事態は名古屋に留まらない。今年にはいり、関西の国際放送も、FM801参加で、別の文化のラジオ局として再スタートした。これまでも、コミュニティFMでは会社の解散が結構ある。名古屋市内のコミュニティFMである、FMだんぼ、シャナナFMもいまはない。シャナナの流れを組むコミュニティFMが一局残るだけである。だが、県域放送が停波するのは日本初。そもそも新聞で報道されて「停波」という言葉をあるのを初めて知った。
Radio-iの倒産は、何を意味しているのだろうか?
・ラジオその自体が聴かれなくなってきたこと(若い世代は聴かない)
・音楽文化の消費自体が、若者世代の減少に伴い産業的には縮小している。
・音楽は、レコード・CDを所有するものではなく、参照しダウンロードするものになった。
・Radio-i が得意としていたジャズは、今日でも日本ではマイナーな高級文化で有り続ける。学生コンボの部活やサークルは、軽音楽・ロックなどに比べればあるかに少ない。
・ラジオは、音楽のためのメディアではなく、パーソナリティの語り、つまり人の声を聴くメディアになってきた。
・2004年ショックは、ラジオの広告費がインターネットに凌駕された年である。その後、2007年、出版がインターネットに凌駕された。いまや、テレビもその独善的地位を失いつつある。
・ラジオのパーソナリティに癒されなくても、インターネットのコミュニケーションのなかで、われわれはいくらでも癒やしコメントや、ケアしてくれるコメントを調達できる。
・ラジオという公的空間のもつステイタスが低下している。「ラジオらか流れる」ということの特段の意味づけが低下し、自分の文字・声・画像・動画を簡単に、パブリックな空間に呈示できるようになってしまった。
・ラジオは聴くメディアから、語るメディアとなった。コミュニティFMでは、素人出身のパーソナリティがあふれている。インターネット・ラジオにもなおさらである。
・有給で業界を渡り歩くプロのパーソナリティの活躍の場は限られている。
その意味では、Radio-iは、大人のラジオ、高級感のあるハイソラジオ、ジャズラジオなど、文化的なステータスや局のカラーにこだわりすぎたのかもしれない。経営さえ考える必要がなければ、ラジオは楽しいメディアである。
メディアは、収益に見合ったコンテンツしかつくれない。経営的には10年間一度も黒字になることのなかったラジオが、存続しつづられるわけはない。いや、年間一億の経費を、社会貢献として負担する企業・学校・機関があれば可能である。半額でよいのかもしれない。
親会社依存の経営の甘さ。
既存のラジオ的フレームから脱却できない番組の作り方とコストのかけ方
これは、名古屋のコミュニティFMもいっしょだった。
郊外部のコミュニティFMは健闘している。親会社もあるが、それなりに「必死に」と言ってもいいのかもしれない。また、ロケーションもあるのかもしれない。コミュニティFMは、「総合編成の地域密着」が特性のラジオ局である。名古屋の県域FMをひとつの大きなコミュニティFMと考えると、名古屋的なエリアから直接離れた町では、その町のコミュニティ放送はなりたつ。
Radio-iは、(特定の)音楽文化にこだわったラジオ局、音楽環境提供型のラジオ局である。つまり、ローカリティを薄めた、番組セグメント重視の局の敗北であった。セグメント化すればするほど、番組は1部のリスナーを喜ばせるが、スポンサーは付きにくい。
ZIP-FMは対象年齢が14歳から36歳という。しかし、実際には、もっと幅広い層が聴いても、そこそこ聴ける。ナビゲーターはだいたい30代。かつては20代だった。
これに対して、コミュニティFMでは、もっと上の40代~50代のパーソナリティが活躍する。
Radio-iは、ナビゲーターに関しては明確なセグメントは出来ていたのだろうか。ZIP-FMをお払い箱になったナビゲータをつかっていたことも多い。それ自体、放送文化的には敗北ではなかったのか。親会社から派遣された社員。赤字でも、会社が消えると思わないスタッフたち。減らない給与。
つぶれる組織・会社・大学というのは、沈没するまで手を打てない。気がつかない。いや気付いていても動かない。
Radio-i 自体の責任なのか
それても、社会情勢なのか
おそらくその両方のような気がする。
もっと別な戦略が可能だつたような気がする。
そして、社会貢献のためのラジオ局をつくることも可能だったようにも思う。
それには、あまりにも特定の企業の特定のオーナーの趣味の領域・流儀を抜けなかったのかもしれない。一番の責任者、総合プロデューサーがいるとすれば、その総括の言葉を聞いてみたい。
広島のある倒産したコミュニティFMを引き継いだ会社は、以前のスタッフを全部つかわないで、まったく新しい手法で、新しい文化のラジオ局をたちあげて、大成功している。
Radio-iにそんな、メディア職人がいなかった、そう思いたい。
ラジオには、まだまだ抵抗できる可能性があるはずだ、そう思いたい。













