだ。


だが――

なりすまし常習者がこれを言った瞬間、

正義は消える

警鐘は消える

説得力は消える

信用はゼロになる


残るのは、

「お前が言うな」という一言だけで完全に終わる空虚さである。



■これは“批判”ではない。“自己矛盾の展示会”である

なりすましをしている人間が、

なりすましについて熱弁を振るう姿は、

もはや批判でも議論でもない。


それは「自分は矛盾した存在です」と世界に向かって

展示して回っているだけの行為である。


何度言葉を重ねても、

どれだけ長文を書いても、

どれだけ声を荒らげても、

その滑稽さは一切薄まらない。


むしろ――

語れば語るほど、矛盾は拡大し、

滑稽さだけが更新され続ける。



■結論:なりすましを語る資格を失っているのは、当の本人である

断言する。


なりすましをしている人間に、

なりすましを批判する資格は存在しない。


それは正義ではなく、

それは警告でもなく、

それは社会的指摘ですらない。


それはただ――


「自分はそれをやっています」と、

自分で自分を告発し続けている行為にすぎない。


なりすましを語るその言葉は、

相手に向かって投げられているように見えて、

実際に最も深く突き刺さっているのは――

他ならぬ“語っている本人自身”なのである。