その訃報を聞いたのは葬儀が行われる前日でした。自殺との事でした。



いずれは歳月の波によって風化し色褪せていく感情を、取り留めのない文章として書き残せるうちに、少し吐き出させて下さい。





高校生の時、軽音部に所属しました。

私にとって、その人は一つ上の先輩という立場でそこに居ました。



俺さ〜27歳になったら死ぬねん、が口癖の人でした。

大抵は聴き流していたので詳細は覚えていませんが、やれ27クラブがどうやら、ジミヘンやカートコバーンがなんやら、そんな話をいつもしていたのを覚えています。


楽器のパート練習中、どうやったら同パートの女子のスカートを覗けるか、くだらない試みばかりしていました。

バンドを一緒に組んだ事もありました。

ストロベリーバギナズ( 生理のアレ )というバンド名にしました。

すぐに先生に怒られて、バギナズを消されました。ストロベリーズになりました。

ガールズバンドちゃうねん。


高校、専門学校と同じ道を進みました。とはいえ、少しずつ交友は無くなっていき、徐々に疎遠になっていきました。


最後に会ったのも、ラブホで鍵を無くしてフロントに行ったら、受付として働いていたのを見かけたぐらいです。最悪の再会やな、おい。


そんなこんなあって、唐突な連絡に面くらいはすれど、正直に申し上げると深い悲しみやら激しい動揺、みたいなものはなかった気がします。

もっと本心を言うと、そういや喪服持ってたっけなぁ、香典ってなんぼ包めば良いんやっけ…?ぐらいの、社会通念のなさ故、若干の気怠さまで感じていたのを覚えています。

その日までは。


当日、一緒に葬儀に向かおうと親しい友達と連絡を取り合っていたのですが、その中で、彼が生前ラジオ配信をしていた事が分かりました。

そして、亡くなった後、一つのアーカイブが公開された話を。


全くの、全くの興味本位で、URLを教えて貰い、葬儀場までの電車の中聴いてみる事にしました。



「このラジオを皆さんが聴いている頃には、私はもうこの世には居ないと思います。」


「破滅的思想を持つ偉人や著者への憧れがどうにも捨てきれず、行動に移す事にしました」


「これは決して、生きるのが苦になった訳でも、衝動的な感情に駆られて行った訳でもありません。ただ、自分がそう決めてそうしたいと思ったから行うだけです。なので、最後まで勝手ばかりですが皆さんも悲観的になるのではなく、あくまでポジティブな最期を遂げることが出来たと思ってください」


15分程の配信でしたが、こんな具合の内容だったと思います。


どうしようもない感情に襲われたのを覚えています。

悲しみ?余りの身勝手さに対する怒り?少し違うような、強いて言うなら、悔しかったような。



倫理や思考や行動に対する正誤は置いておくとして、こうすると決めた考えを、死すらも厭わず選択できる確固たる意思に、憧れを、いや、憧れではなかった、なんだかやはり悔しかった。

そしてやっぱり少し寂しような、そんな感情でした。

悔しかったのは、自分自身への感情だったのかも知れません。

私はこのラジオを聴いて、納得をしてしまったような気がしました。

俺は、あるいは今生きている全ての人間は、なぜ生きているのか、と問われたらどう答えるでしょう。

勿論、年齢を重ねる毎に答えは変わってくるでしょうし、人生命題、みたいな指標を持ち続けている人の方が稀でしょうが。

ただ、どんな答えにも必ず「死にたくないから」が前提条件として付くと思います。

じゃあ、もし、その前提条件がない人間、今回のような完全に死を目的とした動きをしようとしている人間がいたとしたら、俺は止める言葉を持ち得ていない事に気付きました。

どれだけ親しい人でも、俺は死んでほしくない、と要望は出来ても、死んではいけない!と否定をする事が出来ないと思いました。それが何より悔しかった。

俺は、俺の信条に基づいて死にたがりを見殺しにする事しかできない事が、恐ろしくなりました。


どれだけ理解出来なくとも、死んでほしくないと願っても、人の生死の選択に口を挟んではいけない。いや、大切な事だからこそ、その人が懸命に選んだ選択肢を、間違っていると否定してはいけない。そう思いました。


葬儀場に着きました。

棺桶の中眠っている彼は、お世辞にも安らかな寝顔とはいえず、青白い肌で目を閉じていて、もしかしたら起き上がってくるかもなんて冗談すら言う気にもなれないような、そんな表情でした。

お会いした事が無かったのですが、彼の父に会いました。


よく来てくれたなぁ、こんな急な葬儀に沢山の人が集まってくれて、めちゃくちゃ愛されてるなぁ。普通こんなに集まるもんなんかな?ほんま友達多いなぁ。嬉しい事やなぁ。


私の目をまっすぐ見て笑いながら話してくれました。


その時に、本当に、本当に心の底から、自死は間違っていると思いました。


涙は出ませんでした。

それは、昔どれだけ親しい関係であったとしても、きっと疎遠になって日が経っているからだと思います。

悲しみはありますが、死に対する悲しみではなく、もう2度と会えない喪失感の痛みの方だと思いました。みんなそうか。


そんで、マジで誰にも死んでほしくないなぁ〜と初めて思いました。

おれ、もしかしたら受け入れられないかも知れない。

なぁ、俺に出来る事は何も無いし、きっとお前から死にたいって言われても相変わらず止める事は出来んよ。

やから、死んでほしく無いときは死んでほしく無いわぁ、って言うからさぁ、ちょっとはこっちの意図も汲んでくれても良いんじゃない?

死生観の物差しは人それぞれ違うし、正直俺も誰にも言ってないけど27で死んでも良いなぁ〜って薄ら思ってたよ。確固たる意思は無くとも、刹那的な生活の喜怒哀楽の豊かさに、生きる辛さが追い越した日が来たら、まあ、もうええか〜って思ってたけどさぁ。やっぱりこれは違うわ。

これはやっぱりなんか違う気するわ。

やから頼むわ、面と向かって言える勇気は無いかもやけど、遠くからただ祈るだけかも知れんけど、無責任かも知れんけど、馬鹿みたいやけど、死なんといて欲しいなぁって思いました。

以上です。
















追加


故人を偲ぶ、という行為がずっとずっと嫌いで、だって当の本人が死んじまった中で遺された奴らが勝手に騒いでるだけやん!!

それをまるで死んだ貴方の為ですよ、と言わんばかりに泣いて、アイツはさぁ〜みたいなんがマジで、マジで嫌いなんですよ。



なんだか、酷く独善的で利己的で、死者をヒロイズムに浸る為の餌にしているというか、「もう2度と会えない誰かへの想い」の対極に感じてしまって、本当に気持ち悪いと思っていました。(例えば3/11だけまるで思い出したかのように、Twitterで明服を祈る馬鹿とか。)が、少しだけ考え方が変わったかも知れませぬ。


なので、知り合い及び気の置ける友人の前では一歳そのような事はしないようにしましょう、と心がけていたのですが、このブログを見ている人に気の置ける人間はきっと居ないので、心置きなく死者を利用してヒロイズムに酔わせて頂きます。

あざます!!先輩!


話が逸れ過ぎましたが。



お前ら、マジで頼むで。なぁ。