undercurrent

 「他人に興味がない」と口にするのはたやすい。思春期を迎えた少年少女で
あれば一度はそんな言葉をつぶやくだろうし、あるいは「大人は判ってくれない」と
嘯くこともあるだろう。裏を返せばそれはじぶんを理解してほしいという願いで、
耐え難い苦痛から立ちのぼる祈りにも似た思いである。それでもなんとか日々を
やり過ごし、やがて大人になった子供たちは愛するわが子にこう言われるのだ。

「大人は判ってくれない」と。

 ぼくたちは途方もない隔たりによってじぶん自身を知る存在である。
そしてこの世界に存在するいかなる愛によっても、「区別における同一性」を
打ち破ることはできない。もとよりわかりあえないからこそひとは愛を信じる
のである。誰かを知ろうとするからこそひとを想うのである。目の前の相手を
慈しみ思いやって、ふたたび訪れることのない瞬間を確かめてゆくほかにない。
愛は惜しみなく去ってゆく。愛は至る所にあり、どこにもいないから尊いのだ。

 豊田徹也は独自のパースを持っている。ある時期「映画のような」という形容に
甘んじたように、彼の瞳は寡作を待ちわびる読者によってなにか特別な意味を
期待されているらしい。しいて言えば方法としての沈黙を描き分ける作家であり、
登場する人物はひとりでいることの所在なさを静けさの内に秘めている。一方で、
他者との関係のなかに立ち現れる「人間」にはより大きな体積を与えており、
その静と動の対比はマッス(質量)としてわれわれの目撃するところとなる。

 それだけでは豊田はごくありふれた作家のひとりに過ぎない。事実、物語には
なんら特別な舞台設定もなければ意味づけもない。布置された人物の一人ひとりが
あらゆる可能な歴史を有していながら、決してわれわれへと肉薄しないことからも
わかるように、彼の語り部としての手わざには特筆すべき衒いや新しさも見えない。
だが、あらゆる非日常が基底となる日常の領域によって支配されるように、
豊田の作家性はこの微温的な「地」に立ち現れており、その「図」と組み合わせる
ことではじめて「閉じつつ開かれた系」という内的音楽を映像へと変換させるのだ。

 愛することとは、愛するものとの耐え難い隔たりを受け容れることにほかならない。
ぼくたちは誰かのことを判りたいから惹かれ合い、判らないから斥け合う。
かくして愛とはその引力と斥力とが、幽かな信頼とあえかな想いで危うい均衡を
保つさまを言う。愛とは、けっして立ち止まらないことをあらわしているのだ。

 あたりまえに続くと思った日々と、なんとなく信じていた関係のゆらぎ。
豊田はこの作品に「アンダーカレント(under current)」という名をあたえた。

※ under current

  1. 下層の水流、底流

  2. (表面の思想や感情と矛盾した)暗流
never let me go


 いつか、苦しみのない世界が訪れるとして。われらのささやかな倫理はこの果てしない断絶を引き受け、みずからを赦し、それでもなお、とこしえの生をねがうことができるのだろうか。

 厳格な規則の下に生きる寄宿舎のこどもたち。それぞれの将来を語りはじめる頃、明かされた冷たい秘密。運命を受け入れながらもささやかな日々を送る若者たちが信じた他愛もない噂のなかには、「愛を証明できれば、運命を猶予できる」という“希望”があった。

 カズオ・イシグロの抑制的な語り口をみごとな映像に宿したのは、「ストーカー」のマーク・ロマネク監督だ。映像化にあたっては、イシグロの盟友でもある小説家のアレックス・ガーランドが脚本を担当することで原作とは僅かにことなる結末へと導いている。

 キャシー・H(キャリー・マリガン)とトミー(アンドリュー・ガーフィールド)、ルース(キーラ・ナイトレイ)は幼なじみの絆を保ちながらも、ささやかな綻びを内包している。この綻びこそ魂の証明であるのだが、この“証明”は物語終盤の核をなしてゆく。

 特筆すべきは寄宿舎の神聖なる隔絶と、そこを離れた若者たちの暮らしだろう。ことに教師エミリー(シャーロット・ランプリング)が見せる冷たい眼差しには「秘密」を巡る倫理的な葛藤を孕ませ、郊外のダイナーで注文に戸惑う光景には、外界から閉ざされて生きる者たちのおかしみと悲しみとを両立させている。

 「人間とはなにか?」イシグロは来日後のインタビューで問うた。複製された身体に精神は宿るのか。合目的な理由で存在する生命に生きてゆく意味はあるか。さまざまな問いへの肉薄を実現したのはキャシー自身も“運命”の持ち主として描いた映画版の独善である。原作をのりこえ、さらに一歩踏み込むラストの独白に刮目したい。

 生命はあらゆる可能な歴史を持つ。だが、ここに描かれた魂に約束の場所はなく、択びとる未来さえ許されてはいない。かぎられたいのちの灯火を燃やすとき、最期に、その瞳はなにを映したのか。



『わたしを離さないで』 (2010 イギリス)

監督 マーク・ロマネク

出演 キャリー・マリガン キーラ・ナイトレイ

   アンドリュー・ガーフィールド ほか
オレンジの選びかた-空気人形






 ひとはなぜ生きるのか。この問いには、ある転倒が加えられている。
街の灯りに照らされて、長くのびた影法師がふたつ。もの静かな青年、
ジュンイチの影はそこにあるのに、ノゾミの影は透きとおってしまう。

 生きることがじぶんを象る人間と、何かのために生みだされた人形の、
生命と非生命のあいだ、はからずもさしのばされたふたりの距離感は
おごそかにも残酷な解をほのめかし、その一方で観るものを突き放す。

業田良家による原作「空気人形」に着想を得た是枝は、カメラマンに
夏至」「花様年華」などで知られる名伯楽、リー・ピンビンを起用した。
ふいに心を宿し、この世界に生まれ出ずるラブ・ドールに扮したのは
リンダリンダリンダ」で日本にも知られる韓国人女優ペ・ドゥナだ。

異邦人のまなざしと、無垢な人形の捉えた日常はあたかも異界のようで、
見なれたはずの街並みを掘り起こし、あたらしく取り出してみせた。

 たがいの空虚が響きあう現代に、ありふれた宿痾とも呼ぶべき孤独を
いまいちど手に取り、たしかめようとするのではなく、そっと見つめる。
是枝が得手としている奇蹟の不在はこの物語においても引き継がれており、
人形の主人でもある中年男性には願望のないまぜになった独白を、かつて
代用教員をしていた老人には、語り部として吉野弘の詩を託した。

「生命はそのなかに欠如を抱き、それを他者から充たしてもらうのだ」

その欠如と充足とは、うばい合い、あたえ合う、生の秘蹟にほかならない。

 孤独は、ときに甘美な嘘をつく。つながりという口吻は人々を魅了し、
卑小な連帯への囲い込みをやめようとしない。ひとはもとより平等でも
絶対でもなく、誰しもが個別の時とばあいを生きている。だが、それが
不実な慰みと知っていても、ひとは誰かを愛さずにいられない。

 無垢なる魂の物語は、その極点を官能のなかに迎えた。腕に傷を負い、
流れ出たものは血ではなく、空気だ。からっぽな人形は愛するものの呼吸に
充たされてはじめて肉を手に入れ、愛するものを充たそうとして肉を喪う。
そのやりとりは哀しくも、滑稽だ。

 ありうべきおとぎ話を引き受けて、我々は現実へと立ち戻らねばならない。
空白を乗りこえるものは空白であり、美しいことばの孕むまぼろしではない。
人形のため息が風をわたるとき、われらもひとつ、呼吸をかぞえる。






オレンジの選びかた


 おそらく、安藤裕子のくぐった門はそう狭いものではなかった。

 俳優としてデビューを飾るもののお世辞にも役柄には恵まれず、
戯れに披露した歌唱が注目を集めた後に歌手として脚光を浴びる。
誰しもに開かれた道が狭隘な出口しか持たない例に照らす限り、
その蹉跌は必ずしも大きいと言えない。だが、この不毛の季節が
彼女の内的音楽をあたため、開花させた事実に疑いの余地はない。

 「隣人に光が差すとき」は2004年に発表された1stアルバム

『Middle Tempo Magic』の第11曲目に収録されている。

 そして、
この布置には確かな理由がある。最終曲「聖者の行進」は
文字通り
足音に見立てることで、それまでの音に鮮やかな決別を
告げている。言うなれば、この動的な瞬間に先立つ最後の静けさこそ
「隣人」に課せられた使命であり、曲そのものの呼吸する気配と呼べるだろう。


 アルバム発表の前年、堤幸彦『2LDK』のエンディングテーマとして
この曲が抜擢されたとき、安藤は既に26歳の秋を迎えている。


やわすぎた私は人混みのなか埋もれ 光の差すあなたを見てた

 輝けるあなたの斜め後ろを辿り こぼれる光に手をのばす



 友人たちが脚光を浴び、やがて人気の凋落とともに消え行く姿を卑屈や
憐れみに堕すことなく、ただ見届けるかのように歌い上げた。
自らの行く末を見つめること、その内圧を詩の温度へ逃したことで、
抑制された叫びとしての歌声も、ようやく音楽的な調和に導かれる。

 長い韜晦の日々と、その後に訪れたつかの間の安息を慈しむように、
彼女は全体重をあずけながら、この上ない叙情を歌へと託してゆく。
そこに特別な唱法や技巧はない。ただ、生にのみ宿る情意がある。

 安藤がようやくその名を知られるきっかけとなった曲の登場には、
さらに三年の歳月を待たねばならない。彼女にとって最大の到達は、
祖父母の愛を描いた「のうぜんかつら」によってもたらされた。