この世の端 -2ページ目

この世の端

恐い話を書いています。短編と長編を細々と。怖いと良いんですけど。

 降りるバス停を間違えた。見渡せどあるのは平たい田んぼばかりで、次のバスも2時間後にやってくる。真っ直ぐなアスファルトの道路の先を見ると、右手に少し折れたところに駅がある。まだ駅まで歩いたほうが目的地は近いだろう、と自分の迂闊さを呪いながら歩くことにした。クールビズとはいえ、シャツ一枚で涼しくなるわけではないし、背広も結局は腕に持っているわけであり、暑い。
 あまりにも変わり映えのしない景色に、自分が先に進んでいるのかさえ疑わしくなる。自然と目は地面にばかり行くようになる。待ち合わせの時間よりも早く来ておいて正解だった、と思う反面、自分が間違わなければ今頃はクーラーの聞いた喫茶店でアイスコーヒーでも飲んでいるのではないかと腹立たしい気持ちにもなる。
 車の一台でも通ればヒッチハイクでもなんでもするだろう、と思い後ろを振り返るが車どころか人すら見当たらない。平日の昼間ともなるとこんなものなのだろうか。青々とした田んぼの水にすら足をつけたくなる衝動を堪えつつ歩く。只管熱と汗と気力との戦いを繰り返していた。そこに、ポツリ、と水滴が落ちるのが見えた。
 雨だろうか。
 見上げると、空は雲ひとつない真夏の青い空がどこまでも続いている。入道雲は道のだいぶ先にある。
 自分の流した汗だろうか、と見ているまもなく、今度は音まで聞こえてきた。ザアアアア、という独特の雨音。
 地面は見る間に黒くなっていく。
 けれど、雨粒が見えない。天気雨とは明らかに違う。不思議に思いながらも歩き続けると、ようやく駅についた。
 駅は無人駅だったが、先客がいた。杖をついた老人は電車が来るまでうとうととしていたようだが、自分を見ると、おや、という顔をした。知り合いだろうか、と思っていると、
「今日は雨が降るのかねえ」
 と言った。
「いや、雨なんて降っていませんよ。そういえば、雨音がしたことは確かなんですが」
 老人は首を横に振った。
「これから降るってあんたにお知らせが来たんだよ。まあ、そっちはすぐ乾くからほっといても大丈夫だよ」
 首を傾げていると、老人は無人駅に置かれていた鏡を顎でしゃくった。
 鏡を見て驚いた。頭から肩までびっしょりと濡れていて、にわか雨にでもやられたような姿になっていた。
(終)
 私が友人の家に呼ばれて行った日のことだ。部屋に入る早々驚いたことに、涼しかった。そんなことあるはずがない。ドケチ、もとい倹約家で、家で出されるものは水道水、暗くなったら即就寝、ネットサーフィンするときは大学のみ、当然遊びに行くときは自転車で行ける範囲内、の友人が、元々造り付けのエアコンとはいえ、ここ三年は使ってないであろう光熱費のバカかかるエアコンを使っているとは。
 危うく買ってきたコーラをビニール袋ごと落っことすところであった。
「まあ適当に座ってよ」
 私の疑問符を続けさせるまもなく友人は座布団を指し示した。友人が指し示した席は窓の正面を向いていた。さすがにカーテンがしてあるところは節約ぶりが衰えていないというところか。さすがに連日の猛暑にやられて諦めたと見える。
 しばらく夏休みのバイトの話だの旅行の話だので時間を潰していたら、話題も段々と尽きてきた。外も暗くなってきたし夕飯にありつけるわけでもない。
「そろそろ帰るわ」
 そう言うと友人が「ちょっと待て」と恐ろしいぐらいに真剣な顔をして引き止める。
「何?」
「実はさ・・・すごく変な話なんだけど・・・
 なんかさあ、最近暑くて仕方なくってさあ、窓開けて扇風機つけて寝てたんだけど、なかなか寝付けなくって。早朝バイト入れてた日だったから、無理に寝ようとしたんだよ。
 それでも深夜になるとそこそこ暑さもひいてくる。汗ばんでいるせいか風が当たるたびに冷んやりとして、それが不快よりも心地よいになってしまい、気付いたら寝ていた。だけど、目が覚めてしまった。時計は文字盤が読めなくて分からない。目が覚めた原因は、セミだ。セミの鳴き声がすぐ傍で聞こえる。この距離だと恐らくベランダだろう。部屋が二階にあるために狭いベランダにセミが迷い込んでそこで鳴き続けることがままあったのだ。ひどいときは網戸に足からませてばたばたして。そりゃひどい音がするんだ。
 で、当然一応閉めていたカーテンを開けて、ベランダに行こうとして、見てしまった。
 がっつり焦点があったどころがじっと見詰めてしまった。
 坊主だったと思う。目の周りが驚くほど黒かった。そいつがこっちを見て、無表情にセミの鳴き声みたいな音を出して・・・


「何それ!」
 友人の話に私は大爆笑した。こっちが真剣に聞いてたら、はげ頭の男が無表情で蝉のまねしてたって。
「それ、泥棒の間違いだろ。見つかったんで慌てて蝉の真似して、うける」
 私の笑い声が響いている間に、蝉の鳴き声が何処からか聞こえてきた。
 友人はじと目で私を見た。
「じゃあ、見てみろよ」
 私は閉められたカーテンを見ながら、笑顔でこう言った。
「絶対嫌」

(終)
 あれは私が小学校一年の、初めての夏休みのことだった。普段から忘れ物が多かったために、何か学校に置き忘れているのではないかと思っていたら、案の定だった。
 夏休みの宿題一式だった。
 親にばれる前に取りに行かなければと、こっそりと泣く泣く小学校に取りに戻った。時間は、まだお昼を過ぎてすぐだったと思う。だが、校門は閉まっており柵を引っ張っても横に引こうとしてもうまくいかない。
 諦めて先生に言うしかないか、と思ったけど先生が来ない。その間にも暑さは続いて汗はだらだらと額を伝っていった。
 そうしていると、後ろから声をかけられた。
 私と同じくらい間抜けな同級生である。
「閉まってるよ」
 そう言うと彼は「あっちから行くか」
 と言ってあっさりと門を諦めて、グラウンドのほうに向った。私も彼の後についていくと、フェンスに穴が開いている箇所があった。
 フェンスの内と外で見る風景はこんなに違うのだろうか。誰もいないグラウンドはただ広く、虚ろな感じがした。アラジンと魔法のランプの世界でしばらく遊んでいたら彼を危うく見失いそうになった。
「待ってよ」
 着いて行くと今度は体育館と教室をつなぐ外廊下へと向かう。今思えば、彼はそういうことに関しては頭が回っていたのかもしれない。
 校舎へと通じるドアは開いていた。私たちはとりあえず靴を脱ぐとしのび足で木造の廊下を歩いた。最近ワックスで磨いたためか、独特なにおいがした。生徒はもちろんだけど、先生も誰もいない。用務員のおじさんも見回りとかはしていないようだ。それでも、つい見つかってしまうのではないかとこそこそと歩いてしまう。心臓がばくばくとなっているのが聞こえるようだった。
 小学校一年のクラスは幸いにも一階にある。真っ直ぐ歩いているとクラスのネームプレートが見えた。廊下の窓から二人してこっそり様子を伺うが、誰もいない。しーん、ではなくシン、としていた。電気のついていない教室は、太陽の光で薄明るかった。扉を慎重に開く。入ってから廊下をちらりと覗いた。薄暗い廊下は誰もいない。
 教室は、生徒たちがいなくなってからそんなに経っていないはずなのに空気が篭っていた。蒸していたからかもしれない。
 私は自分の席を見つけると中を覗いた。あった。新品のドリルはそこにちゃんとあった。ほっとして気が抜けて、彼に声をかけようとしたら、固まった。
 彼もそっちを見ている。
 教壇に、白いワイシャツの男の人がいた。眼鏡を掛けているように見えた。顔はよく見えない。私はただ状況が飲み込めずに息を呑み、靴とドリルを抱え込んでいた。
 彼は、じりじりと後退していくようだった。よく分からなかったけれど、私もそれに合わせるようにして・・・。
 下がろうとしたら思い切り後ろの席にぶつかった。
「わ!」
 と短い声を出して持っていた靴とドリルを取り落とし、慌てて拾っていると私の横を彼が通りつけていく。
「逃げろ!」
という声に急いで従って、彼の後ろを必死に追いかけた。
 気がついたら声を上げていたのだろう。廊下の端まで来たところで階段から降りてきた用務員さんに一喝された。
 それから、職員室に連れて行かれ、先生には怒られ、親にはしっかりとばれて家に帰ってまた怒られて、と、そのせいで色々と吹っ飛んでしまったが、私も彼もどういうわけか、あの日教室で見たものについては一言も、誰にも言わなかった。
 たぶん、私たちが事実の整合性が取れないことに無意識に気付いていたからだろう。私たちは、あんなに用心していたのに、大人の男がいることに気がつかなかったのだから。
(終)
 暑い、クーラーをつけても28度設定の室内は蒸し暑く、広い講堂ではクーラーなど利いているのかどうか不明である。
 するとどこからか甘やかな香りとともに風がそよそよと顔に吹き付けてきた。
 見るとセミナーに参加した友人が扇子をこれ見よがしに仰いでいる。見たときには随分ぼろいものだと思ったが、広げた絵を見るとなかなか風情がある。
 池の下に鯉、岩場の蛙は今にも飛び出しそうである。
 なんでも納屋に置かれていた沢山の破れ、破損した扇子たちの中から一つだけ壊れていないものを見つけ出したのだという。ついでにその納屋にはクーラーなどついていないらしく、この一時の涼を求めるためだけに奴がどれだけの汗を流したかと思うと笑いがこみ上げてくる。
 ともあれ風のおこぼれをあずかりぼうとした頭では耳に聞こえるものも聞こえず、目の焦点もあやふやになり、ただぼんやりと揺れる扇子を見ていた。
さわさわと竹の葉ずれが聞こえてきそうであり、辺りに吹く風と冷たい土、遠い日差しを思い浮かべた。
 池はそこにあり、錦鯉が鮮やかな赤を見せながら泳いでいる。
 ああ、旅行に行きたいなあ、などと思考が変なところに吹っ飛んでいく。

 ら、突然水がぴしゃりとかかった。なんだ、と目を見開いて、よくよく見て「あっ」と声をあげた。
 岩場にいた蛙が池の中を泳いでいた。

 そして、夢ではない証拠に私の額は汗ではない冷たい水で濡れていた。
 屋上に昇るとバーベキューの煙が風に流れて顔に当たった。時刻は七時を過ぎており、呼んだ近所の友人たちは思いおもいの席に座り、或いは立って夕涼みを楽しんでいた。今年は珍しく子供の数が多い。というのも近所に偶然引っ越してきた従妹が子供たちを三人引き連れてきたからだ。
「ビール飲む?」
 私の問いに彼女は首を横に振った。
「車で来てるから」
「え、旦那さんも来てるんでしょ?」
「もうビール飲んでる」
 言いながら彼女は胸元に指を持ってきて30センチほど広げると人差し指と親指をくるりとひっくり返してみせた。
「ええ!?もう?花火前なのにえらいまあ」
「そうなのよ。もうそっちのけ。クーラーの利いた部屋で遊んでいるほうがいいみたい」
 彼女はぐるりと大袈裟に目を回してみせた。
「だったら、河川敷に行ったほうが良かったんじゃない?」
「それが、去年行ったらカップルがべったりしてて目のやり場に困っちゃって、子供もいるし、あんまり見せたくなくて・・・」
 だってキスしながら浴衣の中に手を突っ込んでるんですよ。
「うげ、気持ちわりい。それは嫌だわね」
「それにバーベキューやってるグループもいてなんだか落ち着かなくって」
「それはそうねー」
 私は彼女にビールの代わりに麦茶を渡し、乾杯をしようとしたら、彼女の娘が出し抜けに言った。
「ええとねー、前行ったときはねー、お化け見ちゃったの!!」
他の子達が口々にええ、嘘だあ、などと言っている。私は従妹をじいっと見た。
「だから嫌だったのよ。あなた絶対聞きたがるから」
 当たり前である。怪談といったら夏の風物詩。ビール、バーベキュー、花火、ときたら次は怪談と相場で決まっている。
 明らかに嫌がる彼女に「それじゃあ娘に聞くから良いよお」と言うと、しぶしぶ話しだした。


 私たちが行ったのは、花火大会の会場より少し離れた川原だったの。そこまで行くと人も少なくて良かったんだけど、さっき言ったみたいな人たちもいたりしてちょっとね、て思ってたんだけど。
 昔の花火よりも、今って色がすごく増えてて、消え方とか、見え方も進化してるのね。どーんって音がしてからずっと魅せられっぱなしで、私も、子供みたいにはしゃいじゃって。
 プログラムの仕掛け花火が終わり一段落したところで、ふと自分の横を見ると娘が一人いない。
 慌てたわよ。まさか、いなくなってるなんて思わないから。夫も慌てて立ち上がって、お姉ちゃんは?て妹に聞いたら、えっ、てあの子も驚いちゃって。迷子センターなんて近くにないし、もしも川にって思ったらいてもたってもいられなくなって、大声で探していたら、周りにいた何人かの人も手伝ってくれて。バーベキューに来てた大学生のグループの子達が、カンテラとか懐中電灯を持ってて、携帯で事務所に連絡を取ってもらったり、もう大変だったわ。そしたら、いたのよ。

 私いてもたってもいられなくって、そりゃそうよ。あの子、川に近づいていたんですもの。呼んでも返事をしないし、走って、あの子を捕まえるとつい顔をひっぱたいてたわ。

 その時は気付かなかったんだけど、主人の話だと、捜索を手伝ってくれていた大学生の女の子が、とんでもない金切り声を上げていたんですって。仲間が駆け寄って「どうしたの」て聞いたら、「女の子の傍に変な女の人がいて、その子を川の中に引っ張り込もうとしてる」て、でも、他の人にも、ううん、私にも全然見えなかった。それに、「すごく腕が長くて、身長ぐらいある」て。それが、その子が指差す先を見て、何人かが見えたらしいんだけど、私が娘の顔をひっぱたいたら消えたみたいなのよ。
 後は周りがパニックになっちゃって。今思い返しても、あの時気付かなかったらって思うとぞっとするわ。

 そういえば、確かに花火大会中に集団ヒステリー的なことが起こった、というような話を聞いた。まさかその中心人物が身近にいようとは。私が噂の娘を見ると、彼女はにっこりと笑ってこう言った。
「腕の長いお化けのおばちゃん。まだ来てないね」
(終)
私がそのおかしなものを見たのは、夏休み前の、じめじめとした湿気に覆われた憂鬱な季節のことでした。その頃は、電車で高校に通っていたのですが、都心方面とは逆のところに学校があるため、電車が空いておりよく座って学校まで通っていました。座った途端に睡魔に襲われて、気がつけば目的の駅で乗り過ごしそうになったことも何度かありました。特に、夏休み前はテストが近づいているためということもあり、夜更かしの睡眠を補うように眠っていたと思います。だから、それを見たときは夢か現か、判断がつきませんでした。
 降車駅近くでふっと目が覚めた私は、黒く長い髪、といってもそれはぼさぼさと乱れていましたが、の女の人が7人がけの椅子の中央付近でつり革につかまりぼーっと
立っているのを目にしました。
 その時は対して気にしませんでしたが、電車から降りて頭が冴えてくるに従って、おかしいな、と思いました。
 だって、私の乗っていたその車両は空席がいくつかあり、わざわざ真ん中に立っている必要などなかったのです。でも、もしかしたら連れがいて立っていただけなのかも知れない。私もそこまではっきり見たわけではないので、そうなのだと自分で納得していました。
 そう考えるとばかばかしくて、友人にもそのことを話すことはしませんでした。
 帰りの電車に乗るとき、私は朝のことをふと思い出し、彼女がいるのではないか、と車内を見渡しました。
 いません。
 やっぱり朝のことは気のせいだったのかと思うと、肩の力が抜けて急に眠気が襲ってきてうつらうつらと始めました。
 隣の駅のアナウンスが聞こえたとき、私は目を覚ましました。そして、ぎょっとしました。だって、そこに、隣の列の席にあの女が立っていたのです。
 私は顔を横に向けないようにしながらちらりとその女を見ました。目の前の席には、誰も人がいません。
 私はなんだか怖くなりました。きっと、あれはヤバイ人に違いない。
 時折電車の中で、駅の名前をひたすら言い続けている人や、相手もいないのに誰かに向って同じ事を何度も繰り返している人を見かけるので、咄嗟にそのタイプの人間なんだと思いました。
 私は、寝ようにももうなんだか眠れずに、ひたすらそちらのほうを見ないように、見ないようにしていました。
次の駅の名前が車内アナウンスで流れると、ほっとしました。駅に着くと逃げるようにホームに降りました。そして、気が緩んでしまったのでしょう。
つい、電車の中を見てしまったのです。
 それは、身体を私のほうに向けていました。一瞬ですが、私の目にその姿は焼きついてしまいました。
 真っ黒な服を着て、顔を長いぼさぼさの髪で隠した、いや、身体中が何か青黒い色をしていたのです。
 なにより、その、顔の間から見えた、異様に、異様に大きな目が恐ろしく、
 駅を出て見慣れた往来に出るとほっとしました。
 次の日、私は憂鬱な気分で電車に乗りました。せめて、少しでも混んでる車両に乗ろうと乗る場所を変えました。
 立つほどではなく、けども隣に人がいる席に着くとほっとしました。これであれに会うこともないでしょう。
 ほっとすると、あの睡魔がやってきました。このまま寝るとやばい気がする。でも眠い。気がつくと頭がふらふらとして、目を閉じていました。どれくらい眠ったのか。目を覚まそうと思っては眠り、起きようと思っては眠り。起きたい、けど眠い。遅刻、という文字が頭から離れていく。何もかもがどうでもいい
という中で、ふいに頭を電車の硝子にぶつけ、はっきりと目を覚ましました。そこで、見てしまったのです。
 黒い女?
 違います。私の喉元を鎌のようなものが素通りしていきました。隣に寝ていたらしい男は、首が・・・。

 そこでもう一度頭を硝子にぶつけて、完璧に覚醒しました。
 自分が降りる駅でした。変にリアルな夢だったので、学校に着いてからも気分が悪くなってきました。思い出したくないのに、その男の血に塗れた、切断面が。
 友達が保健室で休んだほうがいいよ、と心配してくれましたが、寝るとまたその夢を見そうなのでやめました。

 それから、その女を電車で見ることはなくなりました。妙にリアルだった男の遺体のことも忘れていきます。そんな事件や事故は新聞で見ても書いてなかったので。その女の人と鎌の夢は繋がっていたのか、それもよく分かりません。
 ただ、電車の中でサラリーマンの人たちが話していたなかに、変に気になるのがありました。その人たちが降りる駅で、具合の悪いお客様が運ばれいていったのですが、
 その人、男の人は、10数分前に死んでいたらしいこと。その男の顔は、ひどく驚いた顔をしていた、ということでした。
(終)
 駅から家までは、緩い勾配の坂道がだらだらと続いている。男が徒歩30分で着く駅までの通勤をバスにしていたのも坂道が起因していたと言ってもいい。
 男がこの土地に家を買ったのは一ヶ月前のことだ。職場との距離や買い物、病院、学校、駐車スペーなどの住環境を考えてもっとも最適な場所を選んだ結果が住宅地の一角にある中古物件であった。その時は駅までの距離もそう気にならなかった。

 日頃の運動不足を解消するにはちょうどいいと思っていたぐらいだった・・・という。
 が、三日目にして既に音をあげた。初夏の陽気は男のシャツに汗染みを作るのには十分であり、その後の満員電車の中での女性陣からのあからさまに冷たい視線にも閉口した。
 妻が駅までの距離に難色を示したのも最もである。いざとなったらバスがあるさ。と言っていた切り札のはずのバスに毎日乗車するはめになった。
 使い始めるとバス停から家までの距離は徒歩3分であるし、通勤時間には5分に一本の割合でひっきりなしにバスがやってくる。
当初心配していたバスの遅延の問題も特にない。帰りはさすがに本数が減り、15分に一本間隔となるため歩いて帰ったほうが早いときもある。が、仕事疲れを言い訳になんだかんだと乗る回数のほうが多い。
 その日は客先からの直帰のため、珍しく夕方に家路につくこととなった。そのまま上司と一杯と言ってもいいところだったが、上司は最近行った人間ドックの結果が宜しくなかったらしく酒を飲むのは商談が成立してからが良い、と言ってとっとと帰ってしまった。
 彼は偶には家飲みもいいかと駅前のスーパーで缶ビールとつまみ、それに妻から頼まれた品を買うといそいそとバスに乗った。
 日が暮れる前に帰る、というのもなんだか愉快な気分だ。バスに乗っている客層も夜とは違う。中学生や高校生、買い物帰りの主婦など普段はお目にかからない人たちが多く乗っている。
 彼は左手の開いている席に座ると窓の外を眺めた。風景も違う。というよりも普段は夜のために特に窓の外に目を向けることもない。
 板塀やレンガ、ブロックなどの壁と壁の間に細い道が続き、その先になんだか昔を思い出させるような駄菓子やが見えたり、偶に見える家の庭に咲き乱れた花が見える。こんな日なら、歩いて帰っても面白かったかも知れない、と思いながらも膨らんだスーパーのビニール袋を見て心の中でいやいや、と否定した。
 あとそんなに掛からずに家に帰りつく。徒歩だったら、下手したら日が暮れてしまってからの帰宅になるかもしれないのだ。バス停もまた一つ通り過ぎた。あと、二つか三つ先だ。
 そこで彼は、おやっと思い後ろを振り返った。先ほど通り過ぎたバス停が坂道の先に消えていく。眩しい夕空に目を細めながらも、何かの違和感が拭えなかった。彼は最寄のバス停に着いてしばらく歩いて、ようやくその違和感に気がついた。
 あんなところに、バス停などあっただろうか。ただ気がつかなかっただけか。そういえば、アナウンスでも「通過します」という一言も無かった。

バス停の名前も言っていなかった、ような気がするからだ。
 まあ、そんなこともあるだろう、と対して気にもせずその日は家に帰った。
 次に違和感を覚えたのは、休日のことだ。
 駅前のスーパーからの帰り道、同じように坂を上っていく。意識をしたつもりはないが、気がつけばバス停の数を数えていた。そして、この間見た辺りのバス停に目をやった。
 白い壁が続き、その後に板塀がある。あの辺りに待合スペースもなく名前だけが書かれたバスストップが見えるはずだ。彼はその名前をどうにか見ようと思っていた。が、彼はその空間に何も見出せなかった。
 見間違いでもしたのかと思ったが、サイドミラー越しに見ても何も見えない。
 ただの壁が連なっているのが見えるだけ。隣に座っていた妻が不思議そうに彼に聞いた。
「いや、それが」
 男は妻にその話をしたら、彼女はそんなはずはない、と一蹴した。
「きっと、誰かの悪戯よ。ふざけてバスストップを立ててみたんですよ」
 迷惑な話ね。
 その顔は嘘をついているような顔ではなかった。彼は「そうだな」と頷いた。
 気になりだすと、どうしても確かめずにはいられなくなる。そうすると、彼にはそのバス停が見えるのだ。
 何故だ。本当に妻が言う悪戯なのだろうか。それならば、バス会社にでも問い合わせか苦情の電話を入れればいい。いや、それよりも、気になっているのは
バスの運転手ですら気にしていないことだ。それならば、それはあまりにもありすぎて気にする対象にすらなっていないということなのか。もしかしたら近所の人たちは誰がその悪戯をしているのか知っていて黙って見過ごしているのだろうか。
 しかし、そうなるとバス会社に苦情を言っても始まらない。
 彼は、確かめたかった。本当にあのバス停が他の人にも見えているのかを。
 その日は、バスに乗る人数がたまたま少なかった。彼は、運転手の後ろの席に陣取った。夜の七時はとっくに過ぎていた。が、バスのライトで先を見通すことは
出来る。一つ、二つ、バス停を通り過ぎていく。彼は、そのバス停が見えてきたところで、運転手の肩を叩いた。
「君、そこのバス停で止めてくれないか」
 肩を掴まれた運転手は初老の男だったが、驚いた顔をしつつも前を向いて首を横に振った。
「何言ってるんですか、お客さん。ここにはそんなものありませんよ。そこで降りたいんなら、タクシーを使ってくださいよ」
「そんなはずはない。そこにあるんだ」
 彼は運転手はミラー越しに男の顔を見た。男は100メートル先の歩道を指差していた。
「止したほうがいいと思いますよ。お客さん」
「止めてくれ!」
 男の声は悲鳴に近いものに変わっていた。確かめなければならない。どうしても確かめなければならない。そうだ、ちゃんとバス停が見えているんだ。車がブレーキを踏んだ。
 数人の乗客は怪訝そうにその様子を見ていたが、普通でない人間に見えたらしい。誰も何も言わなかった。
 男はよろよろと出口のステップを踏んだ。そこに、バスストップの丸い看板があった。
 彼はその看板に書かれた文字をよく見ようとした。
 「丁目」という文字だけはくっきりと見えるが、それ以外は何かぼやけている。彼はよく見ようと看板に手をかけて顔を近づけた。ずるり、と変な感触が手に触れた。
 彼は慌てて手を離し、自分の手を見た。鳥の糞のような、変な粘り気がある。看板についていたのか。
 目を凝らして、そしてそれを見て驚いた。その途端、何かに蹴躓いて派手に後ろに転ぶと、ガードレールを後ろから乗り越えていた。
 彼は、ガードレールの歩道側の闇が、蜃気楼のように揺らめいているのを見た。彼が蹴躓いたのは、その中で、唯一牛乳瓶に活けられ真っ直ぐ地面に立っていた花のようだった。
 そして、彼のほうを向いたバスストップの看板から、人の顔のような黒いシミがこちらを睨んでいた。
 そのまま男は気を失った。
 数日後、頭のこぶがひいてからバスに乗り込むと、前にバスをむりやり止めさせた運転手だった。
 彼は罰の悪い思いで、しかし、謝らなければと運転手に声をかけた。
 すると、運転手がこう言った。
「あ、お客さん。無事だったんですね」
 彼が言うには、数年に一回、そういう気味の悪いことをいう乗客がいるという。
 止めないで無視するときもありますが、ナイフ持って暴れたお客さんなんかもいましてね、我々としては仕方なく降ろすこともあるんですよ。そしたら、翌日からその人たち、行方不明になるんですよ。
 私たちとしましても、何がなんだか分からない始末でして。
 まあ、精神的に病んでいたのかもしれませんが、みんなが同じ症状なのかと思うと、なんだか気味が悪くてねえ。


 男は、その日以降そのバス停を見ることは無くなった、という。
 だが、居心地が悪いので早々に引っ越すことに決めたのだと言った。
(終)
タイトルにあるとおり、百物語始めます。
といっても、八月に入ってから一ヶ月で終われるかは不明です。その場合は来年に持ち越しかもしれません。
ただし、いわゆる実話系ではありません。創作系です。なので読んだから呪われるとか祟られるとかいうのはないと思います。



と、思ったはものの、それだけではパンチが足りません。
よって、私、そして名前も言えるほどごく親しい知人、友人が経験した怪談話を紛れ込ませることにいたします。どれが創作でどれが実話か、考えながら読むのも一恐かなと。

 それでは、始まり始まり。
 ネクタイを首に巻きつけた会長が白目を向き、息絶えていた。
 それは普通の自殺した躯として処理された、と捜査一課から報告があがった。倉田、という名前に覚えがあった。
 捜一には常にこちらの事案でありそうなものについては予め手を回して報告をさせていた。それも東京都内だけではない、全国から情報を収集し必要案件を全て網羅している。それをパソコンのソフトで自動識別している、らしい。
 この自殺はあまり不審な点は無い。
 ここの管轄で不審な点のある事件は、たとえば、自宅で突然行方不明になった男だ。成人男性の失踪などざらなことだと思える、が、経過が異常なのだ。
 男が自宅に帰るところは玄関先の防犯カメラに映っている。しかし、その後彼が表に出た形跡は無い。また、家の鍵、窓は全て閉まっていた。鍵は彼の部屋の中の鞄に入っていた。挙句の果てにいなくなる直前まで彼は電話で恋人と話しをしていた。もともとその恋人が電話で異変に気づいて慌てて彼の家に一時間後に行ったことから事件が発覚したのだ。短時間の間なら近くのコンビニにでも買出しに行ったのかもしれない、と一瞬彼女も思った。が、洗面所に行って彼女は悲鳴をあげた。
 排水溝にぴっしりと長い髪が撒きついていたのだ。
 といった案件が捜査対象になる。
 ともあれ、これは以前の池袋事件の関係者の一人と関わりがあるようだ。
 浅木は自分のパソコンを開いた。唸りを上げて起動をするまでにえらく時間が掛かった気がする。
 倉田、そう、高校生の学級委員長だ。父親の勤めていた会社のお偉いさん、か。それじゃあ平社員であった彼とは何の縁もなさそうだ。ただ、あるとすれば父親が自殺したこと。今回の遺体と同じく縊頸だったことぐらいだ。その前日にも元社員の男が同じ方法で自殺している。
 ただの偶然だろうか、いや、因果関係も調査をすればありうる。組織対策課が動いてるという噂もある。闇金絡みか。情報が漏れそうになって関係者二名が自殺。社長、副社長に軋轢があれば内部抗争の結果と言えるかもしれない。
 浅木は軽く息をついて伸びをした。机の端にある携帯が着信を知らせて発光している。
『クッキー焼きました 届けてもいいですか』
 ハートマーク入りのメールに彼の口元が緩んだ。
「おう、ついに目覚めたかロリコンの道に」
 扉を勢いよくあけてご機嫌な声を上げる上司に緩めた口元を引き締めた。
「そんなんじゃないですよ。妹みたいなもんですよ。あれだけ年が離れてると」
「ふーーん、まあいいけど。油断してるとやられるかもね」
 彼は聞いてるような聞いてないような返事をして返信した。



 水沢蓮華は居間のテーブルに肘をついて背もたれに体を預けて足をぶらぶらとさせながら返事を待っていた。
 メールが着いたという表示に恐る恐る手に取り、しばし携帯を握り締める。顔を俯かせる。薄目を開けて携帯を覗き込み、ボタンを押す。
 顔が華やいだ。
 彼女の母親は娘の仕草に苦笑を浮かべていたが、皿を拭いていた手が止まった。
 昨夜夫婦そろって義父に呼び出された。この敷地に、家を建てるという話をして以来改まった話をすることはなかった。
 母親の顔に不安が過ぎる。
 義父は、遠い親戚が電話をよこしてきたこと。蓮華を、養女として迎えたいと言っていること、をあげた。
 両親がいるのに縁組など馬鹿げてると思ったが、そうでもないという。
 この家に嫁いでから二十年経つ。普通の家庭だと思っていた。が、娘が生まれてから何かが変わり始めた。
 義父と夫は何かを知っており隠している。
 不安が見えない霧のように周りを覆う。
「出かけてくる!」
 娘の言葉に我に代えった。束の間霧が消えた。


 犬養は萎れかけた供花と御影石と苔の混ざった陰湿なにおいに顔をしかめた。
 小高い人口の丘の上に墓が並ぶ。少し行けば雑木林の先に街が見下ろせる。線香の煙が立っているのは二箇所だけ。寺があるわけではないので墓を毎日見回りに来るのはせいぜいが広い駐車場で欠伸をしている管理人ぐらいだろう。
―笹川昭雄を少し延命させたのは、彼の追憶に気になるところがあったからです
 鎮目宮子がこのあと発した言葉に、会議室にいた全員が息を呑むのが分かった。
「彼を見ました」
 その一言に、それが誰であるか問う者はなかった。言霊、ただ喉を震わせて発する音からさえも、それが意味をもって囁かれたら力を有する。思い出すことはおろか想起させることども全てを視界から消したくなる。
 彼は恐怖そのものだった。
―墓石の前で、笹川に話しかけているのを観ました。そうです。笹川が殺した生徒の墓の前です。話しているだけでした。いいえ、それ以上の干渉は危険かと。気づかれる恐れがありました。ただ、笹川の今度の行動を助長する何かがあったのは確かでしょう。
 彼が死んだとされてから十五年以上経とうとしている。その記憶はちょうどその、境だ。
 羽状清音は驚いた様子ではあったが、あいつが彼の生存を知っているような節も見受けられる。正直、付き合いは長いが何を考えているか分からない。彼と裏でつながっているのではないかと噂もあったが、まさか、それだけはすまい。
 そう信じたいが、時折見せるあの目が。上層部の人間とトラブルを起こすときに垣間見えるあいつの姿が不安にさせる。
「眉間にしわ寄せてるとジジイ度が上がるぞ」
 肩に手の感触がある。振り向くと、そいつは肩に足を点いて墓石の上に器用に着地した。白いワンピースがふわりとあがる。癖のあるウエーブのかかった茶色い髪が顔を一瞬覆った。その間から光を反射させて瞳孔が縦長に変化する。
「新菜、お前はまた急に現れたな。どうした」
「好奇心だよ。勘太郎たちの様子もなんだか変だし。ねえ、どっち側につくつもり?」
 彼は深いため息をついて少女を見た。
「どちら側も何も無い。意見の差異はあろうが我々は同じ方向を見ているはずだろう」
 彼女はにやりと笑った。
「いい答え。そう、だけど本当に?」


 女の長い髪が彼の鼻腔をくすぐった。その髪の持ち主は朝早い太陽の光に素肌を晒していた。白く輝く腕が暗闇に浮かぶ。彼はその光に手を伸ばして、途中で止めた。
「それで?あなたはどう動くつもり?」
 寒太郎は女の一言にぎろりと目を向けた。深い漆黒を湛える目は希望も絶望も飲み込む深さがある。
「俺の意志とあいつらの意志はいつも同じじゃない。最近分からなくなってきた。まあ、ただ、黒い空が広がっていくのを見たいねえ」
「焦がすような炎があればもっといいわ」
 女が潤んだ瞳で男を見つめた。男は頬を寄せる女に唇を近づけて、ふと停まった。お互いの息遣いが感じられるところで、女に問うた。
「お前は?」
「どっちだと思う?」
 金野綾美は男の答えを待たずに唇に噛み付いた。

 笹川昭雄は、幾つも並ぶ同じような形をした墓石の群れの間を歩いていた。深閑とした空気でありながら厭わしささえ感じさせる場所。
 彼は手桶も線香も花も携えずただ墓と卒塔婆の殺風景な景色の中を、たった一つの名前を探して歩いていた。
 積乱雲を孕んだ重たい空の下を一つの名前だけを探して目玉をぎょろつかせる。
 それは彼の中では苦い思い出と僅かに残る良心が糾弾する悔恨を煮詰めた名前だった。
 ああ、なぜ私はあの時、いや、そうせざるを得なかった。何のために。怒りのためか、裏切りか。
 違う。
 では何故墓を探している。謝罪をするのか。死人に向って。それとも、しおらしく彼女の墓の前で自殺をするのか。殺人の罰として。
 いや、いや、いや、
 それとも、浅ましくも許しを請いに?
 違う。
 彼の長くもない捜索は唐突に終止符を打った。長方形の御影石に掘り込まれた名前。その後ろに立つ卒塔婆も、他の墓と大差は無い。
 なんだ。
 彼は冷淡にもそう思った。ここで、何がしかの決着がつくと思っていたが、そうではなかった。ただ、彼女が死んだ、という事実を確かめているだけだ。味気ない。こんな墓の下に既に白骨化して埋まっている。それは、もう人ではなくただの物質だ。
 ただのリン酸カルシウムの集合体だ。
「探しものは見つかったかい?」
 不意に男の声がした。振り返ると、背後に男が佇んでいた。物憂げな、少年とも青年ともつかぬ顔をしたその人は彼をただ面白そうに眺めやっていた。お前は誰だ、だとか、ぶしつけにもほどがある、と振り切っても良かったのだが、彼はなぜかそれができなかった。
「何も、初めから何もなかったかのようだ」
「君自身を否定するのは良くないことだ。彼女への罪科は君自身にある。何も無いということは君自身が何もない人間だという証だよ。だが、君は君だからそれをやった。否定するかい?自分を、それとも肯定するかい?どちらにしろ結果はさして変わらないよ」
 じゃあ、私は私のままで行こう。この少女というとらえどころの無い何かを只管求め続けよう。
 雲間から差し込む光が彼の頭上を照らし出した。彼の悩みは消えていた。そして男も、いつのまにか消えていた。
「それでは、失礼いたします」
 羽状清音は粘りつく視線を笑みと、両開きの扉を音を立てて閉めることで遮断した。赤じゅうたんが敷き詰められた広い廊下を大股で移動する。その先の通路で黒い羽が一つふわふわと落ちていった。
 羽状は視線をちらりと羽に向けると、掴むでもなく廊下に落ちるに任せていた。羽は床に落ちる直前に霧散した。
「羽状様の想定どおりです」
 突き当りを抜けた先にいた男が帽子を外し後ろから話しかけた。
「分かってたけどね。どうしたものか」
 会議では当然のごとく事件に対する被害者の数と収束に掛かった時間が議題に上がった。口にこそ出さなかったが、警視庁から一人、組織とはなんの関係も無い人間を引っ張ってきたことも納得がいってはいない様子だった。
 組織と警察との橋渡しとなる存在、というには彼の地位が低すぎることは確かである。それに水沢蓮華の存在も知られているだろう。だからこそ彼らは口に出さなかったのだ。水面下で誰かが何かを仕掛けるのは目に見えている。
 そして、さらに大きな問題が、寒太郎の答えから導き出された。笹川昭雄の件も絡めて問いたださねばなるまい。鎮目宮子と、憑神に。

 布張りの椅子に腰をかけた姿勢で、鎮目宮子はぼんやりと宙を見つめていた。
「まだ思い悩んでいるのか?」
 唐突にその唇から男の声が漏れる。
「何を?」
 彼女自身の声が同じ唇から出る。唇以外に表情の変化はない。薄暗い室内には、昼を過ぎた光が眩しく入り込んでいたが、それを受けて伸びる影が、彼女の投影にしては長い。
「人としてあるべきか、神としてあるべきか」
「神、大それたものになった覚えはないです。人間か化け物か、それだけでしょう?」
「かつて人間だったものだ、と言うのが正しいだろうよ」
 彼女は笑っていないのに、声だけは笑う。
「神罰がなんで気まぐれか分かるだろ?」
 それは小雨が霧のように降りかかる日におきた。
 ビルの最上階、眺めのいい一室。そこに座る男は湯気のたつコーヒーを飲みながら新聞を開いていた。小さな三面記事に老眼の目をこらしつつ、ようやくピントを合わせた。
 そこには彼の知っている男の名前が出ていた。
 いや、忘れていたが最近思い出されることがおきた、というべきか。
 実にどうでもいいことだった。かつて、その男は会社の汚れ仕事を肩代わりする代わりに自らの私腹をこやすのを黙認させていた。必要経費だと割り切っていたが、それが一行員に露見した。金で肩がつくような男ではなかったために、最終的な手段に出ざるをえなかった、と言っていた。
 その後精神的に不安定になったからと会社を休みがちになりながら、自宅静養でほとんど会社に出社することはなかった。所詮肝の小さい男だったのだ。
 誰かに見られている、襲われそうな気がした。とさいさん苦情を言ったが、引き際は正確に把握していた。こちらが少々痛い支出を退職金として受け取って職を辞した。
 その男から久し振りに連絡が来たのだ。
「あいつが来た」
 そう言っていた。そして男が始末した奴の名前を口走った。どうせ金の無心のためだろうと奴の墓参りだの謝罪だの罪の告白だのお払いだのと言った馬鹿げた世迷いごとを聞き流した。
 本当にノイローゼになっていたのだろうか。どうでもいいことだ。勝手に縊死してくれたのだから。
 ドアを叩く音がした。
 彼は首を傾げた。早朝で来客の予定は無い。急な用件でも秘書を通して内線が飛ぶはずだ。秘書も用事がなければこの部屋に入ってはこない。
 つまり、ノックもしない。
 気のせいか。
 彼は視線を再び新聞にやり、
 二回、ノックの音がした。控えめな、拳の先を軽くぶつけたぐらいの。
 聞き間違いではない。
「誰だね」
 しかし、返事は無い。
 彼は眉をしかめた。いたずらか?会長の部屋と分かってそんなことをする輩がいるのか。それも腑に落ちないが。
 会長室は小部屋一つを挟んで秘書室に繋がっている。秘書室と言っても一人しかいないが、この時間帯は出勤しているはずである。彼女がこんなくだらない悪戯をするとも思えないが。
 彼は内線をしようと受話器を手に取りボタンを回そうとして、停まった。何か聞こえるような。機械音だろうか。耳をすました。
 受話器からくぐもった唸り声がした。
 手から受話器がすべり降りた。がちゃん、という音に我に帰ると、椅子から立ち上がり電話機から離れた。
 ドアを叩く音がにわかに大きくなった。その叩く音はどんどんと強くなり、ドアががたがたと弾んだ。
 一体何がいるんだ。まるで、何か得体のしれない大きな化け物がドアを打ち壊そうとしているようだ。
 恐ろしく巨大な手。毛むくじゃらの、まるで巨大な猿のような。
 そんなことがあるはずがない。それは自分の妄想だ。
 ええい、なんなんだこの音は。考えが、まとまらん。
 耳を塞ごうにも机の下に潜り込もうにも消えることはない。目を瞑ればより音は大きく感じられるし、かといって開いていても何が分かるわけも無い。
 このままこの音を聞き続ければ気がおかしくなりそうだ。
「煩い!」
 音を掻き消すように大声をあげた。
 彼は、目を開けた。
 目に飛んだのは濃茶の机だ。額と手にじわりと汗をかいている。
 夢、なのだろうか。新聞を読んでいたところだったと思ったが。
 新聞は左がわに折りたたまれていた。
 なんだってあんな夢を。
「会長?どうなさいましたか」
 秘書が控えめにドアを叩く。あの音を聞きながらおかしな夢を見た、とでもいうのだろうか。まあ、そんなものだろう。
「いや、なんでも・・・」
 先ほどの夢のことがちらついた。
「そうだ。コーヒーを片付けてくれないか。新聞もだ」
「入っても宜しいですか」
「あぁ、入りたまえ」
 彼は、言葉を口に出し終わってから違和感に気づいた。秘書はいつもはそんなことは聞かない。
『失礼いたします』
と言って入ってくるのではなかったか?
 ドアの隙間から、白い手が伸びる。ゆっくりとドアが開いていく。
「「よ・・・ようやく、わたわた・・・わたしの・・・は・・・話を、聞いて、て、て、て、くれ、くれ、ます、す、す、ね」」
 それはひどく聞き取りづらい、苦しいうめき声を上げなから言葉を発した。
 その、首に縄をかけて外そうと縄に手をかけているそれは。
それが入ってきた途端、天井に黒いシミが現れ広がっていく。その黒いシミから幾つもの輪を描いた荒縄が落下していく。
息を吸おうとするかのように上に顔をそらし、涎をたらしながらもがくそれが、天井を水平に渡ってくる。そして、もがいていた足と縄に掛かっていた手ががくりと垂れた。男の首が不自然に伸びる。
 彼はそれを見上げていた。あいつが殺したと言った男じゃないか。
「く・・・苦し・・・い、な、是、な、、なぜ、わ、わたし、を」
 空気が漏れる音が響く。
 白目を向いていためが、ぐるりと動いて彼を捉えた。
 彼は目を見開いたまま微動だにできずにいたが、不意に首に違和感を覚えた。体が宙に浮く。
「ひっ」
 もれた声はしかし、首に巻きついた縄でふさがれた。黒い天井に体がどんどん吸い寄せられていく。足は地面ではなく空中を蹴っていた。そして、彼の視界いっぱいに黒い天井が近づいた。
 が、その時には既に彼は最期の息を吐ききっていた。

 秘書はガタン、という不自然な音に気づいた。呼び出し音がならなければ行く必要は無いだろうが、何せ彼は年である。心臓発作でも起こして倒れたのかもしれない。
 秘書はノックをした。だが、返事は無い。
 もう一度ノックをして、ドアを開けようとした。重い。何かがひっかかったのだろうか。しかし、物が落ちるにしてもドアを塞ぐほどのものは置いてないはずだが。
 力をこめて引っ張ると、開いた。が、それが目に飛び込んできて秘書はしりもちをついた。
 ネクタイを首に巻きつけた会長が白目を向き、息絶えていた。