※江戸城※ | オレサマのブログ
<1606年築>



別名 千代田城
城郭構造 輪郭式平城または平山城
天守構造 連立式層塔型5重5階地下1階[1](1606年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(1621年再)
独立式層塔型5重5階地下1階(1635年再)
(いずれも非現存)
築城主 太田道灌
築城年 1457年(長禄元年)
主な改修者 徳川家康、秀忠、家光(江戸期)
宮内省・宮内庁(明治以降)
主な城主 太田氏、扇谷上杉氏、後北条氏(戦国期)
徳川将軍家(江戸期)
(以下、皇居としての所有者)
皇室(大日本帝国憲法下)
国(日本国憲法下)
廃城年 使用中
遺構 現存櫓・門、石垣・土塁・堀
指定文化財 国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)
特別史跡
再建造物 富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓
桜田巽櫓、大手門
位置 北緯35度41分17.97秒
東経139度45分15.72秒
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。
江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里[2]と、日本最大の面積の城郭になった[3]。
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
国の特別史跡に指定されている。
歴史・沿革 編集 築城まで 編集 江戸(東京)の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる[注 1]。
築城 編集 15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城した。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている[注 2]。
太田道灌時代の面影を残すとされる下道灌濠
天皇陛下傘寿御記念で一般に公開された皇居乾通り道灌濠と桜
道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(静岡)から転居し江戸に入った[注 3]。一般に言われる話では、そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていたという[注 4]。
江戸時代 編集 天下普請前
家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長期天下普請
慶長8年(1603年) 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行っている。
慶長11年(1606年)、また諸大名から石材を運送させ、増築した。その工事分担は、
外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明
天守台の築造:黒田長政
石垣普請:山内一豊、藤堂高虎、木下延俊
本丸の普請:吉川広正、毛利秀就、
城廻の普請:遠藤慶隆
などであった。
翌慶長12年(1607年)には関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、このときは高虎はまた設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。
慶長16年(1611年)、西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視した。
慶長19年(1614年)、石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。10月2日(11月3日)には、家康は大坂の陣の陣触れを出し江戸留守居役を除く諸大名は、この地からの参加を余儀なくされ諸大名は著しく疲弊した。
元和期天下普請
元和4年(1618年)に紅葉山東照宮を造営し、また神田川の開削を行う。
元和6年(1620年)、東国大名に内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築を行わせる。
元和8年(1622年)には本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成する。また寛永元年(1624年)、隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。
寛永期天下普請
寛永5年(1628年)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われる。
寛永12年(1635年)、二ノ丸拡張工事が行なわれた。
寛永13年(1636年)には石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。寛永14年(1637年)には天守台・御殿を修築し、翌年には寛永度天守が完成する。
最後に万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請は終了する。
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。
以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。
明暦3年(1657年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった。
近現代 編集 明治元年(1868年)4月4日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。(江戸開城)
明治2年(1869年) 東京奠都。皇城と称される。
明治6年(1873年