「お昼、保健室から出た後に何かあったんでしょ?」
礼央が保健室から出ていってから数秒。私が体を起こしたわけでも目を開けたわけでもないのに、佐和ちゃんはそう言った。
「よく分かりましたね、タヌキ寝入りだって」
「そりゃ、途中から呼吸が規則正しくなくなっていたもの」
先生の席から私のベッドまでは五メートル程もあるのに、私の呼吸が聞こえたと……?
私の鼻息が荒いのか先生の耳が良いのか……勝手に後者にしておこう。
先生はクスリと笑って足を組みながら、私に言う。
「城東が運んでくれたのよ?」
思わず眉間にシワを寄せる。そのせいで、一瞬先生を睨(にら)んでしまった。
「分かってます。体が思い通りにはいかなくても、意識が無かったわけではないので」
先生は無言のままニヤニヤを続けている。
「何ですか?」
「いや、お姫様だっこされた気分はどうかな~と思って」
「何でそんな事まで知ってるんですか……」
礼央が私をここへ運んできた時には佐和ちゃんはいなかったはず。
「私が知らない事なんて少ないのよ?」
……なるほど、説得力のある言葉だ。
「じゃあ、何で私が倒れる程悩んでいたのかも分かってるんでしょ?」
「同級生の噂話聞いたんでしょ?」
「……本当に何者ですか、先生」
先生の言う通りだった。昼食を終え教室に戻る時にすれ違った同級生。
“二組の礼央くん、今週から学校来てるらしいよ!”
“礼央って、あの城東礼央?”
“そうそう! 中学校の時、女を落として回ってた!”
“落とした女は抱いてポイするっていう、あの?”
“そうそう! 入院も、女の逆恨みで大怪我したって噂だよ!”
聞こうと思って聞いたわけではなかった。でも自(おの)ずと耳に入ってきた。
「もっとも、先生はこの噂を既に知っていたようですけど?」
自虐的に私は笑う。
「私が好きになったら、礼央は私から離れていっちゃうんです。だから、私は礼央を好きになったらダメなんです」
「……もうその言葉が“彼の事好き”って言ってるようなものよ?」
先生が軽くはにかみながらそう言う。
「他の誰にバレようが、礼央にさえバレなきゃ良いんです……」
「でもそれ、私に言っちゃっても良いの?」
「だって、“自分で考える事に意味がある”んでしょ?」
佐和ちゃんはフッと笑った。
「そうね」
彼の事を好きになってはいけない。そんな事出来るはずがないのに、私はそんな無謀な事を本気でやろうと思っていた。
だから、彼から離れようとすればするほど、それに比例するように保健室で寝込む時間が増えていったんだ……
菜々が教室で倒れて以来、彼女は俺をあからさまに避けるようになっていた。話しかけても無視が続き、目も合わせてくれなくなった。
折角(せっかく)人の隣にいる喜びを知ったのに、彼女は俺の元から去っていった。
そのために開(あ)いた穴を埋めるように、俺は中学の時のように女遊びを始めるようになっていた。
毎晩違う女を抱く。うちの高校の生徒だけでなく、年上や人妻にも手を出した。
そして時々その女の彼氏とやらがやって来て、“制裁”とか言って俺を殴っては満足したように帰っていく。
中学の時はそれで俺の存在が自覚出来ていたのに、今はそれを何度繰り返しても心が満たされない。
(菜々はとんでもねぇ物(もん)俺に教えたもんだ……)
誰か一人がいればそれだけで十分だなんて、不便でしょうがない。しかもその一人は俺に見向きもしないのに。
彼女が離れていった事で、俺も俺で、拒まれるのが怖くて菜々に近付く事が出来ないでいた。
そうやって俺達は離れた。
元々友達のいない菜々だ。俺が話しかけなければ自然に離れていく。
それに追い打ちをかけるように、席替えにより、体自体も離れてしまった。
菜々の保健室に行く量が増えたのには気付いていた。でも先生の言う通り、あれ以来教室で倒れる事はなかった。
クラスに打ち解けて友達が増えていく俺とは対称的に、彼女は独りに戻っていった。
「ついに、彼にとって私は必要のない存在になってしまったみたいです」
お昼休み。あまり動いていないために食欲の湧かない私は、お弁当の包みを開けただけで蓋は開けず、それを膝の上に乗せたままそう呟(つぶや)いた。
保健室には佐和ちゃんしかいない。私はその佐和ちゃんのいる机の横に椅子を持っていき、そこに座っている。
この高校の学生は割と真面目で、授業をサボりにベッドを使いに来る人はいないので、割と頻繁に彼の相談を先生にする事が出来ていた。
「礼央、友達も沢山出来たみたいです」
「……」
「彼女もいっぱいいるって噂も聞きました」
「……」
「昨日の夕方、とある女の子と歩いてるのを見ました。そして今日の朝、また別の……女の子と登校しているのも……見ました」
「……」
「どうやら噂は本当みたいです」
わざわざ噂が事実かどうかを確認したわけじゃない。でも、礼央の女の子達に向ける表情が、私に向けるものと全く違うのは正直ショックだった。
私には笑顔を向けてくれないのに、私以外の女の子達には平然と私が見たいその表情を見せる。
先生は私の方を見て、黙って話を聞いてくれている。私は、そんな先生を見る事が出来ずに、手元のお弁当を見つめていた。
「まぁもともと彼は私の事何とも思ってなかったようなので、今更……何とも思いませんけど……」
「……」
「だから別に彼が誰と友達になろう……と……私と全くタイプの違う女の……女の人の隣に……」
堪える事の出来ない涙がどんどん溢れてくる。それに気付いた先生は、慌てて立ち上がった。
「礼央に……私は要(い)らない……」
段々と呼吸が苦しく、目の前が真っ白になっていく。
「ほら、落ち着いて。また過呼吸になり始めてるよ? 授業出れなくなっちゃうよ?」
「礼央の事好きになってもならなくても……礼央は私から離れて…………せんせ……どうしたら……礼央は私の……」
ガシャン
体に力を入れる事すら出来なくなって、私は椅子から落ちた。その衝撃で椅子が倒れ、お弁当も落ちた。
私の体だけは先生がしっかりと支えてくれた。
「だ、大丈夫だから。ひとまず呼吸を整える事に集中して」
今まで見せた事の無い私の涙に、流石(さすが)の先生も動揺を隠せないようだった。
「怖いよ……礼央が離れていくの…………怖い……ヤダ」
先生の声も徐々に遠くなっていく。そしてそのまま、私は意識を手放した。
「一年二組、城東礼央。一年二組、城東礼央。今すぐ保健室へ来なさい」
昼休みを半分程過ぎた時、佐和子先生の声で校内放送があった。
声のトーンと“来なさい”という命令口調である事から、先生の機嫌が良くない事は容易に想像出来た。
「俺ちょっと行ってくるわ」
「おう! しっかり怒られろ!」
一緒にご飯を食べていたクラスの男子やら女子に見送られながら、俺は教室を出た。
いつもと変わらない足取りで保健室に向かう……ように心がける。何を言われるかなんて分かっていた。だから自然と心拍数も上がり足も重たくなるわけで……
「佐和子先生?」
俺は何食わぬ顔で保健室のドアを開ける。先生は、菜々がいつも使っているベッドの横にある、俺が以前運んだ椅子に足を組んで座っていた。
「……城東、あんた一体何をしてんの?」
先生の声がいつもより低い……
「先生に呼ばれたからここに来ました」
先生は深くため息をつく。“私が言いたいのはそういう事じゃないでしょ?”って、意味のため息だって事は俺にだって分かる。
「今日彼女が初めて私に涙を見せたわ。悩んでの生理的な涙ではなくて、明らかに泣いてた」
「……」
「しかも、初めて心からの弱音を吐いて……」
つい先生から目をそらす。
「柳瀬の事を支える存在としてあなたを選んだのに、あなたが柳瀬の精神をボロボロにしちゃダメじゃない……」
「先生が勝手に俺を選んだだけでしょ? 俺に責任押し付けないでよ……先生の人選ミスだよ」
「城東!」
先生が怒鳴るのを初めて聞いた。もちろん驚いたが、俺はそれを表に出さなかった。
「彼女は俺が嫌いなんですよ? その証拠に俺が彼女に会ってから彼女の保健室に通う頻度が増えたみたいじゃないですか」
先生は俺に近付いてきた。
「……だから俺は柳瀬さん(・・・・)の事を考えて離れ……」
パンッ
俺の左頬が高い音を立てた。さすがにこれには驚きの表情を隠せなかった。思わず先生の顔を見る。
「イライラするわ。あなたを見てると。私最初に、柳瀬は人付き合いの経験が極端に少ないから、分かりやすい態度とりなさいって言ったわよね? それなのに城東は……確かに私から見たら分かりやすい行動よ。好きな子が自分を好きになってくれないからって、モテないわけじゃないって、自分のプライドを守るために、心を満たすために他の女で遊んで……」
俺はまたしても先生から目をそらした。
「何でこんな男を柳瀬は好きになったのかねぇ」
…………は?
「菜々が俺の事……好き?」
俺に続いて、先生まで“?”を頭に浮かべる。
「……まさか本当に気付いてなかったの?」
「え、いや、だって菜々は……」
「好きよ。あんたの事。あんなに分かりやすかったのに、本当に分からなかったの?」
俺は必死に頭を回転させる。
(だって彼女はあんなに俺を避けて……冷たい態度で……)
「ん……」
丁度その時、菜々が目を開け上半身を起こした。カーテンを開けたままの菜々のベッドは、、俺からもよく見えた。
「あれ? 先生誰か来て……」
その言葉の最中に菜々は俺に気付いたらしく、一気に目を見開いた。
「れ……お」
「なぁ、俺の事好きってホント?」
俺は直球で聞いた。
その言葉に体をビクッと震わせた後、何かに気付いたようにベッドから飛び出して、菜々は、フラフラな足取りで俺の元へと駆け寄ってきた。
「や、ヤダ! は、離れないで! 好きにならないから、だから離れていかないで! 礼央! ごめんなさい……好きだけど、好きになったらダメだから、でも好きで……だから離れていかないで!」
今まで見た事無いくらいに、涙をボロボロ溢(こぼ)しながら取り乱している。
しかもそのまま彼女は俺の足元に崩れ落ちた。
「お、おい!」
「はぁ、はぁ……」
もはや喋る事も出来ないくらいに呼吸に必死な菜々。そんな菜々を見て、俺も動揺を隠せなかった。
「城東! この前見せたみたいにあんたがやりなさい。彼女の心の苦しみを、城東が一番近くで感じなきゃ!」
先生が差し出してきたコンビニ袋を受け取り、俺は深呼吸をした。そして、彼女の体勢を整え、先生が以前したようにそれを彼女の口に当てた。
目も開けずにただ早めの呼吸を繰り返す彼女を見ているだけで、自然に目頭が熱くなった。
「ゴメン、菜々……俺もう離れないから……ちゃんと、ずっと傍で支えるから……」
俺のその言葉の後で、苦しそうな彼女の表情に一瞬だけ笑みが見えた気がした。俺はそれが嬉しくて、涙をこぼした。