奥歯を噛み締めると、口の中に血の味が広がった。折紙は自身の無力さに哀れみすら覚えていた。ASTに入り、顕現装置によって魔術師としての力を得てなお、その力を使える状態でなければ力を振るえない。して、今目の前に広がる恋人の危機に何も出来なかった。目の前で、大剣を振るって精霊と戦闘を行う士道を見守る事しか出来なかった。
「──────────────────」
この手に、顕現装置があれば。何度そう思ったか。この腕に【ホワイト・リコリス】があれば、何度そう思ったか。今の折紙は何処にでもいる一高校生でしかなく、目の前で起こっている現象を傍観することしか出来なかった。突如顕れた精霊、【ディーヴァ】の力は余りにも圧倒的で、更にその天使である【破軍歌姫】の力によって操られた元精霊達。ASTは精霊を殺す為に作られた筈、と折紙は思う。しかしその肝心なASTはいない。異分子によって構成された部隊の所為でASTは出勤せず、DEM本社からの差し向けである人員は崇宮真那によって粗方の数が撃墜されてしまった。
「不甲斐ない」
やはり単調で平淡な声でそう言い、拳を握り締める。【ホワイト・リコリス】が傍に転がっている。ついさっきまで魔術師として【ホワイト・リコリス】を動かし飛び回っていた自分も、身体の限界によって戦闘不能に陥り、今では顕現装置でさえも鉄塊でしかない。人間でしかない折紙にはこの惨状に何もする事が出来なかった。
【どうしたんだい?君は何もしないのかい?】
虚空から声が聞こえる。折紙は目を見張った。何をするでもなく、頭に声が響く事は現実では起こり得ない事象だった。顕現装置を持つ自身にはそれを起こす事は可能だが起こされるにしても、肌を舐め回す様な感覚───────随意領域の感覚はない。幻聴かと思い、その思考を振り払う。
【無視するなんて酷いじゃないか】
空耳などではない。はっきりと脳に響く様にダイレクトに呼び掛けてくる声に、折紙は物憂げに返答する。
どうせ、頼るものなどないのだ。見ている事しか出来ないのであれば、得体の知れないモノに耳を傾ける事をしても問題は起きないだろうと、折紙はそのノイズに意識を一部集める。
【君に彼を守るだけの力があれば、ここで傍観しなくてもいいのにね】
「─────────────────っ」
小さな反応を、それは見逃さなかった。折紙は動揺している。今、自分に足りないもの。それは力だと断定出来る。恋人を守る力さえあれば、と幾度そう思ったか。
【なんだ、君も力が欲しいのかい?】
「それは、どういう?」
結論を急ぐ訳にはいかなかった。
それなのに、その言葉は余りにも甘美で、魅力的なものだった。『士道を助けられる。そんな力が手に入れられるのであれば、命すら擲ってもいい』と、折紙は判断力を鈍らせられる。一片的な感情からそんな事をして、メリットはなにか、デメリットはなにかを見分ける事も忘れて、折紙は首を縦に振った。
【力が欲しいなら、これに触れてごらん】
頭に響くだけだったノイズが目の前に顕現する。ふっ、とそこに空間の歪みが発生したかの様に突如風景がノイズ混じりに変化する。直感的にそのノイズに触れる事を指しているのだと感じ取って、ノイズに手を伸ばす。触れる数瞬前に、ノイズが圧縮されて中心部にキラキラとした透明色の───────光を当てると七色に輝く白色の宝石の様なものが、そのに現れるのを確認した。
【誰よりも強くなれる。きっと彼の事を守る事だって容易いだろうさ】
折紙は、はっと息を飲んだ。
「本当に、士道を守る事が出来る、の?」
【あぁ、勿論そうだとも】
『ノイズ』が言う。誘う様に、誘う様に。
折紙はゆっくりと手を伸ばし、宝石に触れた。────禁断とされるであろう力に手を伸ばしてしまった。
触れた手に宝石が溶けて入っていく瞬間、折紙の身体を研磨する様にゴリゴリと削る様な感覚が折紙を襲った。
「────────────────ッ!?」
身体中に激痛が走る。筋肉を刺激する痛みではなく、身体を粗い布で削られる様な痛み。随意領域があった為に痛みを感じる時は脳、若しくは筋肉痛でしか最近になって感じていない。久しぶりの痛みに表情が歪んだ。
痛みは数秒で消えたが、すぐに別の変化が訪れる。ドレスに包まれた自身へと、顕現する奇跡。その両腕に顕れる、骨格の様な大きすぎる『盾』が、光の粒子が形を形成する。同時に、【ホワイト・リコリス】が蠢動するのが感覚的に分かる。
【どうだい?その力は】
「──────────」
言葉が出なかった。自分にはなかった力が、底から沸き上がるかの様にして溢れ出ようとする。光の粒子が周囲を漂い始める。折紙は自身の異常に気付き────────客観的な観点で自分の格好に評価を下した。
「精、霊……?」
【そうだよ。君たちの呼称はそれだ。さぁ、これで愛しの彼を助けてごらん】
今まで討伐の対象となっていた、今まで忌み嫌う対象であったモノに自身が成っているという現実に、折紙は気絶しそうだった。しかし、現実を受け入れるよりも感じる事よりも先に目的が脳内を疾走する。
【君の天使の名は、彼岸花だ。君の霊装の名は、神威霊装一番だ】
ノイズが囁く。
【その名を、解き放ってごらん】
瞬間的に頭を過った言葉を、折紙は口にする。
アシェル・エヘイエー
「神威霊装・一番」
次いで、その絶対の矛となるはずだった異常な盾をの名を叫んだ。
メタトロン
「彼岸花!」
蠢動する【ホワイト・リコリス】を、元々身体に含まれていたかの様に操る。精霊が顕現する天使の概念を冒涜するかの様な【ホワイト・リコリス】の特徴は、戦車を連想させるにも関わらず、その側面が両腕に顕現して盾となっている事だ。折紙の持つ─────────精霊、鳶一が持つ天使は矛として機能するが、鳶一の天使は盾として用いる事を最大の利点としたものだった。霊装という盾を持ちながら、天使ですらも盾となった異常は、彼女の何が現れたものなのか、その答えは本人が一番分かっていた。両親を失った鳶一折紙が有する唯一の心の拠り所を守る為の得た力。それが、精霊の力だっただけに過ぎない。
鳶一は立ち上がって士道の元へと走った。精霊の力を得た鳶一にとって士道との距離はあってないようなものに感じられる。目の前で起こっている、【ディーヴァ】との戦闘に介入する様に、鳶一は盾を振るった。
「士道、助けに来た」
その言葉を言い放つ事が鳶一にとってどれ程意味のあった事なのか、彼女自身にしか分からないだろう。士道は驚愕に目を見開いた。当然だろう、鳶一の格好は精霊そのものなのだから。普段のワイヤリングスーツでなく、純白色のドレスを着た鳶一は悠然と立っている。両腕に顕現した天使を士道は凝視し、意味がないと理解しておきながら質問を投げ掛けた。
「鳶一、お前、それ───────」
「折紙」
「お、折紙はそれ……」
士道が呼び名を忘れていた様なので訂正する。鳶一からすれば、あの夜刀神十香が名前で呼ばれているのに自分が名字で呼ばれるという事が許容出来なかった。
「精霊」
「お、おぅ。それは分かる………って、分かるのもおかしいか」
「貴女も邪魔するんですかぁ?おかしな人ですねぇ。精霊と言いましたけど、貴女の何処が精霊なんですかぁ?」
横槍を入れるかのように美九が遮った。美九の顕現した天使によって元精霊たちは十香を残して洗脳されている。限定解除された霊装に身を包み、顕現させた天使を振るわせる。美九は天使であるパイプオルガンから一歩たりとも動かない。あろう事か肘をついて嫌そうに鳶一を眺めていた。
「【殺しちゃって下さい】。あの人はどうも精霊とは呼べません。だって、なんですかあの天使。ちっさすぎません?そんな変な精霊いませんよぉ?ほら、この子達だって武器を持ってるじゃないですかぁ。凍結の人形に、大槍にペンデュラム。可愛いじゃないですかぁ。美しいじゃないですかぁ」
「あなたの意見は聞いていない。私はただ士道を守る為に来た」
ぴしゃり、と抑揚のない声で鳶一は美九の声を止めた。
「私は嘘つきを懲らしめているだけですよぉ?だって、この人は私に可愛らしい精霊たちを隠していたんですよ?そしてなによりも──────────男であることを隠していた」
士道が杖の様にしてその手に持った大剣を地面に突き刺す。その表情には疲労が見られた。
「だから、あなたは殺そうとした?」
「そうですよ?だって嫌じゃないですかぁ。嘘吐かれたらいい気分じゃありませんしぃ」
「いなくなる事は、悲しい」
「悲しい?なんですかぁ?」
「二度と逢えなくなる」
「だってぇ、私はもう二度と逢いたくないんですし」
「───────────────」
「もういい折紙。これ以上話していても平行線だ」
士道が鳶一の肩を掴んで制止する。
「だったら、どうするの?」
「……決まってんだろ。十香を助ける。四糸乃を助ける、耶倶矢を助ける夕弦を助ける!でも俺にはそれが─────────────今は出来ない」
歯噛みする様に士道は最後の言葉を出し渋る。認めてしまう事がこれほどにまで辛い事なのかと自身の弱さを呪った。今実質的に士道のカラダに精霊の力は琴里の持つ<イフリート>のものだけとなっている 十香の<鏖殺公>を手にしているとは言え、肝心の十香はエレン・M・メイザースによって連れ去られている。琴里以外の精霊が霊力を限定解除しているせいで取り込んだ力を振るう事を士道は出来なかった。
「それじゃあ、一体どうするつも────────────」
『シン、聞こえるかね?』
「え、あっ、はい?というか琴里は!?」
士道のインカムから声が聞こえ、咄嗟に反応したせいで疑問系になってしまう所を、琴里の状態を思い出して言葉を半強制敵に繋ぐ。声の主は村雨令音解析官だった。士道は内心安堵しながら琴里の容態に対する返答を待つ。
『ふむ。まぁ…問題はないよ。琴里は今気絶している。というより、君を速く回収したいのだが……そのにいるのは鳶一か?』
「え、えぇ…そうですけど」
ちっ、と舌打ちが背後から聞こえる。放置されていたと感じた美九が発したものだった。
「煩いですねぇ。何を話しているんですかぁ?私は貴女たちと会話していた筈なんですけど?」
パチン、と美九が指を鳴らすとそれに反応するかの様に発生する空間震警報。瞬間的に士道は美九が引き起こしたものだと悟る。
「────────────────殺す気か?」
「当たり前じゃないですかぁ?だって、邪魔なんですし」
邪魔と、その一言が士道には許容出来なかった。学園の生徒たちもこの中に紛れ込んでいるに違いない。となれば、1度天使を聞いた人間たちが待避しているとは考えづらい。被害よりもその我が儘に奪われる命が士道には無視出来ない存在だった。しかし、
「来る」
士道が言葉を紡ぐより速く鳶一が動いた。霊力を解放し、随意領域の様に前方展開。防性結界のイメージで士道と自分を包み込んで空間震に備えた。
「ば、折紙!?まだ人がいるのに何して──────────!?」
「あなただけでも、助かって欲しい」
鳶一のその言葉を聞き届けたかのように空間震が無惨にも発生する。美九の周囲から空間に歪みが発生して地面に丸いクレーターを作ったかと思うと、一瞬にして円形のクレーターが広がった。コンクリートを抉りこちらへと近付いてくる。鳶一の作り出した壁が無色透明なせいで、空間震の破壊力をその目をもって再認識する。
「だッ、だからって見捨てる理由にはならねぇだろ!」
「…………」
鳶一は目を伏せて士道から表情が悟られないようにした。何が言いたいか、鳶一には痛い程に分かる。だってそれは、自分のASTに所属する上でもっとも重要な事だったのだから。鳶一折紙は両親を精霊によって殺されて、自分と同じ境遇の者が二度と現れぬように、精霊を殺す為に。目的はその二つだった。だから、士道の言わんとしている事は理解出来る。
しかし精霊の力を与えられて、感じて理解した。これは守る事の出来る力だけど万能じゃない。たった一人の心の拠り所を守るためだけに手を伸ばした力だ。これは一人しか守れない。限定的な絶対の盾は万人を救える筈がなかった。
「私には……不可能」
「だからって、やってみなくちゃ────────────」
「不可能」
微かに変わる声色に士道は気付く。
「………何処でならフラクシナスで拾ってくれますか令音さん?」
決意し、士道はインカムを小突いて令音を呼び出す。待ってましたと言わんばかりにクルーの椎崎がマイクを令音から奪うかのようにして指示を出す。
『士道くん外です!会場の外なら何処でも拾えるようにしました。正気を保っている人だけを連れて退場してください!』
正気も何も、自意識を持っているものは鳶一だけだった。空間震が止む。その間を見計らって士道は鳶一の華奢な手を取って走る。