父がつむいだ人生の記録

父がつむいだ人生の記録

父が遺した手記と写真

父が亡くなる15年前、2010年に書かれた手記。
第6話は「学び続けた晩年と趣味の世界」です。

競輪のお話は
努力と”かしこい立ち回り”
運も味方にして優勝を勝ちとった話です。
読みながらニヤリとしてしまいますウインク

当時の父の写真も添えてお届けします。
若いころのお父さん
結構カッコイイんだよね~ラブ

 

 

 第6話
学び続けた晩年と趣味の世界

定年後の叙勲、地域での学び直し、写真・釣りの趣味、生涯を彩った豊かな時間

 

 

定年後の学び直し

 

平成13年4月
明石市立「あかねが丘」
高齢者3年制大学に入学
平成16年3月 卒業

 

平成18年4月

県立「いなみ野学園」高齢者4年制大学に入学

平成22年3月 卒業

 

卒業後は
いなみ野学園の写真部に所属し
現在に至るまで活動。
趣味:写真・海釣り

 

 

昭和30年10月16日
兵庫県知事賞 受賞

第2回アマチュア自転車競技大会での挑戦(明石競輪場)


参加者 足自慢約250名

当日は時候も天気も快晴、絶好の競技日和
明石郵便局からも8名参加しました。
自分は年長で、ノーマークでした。
 

郵便局の若い後輩たちと練習に励みましたが
若者には勝てませんでした。
競輪場で何度も練習させて頂きました。
 

練習では5、6人でグループを組み
競輪場を周回する練習で
競輪場一周600Mを先頭で一周して
最後尾に回る。
このしんどさをいやというほど体験しました。

その体験が、後のレ-スに生きてきました。
 

 

予選(12名・2周)

予選は12名で競輪場2周です。
2着までに入らないと、
次の準決勝に出場出来ません。

なんとしても2着に入らないと!

 

後一周の鐘が鳴り
4コーナからの直線で進路妨害され
コースから外れ内側に転倒しそうなり
体勢を立て直し前方を見ると
2人走っていた。

3着では次に出られない
なんとしても一人追い抜かないと!


頑張り、最後の直線で
進路妨害した選手を追い抜き
2着に入る事ができ準決勝に出場を決める。

 

 

準決勝(2周)
 

後一周の鐘が鳴ると、飛び出した若者がいた。
競輪場一周のしんどさを体験しているので
その若者の真後ろにピッタリつける。

競輪場一周を全力で走れる筈が無い
直線で追い抜いてやろう
と。

 

3コ-ナーに差しかかると、
先頭を走っていた若者のスピードが落ちてきた。
そこに後ろの集団が追い越しを掛けて来た。


それに気付いた先頭の若者が
集団を阻止すべく進路妨害に出た。

後の集団は避け切れず
ガチャガチャ衝突音が聞こえ
自分の前には誰も居ない。


コースを楽々ゴール、決勝戦出場を決める。

準決勝一着の賞品に頂いた
高圧の車の空気入れ、今も使用しています。

 

 

決勝戦(20周・12,000m)
 

郵便局からは
岡野君と自分の2人だけ出場出来ました。

自分より若く強い後輩もいましたが
予選でマークされ妨害されて
残念ですが予選落ち。

優勝戦は競輪場20周、12,000m
出場選手は勝ち残った10名。


決勝では、
先頭責任を2か所で取る義務
選手に課せられていました。
 

友人の競輪選手からは
「無理して先頭責任を取らんように。
皆が取ってから取るように。充分数はある」

とアドバイス受けていました。

皆が必死で先頭責任を取り合っている間
集団の後ろに付け
皆が取り終えたと感じたところで一気に先頭へ。

競輪場半周強を先頭で走り
先頭責任を取り、集団の最後尾へ。

 

 

最後の一周の鐘
 

全員がむしゃらに走り出した。


競輪場の一周の怖さを
練習で体験済みでしたので
最後の3コーナーでも最後尾でした。

応援してくれていた誰もが
「川﨑は圏外に落ちた」と見ていたらしい。

まだあまり疲れは感じていなかった。
「このままでは、いかん」

3コーナーから4コーナーへ
バンク中段まで駆け上がり
一気に坂落としを掛け
最後の直線勝負へ出た。

いつも自分より元気な
岡野君のスピードが無く、追い抜き
前には鐘が鳴ってから全力疾走した2人が
フラフラしながら走っていた。
 

2人の間が少しあったので
真ん中をすり抜けようと間合いを詰めると
後ろから追い込んで来た自分に気づき
先頭の2人進路を防ごうとした。
その瞬間2台が接触し左右に飛んだ。
 

前には誰もいなくなり
ゴールのテープ切り
優勝する事が出来ました。

 

後輩の岡野君が2位に入りました。

 


2着の岡野君と自分



岡野君に
「今日は元気無かった、なぜ?」と聞くと
先頭責任を取るのに無理したと言っていた。

 

 

受賞
 

兵庫県知事(坂本勝)より表彰状
優勝旗
優勝賞品に自転車1台戴きました。

 

練習で体得した諸々の事柄。
競輪選手のアドバイスのお陰で
優勝する事が出来ました。
 

頑張れば結果は後から必ず付いて来る
55年前の青春の出来事です。


昭和30年10月16日明石競輪場
優勝旗を持って、応援に来て下さった方々と
F8 1/25秒 ネオパンSS

父が亡くなる15年前、2010年に書かれた手記。
第5話は「写真との出会いと運命の出逢い」です。
 

写真の現像の話は、よく聞かせてもらいました。
義父は郵便局の仕事を終えたあと、
夕食を済ませてから寝る間を惜しんで
現像していたそうです。


焼き上がった写真は
義母と私の夫(三男)も一緒に仕分け。
とても大変だったと思いますが、
家族で力を合わせて仕事をしていた様子が
心に残ります。


“運命の出逢い”のエピソードは、
亡くなる少し前に書かれた手記にも
詳しく綴られていました飛び出すハート
またそちらでもご紹介したいと思います。

 

 

 第5話
写真との出会いと運命の出逢い

 

カメラを手にしたことから広がる世界、暗室作業の習得、結婚までの道のり。

 

 

 📷写真との出会い

 

昭和29年秋、写真との出会い。
給料2ヶ月分を使い「14.500円」で
オリンパスカメラを買う。


写真の焼付けがしたくて
現像、蜜着、初歩の初歩の本を買い求め
一から勉強しました。

 

写真材料を小川DPE店で買っているうちに
「うちの店の写真、手伝ってくれませんか」
と声がかかり、

結婚前から繁忙期に応援していました。
 

それを聞いた谷上写真店の主人から
「休みの日に暗室作業を
  手伝いに来てくれませんか」

と声がかかり、谷上さんの自宅作業場へ
3日程手伝いに行きました。

大量のDPEのノウハウをしっかり見聞し
自分の暗室にも取り入れて
能率よく動けるように改善していました。
 

何日後か、今度は
「写真焼いてくれませんか」
谷上カメラ店から声がかかり
驚くほど大量のフイルムその他が
届けられました。

――それから約20年
   写真の仕事を頑張りました。


写真をしていたおかげで
次の運命的な出会いへと発展していきます。

 

 

 💌出会いから結婚まで

(一冊の本になりそうですので今回は簡単に)
 

昭和32年、年末年始の繁忙期も無事終わり
恒例の一泊旅行(山陰・玉造温泉)で
知り合い遠距離恋愛でした。

 

 
若かったあの頃、何も怖くなかった。
この度の出会いは、出雲大社にお参りして
「賢いお嫁さんに出会えますように」と
お願いしてのこと

出雲の神様が、お引き逢わせ下さった――
この出会いを大切にしなければ
一生悔いが残る。

そんな想いで頑張りました。

 

大阪22時発、出雲大社行夜行列車に
何度か世話に成りました、

SLの汽笛、排気音
レールから車輪に伝わる力強い振動
何もかも、今想い出しても血が騒ぎます。



昭和34年2月、林神社で結婚式を挙げました。
 

昭和35年2月 長男誕生
昭和37年2月 次男誕生
昭和40年10月 三男誕生

 

昭和52年5月、西明石北町に一戸建を新築・転居。現在に至る。

 

 

  📮郵便局での足跡

 

昭和22年12月17日 明石郵便局 郵便課に入局。

昭和53年4月20日 逓信記念日 郵政大臣表彰
昭和55年4月20日 明石局長表彰
昭和56年2月20日 郵政大臣表彰
昭和59年4月20日 逓信記念日 近畿郵政局長表彰
昭和62年4月20日 郵政大臣表彰

 

帝国ホテルでの式典では
全国から表彰された2千数百人の代表として
郵政大臣を前に堂々と答辞を読み上げました。

 

ポストマンの頂点に立つことができ、
人生で最良の日になりました。

 

 

 🌸家族への想い

 

昭和天皇がお亡くなりになる10日程前に
苦労して4人の子供を育ててくれた母は
亡くなりました。 

 

平成2年3月31日 定年退職。

 

 

 

 💮 春の叙勲 ― 勲六等瑞宝章を授与される

 

平成10年4月29日 
春の叙勲で「勲六等瑞寶章」授与される

「内閣総理大臣 橋本竜太郎」

皇居で陛下からお言葉をいただきました。

 

 

第6話は「学び続けた晩年と趣味の世界」です。
どうぞお楽しみに。

 

 

若かりし頃の父と母(皇居にて)

 

父が亡くなる15年前の
2010年に書かれた手記。
第4話は「戦後の暮らしと働きはじめ」です。


イカナゴの運び屋の話は
取締官から間一髪で逃げた顛末を
ドキドキしながら聞いたことがあります。
詳しいお話は亡くなる前の手記で綴ります。


今日の手記は終戦の日の記憶から始まります。
戦後の厳しい時代のお話です。

 

 

第4話
戦後の暮らしと働きはじめ

敗戦後の混乱、日本工具製作所での就職、闇市での経験、郵便局勤務へ

 

 

終戦の日

 

昭和20年8月15日。
朝から快晴で、かんかん照り。

その日は
川崎航空機工場防衛用の高射砲陣地に
各町青年団の持ち場が割り当てられており
私は友達の西海君と午前中
汗を流して蛸壷壕を掘っていました。


 昼食に帰る途中、ラジオのある家の前で
「正午に天皇陛下の放送がある」
と聞きました。

 

昼食を済まして、その家の前を通ると
「日本、戦争に負けた」
と言って、皆泣いていました。

敗戦の日の、あの暑い一日の出来事が
走馬灯のように次から次へと想い出されます。


 

蛸壷壕を掘っていた現場に戻ると
兵隊さんが来て
「日本、負けたから帰って下さい」
と言われました。


「日本は神の国だ」と教えられてきた私には
その言葉が俄かに信じられませんでした。

 

 

(注)蛸壺豪(たこつぼごう)とは
一人だけ入れる大きさの塹壕の事で
タコを捕まえるときに使う蛸壺に由来するそうです。

出典:Wikipedia

 

 

 

焼け跡の暮らし

 

家は丸焼け。敗戦後、住むところもなく
専修寺に半月程世お世話になりました。
 

その後

八黒町の橋本さん方にしばらく身を寄せ
母が寮母していた中谷山の社宅へ
姉と二人炎天下をトボトボと歩いて向かいました。
 

焼け跡では、大田叔父さん一家と一緒に
バラックで暮らしました。
 

ほどなく兄が元気に復員して来ましたので、
我が家は戦争で一人の犠牲も出さずにすみ
安心しました。
 

 

はじめての就職

 

昭和21年1月。
筒井叔父さんのお世話で
近くの日本工具製作所に就職。
昭和22年3月に退職しました。


その後、浜でイカナゴを買って釜揚げにし
西明石駅から大阪・梅田まで運ぶ
“運び屋”を経験しました。
これが結構な金になりました。


しかし、闇経済の取り締まりが厳しくなり、
イカナゴのシ-ズンも終わったので
昭和22初夏から秋までは

平野町で百姓の手伝いをしました。


「他人の飯には骨が有る」――
二度とできない
貴重な経験をすることが出来ました。
 

 

 

郵便局勤務へ

 

昭和22年12月17日。
長谷川叔父さんの世話で
明石郵便局・郵便課に就職。

 

郵便の配達は、人から人へ“心”を届ける仕事。
また“財産”を届ける仕事でもあります。

「人に親切にすれば
 必ずその親切は自分に帰って報われる」

――その思いを胸に、勤めを続けました。

昭和29年4月、軽自動車の運転免許を取得。

 

第5話は
「写真との出会いと運命の出逢い」です。

お楽しみに。

 


メジロ(父撮影)
 

父が亡くなる15年前の
2010年に書かれた手記。
第3話は「学徒動員と空襲の記憶」です。


空襲の話は、何度か父から
直接聞いたことがあります。

恐ろしい空襲を、「きれいだ」と
眺めていた話はとても印象的で
リアリティをもって迫ってきます。
 

第3話 
学徒動員と空襲の記憶

 

川崎航空機製作所での勤労奉仕、明石空襲・焼夷弾攻撃、敗戦の日。

 

 

勤労奉仕と、味噌汁の味

 

昭和18年3月に、林小学校を率業。
同年4月1日に林高等小学校に入学。
 

この頃から勤労奉仕があり
その合間に勉強するという
学校生活が続きました。

ある時は、学校給食用の薪を運ぶため
「枦谷町寺谷」「平野町西戸田」へ行き
荷車を連ねて隊列を組み
薪を満載して校庭まで運びました。

 

「お疲れさま」と
全員に1杯ずつ味噌汁が配られ
その時の白菜入りの味噌汁の味が
今も舌の奥に残っています。


疲れ切ってクタクタになり
家路に着く頃には、秋の太陽が西に傾き
長い1日が終わる――
耐乏生活の淋しい秋の夕暮れでした。

 

 

 

学徒動員と兄の出征

 

昭和18年も後半になると
誇大な大本営発表の嘘も見抜けず
学徒動員令により
軍需工場に狩り出されました。
 

 
今こそペンを投げうって
国の大事に準ずるは
我ら学徒の面目ぞ♪♪
ああ紅の血は映える

――よく歌いました。

 

昭和19年秋
6歳上の兄に召集令状が届き
大阪駅まで母と見送りに行きました。

 

 

どんな歌かな?と検索してみました。
実際に聴くと【時代】をヒシヒシと感じます。

 

 

 

川崎航空機製作所での日々

 

戦局は急を告げ、勉強は中断。
 

自分たちは、航空機の生産のため
川崎航空機製作所の中の訓練所に入所。
少しの訓練ののち
5人一組の班単位で現場に配属されました。


自分達、学友5人は
第13工場・胴体結構に配属。

戦闘機の胴体の骨組みに
毎日ドリルで沢山の穴を開け
鋲打ち組み立ての連続でした。

 

 

少年航空兵への志願と検査

 

19年の秋

先生が一括して海軍少年航空兵に
志願願書を出していたらしく
今も現存する中崎公会堂まで
検査に行きました。

自分は体重が軽く
今思えば「幸運にも不合格」
クラスで3人が合格しました。

 

3人は採用通知が来て
四国の連隊へ入隊しました。



年が明けた昭和20年1月初め
今度は陸軍少年航空兵への願書が出され
神戸の楠小学校で検査がありました。

 

一人を除いて全員合格。
「採用通知が来たら行かなければ……」
---帰り道では皆 言葉が少なく成りました。

 

 

明石大空襲の日
(昭和20年1月19日)

 

午後、警戒警報が出て学徒に退避命令。

 

集合場所に集まり、正門前から南門へ
駆け足で場外退避する頃には赤旗が立ち
空襲警報に変わっていました。

 

いつもは長々と話をする先生が
解散場所(林神社横)に着くなり
何も言わずに解散。
 

家に帰って暫くすると
今まで聞いた事のない高射砲の発射音。
爆弾の落ちる不気味な音が続き
三波に分かれて川崎航空機工場に
爆弾を落としていきました。


北の方角には物凄い黒煙が立ち上がり
敵機が去って警報が解除。
工場に戻ると、美しかった工場も跡形も無く
一面瓦礫の山々。

 

 

焼け落ちる校舎と「卒業式」

 

昭和20年3月。
記憶に残らん様な戦時下の簡単な卒業式が
林小学校講堂で行われました。
校舎が焼夷弾攻撃で灰になる
わずか3か月前の事です。
 

 

昭和20年3月31日付けで学徒の身分から
翌4月1日付けで
川崎航空機会社の社員になりましたが
勤務場所は同じでした。

新入り社員を対象に青年訓練が2か月間あり
玉津町吉田の川崎航空機の寮に入所。
軍人勅諭や戦闘訓練などを教えられました。
(現・国立視力障害センタ-の場所)

6月に青年訓練を晴れて卒業はしたものの
職場に戻ると職場は山科へ疎開するとかで
てんやわんやの状態でした。
 

 

 

明石焼夷弾攻撃
(昭和20年7月7日)

 

夜半、空襲警報が鳴り響き
浜の防空壕に退避。
自分はラジオの情報の連絡係をしていました。

ラジオでは
「本日の敵の攻撃目標は和歌山と徳島方面」
と流れ、ひと安心していたところ――


「淡路の南部を北進する敵機あり」
とラジオの声

 

すぐ豪内に伝え
外に出ると爆音が聞こえ
一番機が明石川尻に焼夷騨を投下。


青白い光の玉が
ゆっくり無数に落下する光景を見て
思はず「きれい」と声をあげていました。
後の焼け野原など、想像出来ず眺めていました。

二番機は松江方面に焼夷弾を落し
明石の空が真っ赤になっていました。
 

北風の強い夜で、姉と二人
近所の漁船に便乗して、沖合いに避難しました。
命だけは助かりました。しかし何もかも灰塵。

 

 

第4話は「戦後の暮らしと働きはじめ」です。

お楽しみにクローバー

 

早春の海峡(父撮影)

 

父が亡くなる15年前の
2010年に書かれた手記の

第2話をお届けします。

大きな時代のうねりの中にいた
小さな子どもの父を思うと
タイムスリップしたような
不思議な気持ちになります。

 

第2話
 踏切事故と戦争のはじまり

 

林神社前の踏切での出来事、太平洋戦争開戦、小学生としての戦時生活。

 

間一髪

昭和15年3月 3年生の春休み。

近所の友達と連れ立って

どんぐりの「こま」を作るために

林神社へ「どんぐり」を拾いに行った帰り道。

林神社前の山陽電鉄の踏み切りでの出来事です。

 

たくさんどんぐりを拾い

わいわい がやがや 踏み切りまで来ると

東から下りの電車が見えました。

 

その下りの電車には

沢山の人が乗っていました。

---通り過ぎるのを待って----

 

上りの線路に足を踏み出した瞬間

急行電車の警笛が間近に聞こえ

右を見ると接近して来る電車の

運転手の顔が大きく見えました。

 

自分はとっさに下りの電車の線路へ飛び

危うく難を逃れました。

 

 

1人目、2人目(自分)は前に飛び

4番目からは後ろに退避。

しかし、3番目に渡っていた小学1年生の子は

前にも後ろにも下がれず、亡くなりました。

 

林神社前踏み切りを通るたびに

70年前の痛ましい出来事が

今でも脳裏によみがえってきます。

 

 

 

 

太平洋戦争のはじまり

 

昭和16年12月8日 小学5年生。

登校すると全員校庭に集合させられ

校長先生から
「堪忍袋の尾が切れ、米英相手に戦争が始まった」
との訓示があり、天皇陛下万歳をしました。

それから学校のスピ-カ-からは終日

「大本営発表」が流れました。

 
本日未明、西太平洋に於いて
米英と戦闘状態に入れり

そして「軍艦マ-チ」が繰り返し放送されていました。

 

 


三男の嫁コメント:
歌詞を聴いて改めてビックリしました。
大君のために命を捧げるという歌詞。

これが当たり前に歌われた時代なのですね。

 

 

戦時生活

 

「欲しがりません勝つまでは」

「鬼畜米英撃ちてしやまむ」

「ぜいたくは敵だ」

「銃後の守りは鉄壁だ」

 

戦時標語が、街中にあふれ

習字の時間によく書きました。

 

母は呉服店の店員、準看護婦免許を取得し
病院勤務と頑張っていました。

 

小学6年の姉が家事・家計全般を
母代わり本当によく頑張ってくれました。

いつの間にか、自分はメモを片手に
夕飯の惣菜を近くの八百屋に買いに行くのが
日課になっていました。

 

生活物資は配給になり、耐乏生活が始まりました。

 

第3話は 「学徒動員と空襲の記憶」です。

お楽しみにクローバー

 

魚とったぞ(父撮影)