現代ボランティア論
現代ボランティアのあり方
一般的にボランティアとは、ボランティアが被ボランティアに対して一方的かつ非営利で何かサーヴィスを提供することである。しかし、ボランティアは被ボランティアとの双方向性が必要で、その行為の内容が重視されるべきであると思う。現在のボランティアは、これらを無視した、自己満足的ボランティアが多すぎるのではないだろうか。
まず第一に、双方向性ということについて、ポストモダニズム以降の世界の社会構造が、近代主義のうちり、とりわけキャピタリズムを採用してることに注目したい。これは、資本家が労働者を雇い、労働者が労働して、商品を生産し、利潤を得ることにある。しかし現在ボランティアが採用する方式は、それに相反する構造になっている。
例えば、ゴミ拾いというボランティアがあったとすると、社会構造に適合する形式で行うのならば、清掃員が雇われてゴミを拾うという作業をなした対価を金銭という形で支払われるのだが、ボランティアがそれを行えば、ゴミ拾いという同様の作業であっても、無償であるから、賃金は発生しないことになる。
業としてごみ拾いをすれば、行為に対し賃金という形でインタラクティブが完成してる。だが、ボランティアの場合、行為を提供するだけで、対価を得ることはないから、インタラクティブ性は完成していない。
一方的であることの内在的危険は、その行為が行き過ぎてしまった場合にある。
業としていた場合、その行為は不要になったときは、賃金対価を受けるという関係が継続しえなくなるが、双方向性のないボランティアは、それをわからないまま継続していくこととなり、ありがた迷惑が生じかねない。
また、継続という問題では、賃金対価を受ける場合、一定期間、その行為をするという契約による影響が大きく、継続することが出来るのだが、ボランティアの場合、それが継続して欲しい行為であっても、ボランティアの都合による部分が大きく、中途半端に終了してしまうことも考えられる。
第二に、ボランティアはその内容の実効性と発展性を検討すべきである。
各々の行為には、目的や目標があるべきであり、その内容には、実効性と発展性を勘案すべきである。
まず、実効性ということについて、例えば、川をきれいにしようという目的があったとしよう。それに対して、川を綺麗にする歌を歌うのと実際に川に入ってドブさらいする。それならば、後者のほうがよっぽ
ど有効であることは言うまでもない。より効果的な内容を選ぶべきである。
確かに、自分の出来る範囲のことをしようという心がけはいいのだが、それが本来の目的により近づくことをすべきでなないだろうか?
以前、私は、ボランティアを推進する委員をしているかつての友人から連絡をもらって話を聞いたとき、彼はこんなことをいってきた。「FREE HUGS」というボランティアを知っていますか?と。これは、駅前など人通りの多い場所で「フリーハグ」と書かれた看板を掲げて立っている。それに寄ってきた通行人と数秒間抱擁をして幸せを広げようという運動なのだが、果たしてこれはボランティアになるのだろうか?
やはり、ボランティアをするときには、その効果を検討することが重要である。
フリーハグの原点は、抱擁することで幸せを広めようとしているのだが、これで果たしてどの程度の効果が期待できるであろうか?
この結果として、一時的な解決になるかもしれないが、相手の抱える問題の根本的解決にならない。それなら話を聞いてあげるほうよっぽど効果的で、いい。確かに抱擁だけのほうが簡単で誰でも出来るのだが、これでは効果は薄い。単にボランティア気分を味わっているとしか思えないのだ。
ボランティアという労働は、自分の時間や労働力の切り売りであるから、それをなす側にとってもより実効性があるべきででなければ、労働力の無駄使いになっているだけではないだろうか。
ここで一旦、親切とボランティアの区別はどうなっているのかということについて述べたいと思う。一般的には、親切とボランティアは同一であると考えられがちだが、ここには明確な線引きがしてあると思う。
形式的な違いとして、相手の特定と範囲があげられる。親切心は相手が特定されていて、極めて限定的であるということである。一方、ボランティアは相手を選ばない、開放的な行為であることに違いがあると思う。例えば、電車で背中の曲がったお年寄りがやってきて席を譲る行為は、相手を目の前のお年寄りと特定していることから、それはボランティアではなく親切である。一方、ゴミ拾いや発展途上国の井戸掘りは、相手を明確に指定しておらず、開放的であるからボランティアであるとすることができる。
次に発展性ということであるが、現代の社会病理を如実にあらわしていると言えよう。
よく言われる話だが、「飲み水を与えるより、井戸の掘り方を教えろ」ということである。
なるほど、実に的を得た言葉であると思う。
現代は、本質を追求しなくなってきている。その方が、魅力的でおいしいからだ。
例えば、ダイエット食品である。ダイエットの真骨頂は、肥満の原因を追究して、解決することにあるのだが、ダイエット食品は、それを食べることでやせようとするのだ。確かに、減量という目的は一緒だが、なぜ太ったのかその本質を追求しなければまた同じ事で、肥満してしまう。
また、蚊がでたら、その一匹を殺虫剤でやっつけたところで、その発生原因を根絶やしにしなければまた沸いてくる。
現代はこれらを好む傾向にあるようだ。なぜなら上澄み液のほうがおしいからだ。その根本に目を向けようとしない現代の社会あり方が大きく影響していると思う。
ボランティアにそこまで要求することはそこまで多くないにせよ、ゴミを拾うばっかりではなく、なぜゴミが捨てられるのか?新しくゴミを捨てられないためにはどうしたらようのか?これらを考え実行すべきであると思う。
私は、決してボランティアを全部否定してるのではない。
自分の主義、主張やすべき目的を達成するために様々な活動をすることは、必要であると思う。
しかし、その結果や成果を無視して、その行為をすることで自己を満足させるだけの、現代"えせ"ボランティアに対しては少々冷静な価値観を抱いているのだ。
ボランティアは常にその相手の存在を認め、より効果的かつ発展性のあることをしていくべきであると思う。
卒論の合間に気分転換で書いてみました。
僕はこう考えます。みなさんは?
一般的にボランティアとは、ボランティアが被ボランティアに対して一方的かつ非営利で何かサーヴィスを提供することである。しかし、ボランティアは被ボランティアとの双方向性が必要で、その行為の内容が重視されるべきであると思う。現在のボランティアは、これらを無視した、自己満足的ボランティアが多すぎるのではないだろうか。
まず第一に、双方向性ということについて、ポストモダニズム以降の世界の社会構造が、近代主義のうちり、とりわけキャピタリズムを採用してることに注目したい。これは、資本家が労働者を雇い、労働者が労働して、商品を生産し、利潤を得ることにある。しかし現在ボランティアが採用する方式は、それに相反する構造になっている。
例えば、ゴミ拾いというボランティアがあったとすると、社会構造に適合する形式で行うのならば、清掃員が雇われてゴミを拾うという作業をなした対価を金銭という形で支払われるのだが、ボランティアがそれを行えば、ゴミ拾いという同様の作業であっても、無償であるから、賃金は発生しないことになる。
業としてごみ拾いをすれば、行為に対し賃金という形でインタラクティブが完成してる。だが、ボランティアの場合、行為を提供するだけで、対価を得ることはないから、インタラクティブ性は完成していない。
一方的であることの内在的危険は、その行為が行き過ぎてしまった場合にある。
業としていた場合、その行為は不要になったときは、賃金対価を受けるという関係が継続しえなくなるが、双方向性のないボランティアは、それをわからないまま継続していくこととなり、ありがた迷惑が生じかねない。
また、継続という問題では、賃金対価を受ける場合、一定期間、その行為をするという契約による影響が大きく、継続することが出来るのだが、ボランティアの場合、それが継続して欲しい行為であっても、ボランティアの都合による部分が大きく、中途半端に終了してしまうことも考えられる。
第二に、ボランティアはその内容の実効性と発展性を検討すべきである。
各々の行為には、目的や目標があるべきであり、その内容には、実効性と発展性を勘案すべきである。
まず、実効性ということについて、例えば、川をきれいにしようという目的があったとしよう。それに対して、川を綺麗にする歌を歌うのと実際に川に入ってドブさらいする。それならば、後者のほうがよっぽ
ど有効であることは言うまでもない。より効果的な内容を選ぶべきである。
確かに、自分の出来る範囲のことをしようという心がけはいいのだが、それが本来の目的により近づくことをすべきでなないだろうか?
以前、私は、ボランティアを推進する委員をしているかつての友人から連絡をもらって話を聞いたとき、彼はこんなことをいってきた。「FREE HUGS」というボランティアを知っていますか?と。これは、駅前など人通りの多い場所で「フリーハグ」と書かれた看板を掲げて立っている。それに寄ってきた通行人と数秒間抱擁をして幸せを広げようという運動なのだが、果たしてこれはボランティアになるのだろうか?
やはり、ボランティアをするときには、その効果を検討することが重要である。
フリーハグの原点は、抱擁することで幸せを広めようとしているのだが、これで果たしてどの程度の効果が期待できるであろうか?
この結果として、一時的な解決になるかもしれないが、相手の抱える問題の根本的解決にならない。それなら話を聞いてあげるほうよっぽど効果的で、いい。確かに抱擁だけのほうが簡単で誰でも出来るのだが、これでは効果は薄い。単にボランティア気分を味わっているとしか思えないのだ。
ボランティアという労働は、自分の時間や労働力の切り売りであるから、それをなす側にとってもより実効性があるべきででなければ、労働力の無駄使いになっているだけではないだろうか。
ここで一旦、親切とボランティアの区別はどうなっているのかということについて述べたいと思う。一般的には、親切とボランティアは同一であると考えられがちだが、ここには明確な線引きがしてあると思う。
形式的な違いとして、相手の特定と範囲があげられる。親切心は相手が特定されていて、極めて限定的であるということである。一方、ボランティアは相手を選ばない、開放的な行為であることに違いがあると思う。例えば、電車で背中の曲がったお年寄りがやってきて席を譲る行為は、相手を目の前のお年寄りと特定していることから、それはボランティアではなく親切である。一方、ゴミ拾いや発展途上国の井戸掘りは、相手を明確に指定しておらず、開放的であるからボランティアであるとすることができる。
次に発展性ということであるが、現代の社会病理を如実にあらわしていると言えよう。
よく言われる話だが、「飲み水を与えるより、井戸の掘り方を教えろ」ということである。
なるほど、実に的を得た言葉であると思う。
現代は、本質を追求しなくなってきている。その方が、魅力的でおいしいからだ。
例えば、ダイエット食品である。ダイエットの真骨頂は、肥満の原因を追究して、解決することにあるのだが、ダイエット食品は、それを食べることでやせようとするのだ。確かに、減量という目的は一緒だが、なぜ太ったのかその本質を追求しなければまた同じ事で、肥満してしまう。
また、蚊がでたら、その一匹を殺虫剤でやっつけたところで、その発生原因を根絶やしにしなければまた沸いてくる。
現代はこれらを好む傾向にあるようだ。なぜなら上澄み液のほうがおしいからだ。その根本に目を向けようとしない現代の社会あり方が大きく影響していると思う。
ボランティアにそこまで要求することはそこまで多くないにせよ、ゴミを拾うばっかりではなく、なぜゴミが捨てられるのか?新しくゴミを捨てられないためにはどうしたらようのか?これらを考え実行すべきであると思う。
私は、決してボランティアを全部否定してるのではない。
自分の主義、主張やすべき目的を達成するために様々な活動をすることは、必要であると思う。
しかし、その結果や成果を無視して、その行為をすることで自己を満足させるだけの、現代"えせ"ボランティアに対しては少々冷静な価値観を抱いているのだ。
ボランティアは常にその相手の存在を認め、より効果的かつ発展性のあることをしていくべきであると思う。
卒論の合間に気分転換で書いてみました。
僕はこう考えます。みなさんは?