*バングラデシュ* | オレサマのブログ






バングラデシュ
バングラデシュ人民共和国
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(国旗) (国章)
国の標語:・・・
国歌:我が黄金のベンガルよ
公用語 ベンガル語
首都 ダッカ
最大の都市 ダッカ
政府
大統領 アブドゥル・ハーミド
首相(英語版) シェイク・ハシナ
面積
総計 14万4000km2(91位)
水面積率 7.0%
人口
総計(2013年) 152,500,000人(7位)
人口密度 1173人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年) 11兆1,390億[1]タカ
GDP (MER)
合計(2013年) 1,413億[1]ドル(59位)
GDP (PPP)
合計(2013年) 3,251億[1]ドル(43位)
1人あたり 2,080[1]ドル

独立
・- 宣言
・- 承認 パキスタンより
1971年3月26日
1971年12月16日
通貨 タカ (BDT)
時間帯 UTC (+6)(DST:不明)
ISO 3166-1 BD / BGD
ccTLD .bd
国際電話番号 880
バングラデシュ人民共和国(バングラデシュじんみんきょうわこく、ベンガル語: ・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・)、通称バングラデシュは、南アジアにあるイスラム教徒主体の国。イギリス連邦加盟国、通貨はタカ、人口1億5,250万人、首都はダッカ。
北と東西の三方はインド、南東部はミャンマーと国境を接する。南はインド洋に面する。西側で隣接するインド西ベンガル州とともにベンガル語圏に属す。
1971年にパキスタンから独立。バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。都市国家を除くと世界で最も人口密度が高い国で、人口数は世界第7位。
ベンガル湾に注ぐ大河ガンジス川を有する。豊富な水資源から米やジュートの生産に適し、かつて「黄金のベンガル」と称された豊かな地域であったが[2]、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する[3]。近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。
国名 編集 正式名称は、・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・(ベンガル語: ラテン文字転写は、G・noprojatontri Bangladesh)。通称、・・・・・・・・ 発音・[・ba・lad・e・]・( 聞く)
英語の公式表記は、People's Republic of Bangladesh(ピープルズ・リパブリック・オブ・バングラデシュ)。通称、Bangladesh [・b・・・l・・d・・]・( 聞く)。
日本語の表記は、バングラデシュ人民共和国。通称、バングラデシュ。ベンガル語で、バングラが「ベンガル(人)」を、デシュが「国」を意味し、あわせて「ベンガル人の国」となる。バングラデッシュ、バングラディシュ、バングラディッシュと記述されることもある(ただし、少なくとも後二者はベンガル語の発音に対して不自然な表記である)。日本での漢字表記は中国の表記をそのまま用いた孟加拉、1文字では孟と略されるが、ほぼ使用されることはない。日本では文字数を節約する必要のある新聞の見出しなどにおいて、バングラと略されることがある[4][5][6]。
バングラデシュの国旗は赤が昇る太陽、緑が豊かな大地を表す。豊かな自然を表す緑の地に独立のために流した血を示す赤い丸、という説もある。赤丸は真ん中から旗竿寄りにしてある。 初代バングラデシュ大統領ムジブル・ラフマンの娘のシェイク・ハシナ首相は、「父は日本の日の丸を参考にした。」と証言している[7]。
歴史 編集 詳細は「バングラデシュの歴史」を参照
近代まで 編集 ダッカ市内のラルバグ城(17世紀)
現在バングラデシュと呼ばれる地域には、古くから文明が発達した。現在のバングラデシュはベンガル地方の東側にあたる。紀元前4世紀のマウリヤ朝から6世紀のグプタ朝まで数々の王朝の属領であった。仏教寺院からは紀元前7世紀には文明が存在したことが証明され、この社会構造は紀元前11世紀にまで遡ると考えられるがこれには確実な証拠はない。初期の文明は仏教および(あるいはまたは)ヒンドゥー教の影響を受けていた。北部バングラデシュに残る遺構からこうした影響を推測することができる。
8世紀の中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。12世紀にヒンドゥー教のセーナ朝にとってかわられた。13世紀にイスラム教化が始まった[8]。16世紀にはムガル帝国の元で、商工業の中心地へと発展した。11世紀(セーナ朝の時代)から16世紀(ムガル帝国に編入されたのは1574年)の間はベンガル語が発達した。この頃に、ベンガル経済の成長に伴って密林の多かった東ベンガルに開発の手が入り、イスラム教徒を中心に開発が進められていった。16世紀後半になって東ベンガルではイスラム教徒が多数派となっていった。また、17世紀半ばにはムスリムの農民集団が目につくようになっている[9]。
イギリス領時代 編集 1907年当時の東ベンガル
15世紀末にはヨーロッパの貿易商人が訪れるようになり、18世紀末にイギリスの東インド会社により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド全域に拡大した。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な飢饉に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物やコメの輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された[10]。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。
やがてインドの他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を意図し、1905年にベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割した。1906年ダカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会でベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万~300万人の死者を出した[11]。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。
インド領東ベンガル 編集 ダッカ市内のベンガル語運動(英語版)(1952年)
そんな中で英領インドは1947年に独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域はインドを挟んで東西に分かれたパキスタンとして分離独立することになり、東ベンガル(英語版)(1947年 - 1955年)はパキスタンへの参加を決めた。
パキスタン領東パキスタン 編集 詳細は「東パキスタン(英語版)」を参照
両パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化の面では違いが大きく、さらに国土はインドによって1000km以上も隔てられていた。このような違いはあちこちで摩擦を起こした。まず最初に問題が起きたのは言語の違いだった。ベンガル語でほぼ統一された東に対し、西がウルドゥー語を公用語にしたため対立が起きた。この問題はベンガル語とウルドゥー語の両方を公用語にすることで決着がついたものの、政治の中心になっていた西側に偏った政策が実施され、1970年11月のボーラ・サイクロンの被害で政府に対する不満がさらに高まった。1970年12月の選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、1971年3月には軍が軍事介入を行って東パキスタン首脳部を拘束した。これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタン(現パキスタン)と内乱になった。バングラデシュ独立戦争である。西側パキスタンと対立していたインドが東側パキスタンの