ばあば達の安否が 相変わらず わかんないんです。
電話連絡が全滅だったら、ネットでもテレビでもいいから
避難者の名前をあげてほしいです。
ふるさとの岩手は、友達や親戚が いっぱい住んでいて
花巻や石鳥谷や遠野や釜石や久慈や宮古、
あちこちにいる。
夏休みには、海岸まで遊びに行って、昆布だらけになりながら海水浴を楽しんだ。
きのう、やっとメールが繋がった久慈の友達が、「あたしゃ元気だ。元気だから 養護学校に泊まり込み(ボランティア)だ.。」
と。
石鳥谷の友達は、「店開いてないから、冷凍食品で食いつないでらよ。ウチ、子ども達の避難所になってるから子ども達だらけで 楽しそうなんだよな~。」
と、電話で話した。
がんばってんだ、 と涙が出た。
そしてさっき、うちに電話がきた。花巻の親戚から。
「あーー!繋がった!○○ちゃん!アンタたち大丈夫か~~!?
東京も おっかねがったべ?気をつけるんだよ~!」 と笑っていた。
そして、「○○ちゃん、宮城のほうから連絡ないか?」 と。
「アンタだったら、カッチャ(ばあば)と連絡とれてるかと思って…。」
「ないの、全然 連絡とれないの。 でもアタシ、今おばちゃんと話できてるんだね。よかった。」
また涙が出ちゃう。悲しくて仕方ないのに、おばちゃん達が無事だったので、 少し 光が見えた。
「自家発電でね、なんでも少しずつね。 寒くって ひもじいけど、大丈夫だよ。みんな生きてらよ。」
と、笑いながら泣いていた。
「しかし、カッチャは何やってらんだ!娘に電話もよこさねえで!」
と怒ってくれた。 アタシはずっと 嗚咽しか 出来なかった。
アタシはこんなにもグズグズで、
でも叔母たちは、久慈や石鳥谷の友達は、笑いながら 必死で生きている。
生きててくれて、次の光をくれて、心から感謝した。
こないだ 3月9日あたりに 強い地震があった時、ばあばに 電話した。
ばあばは「大丈夫、大丈夫、まさかここまで津波なんか、来ねえよお。」
なんて言って、ふたりで笑い合ったばかりだった。
今、ばあばは、正確に言うと、多賀城というところに 姉達と住んでいます。
松島や、塩竈や七ヶ浜町の近くなのですが、
アタシも 「まさか津波はここまでは来ないだろう」、って 浅はかに 言ってしまった。
今は後悔と 不安の涙で いっぱいだけれど、
きっと 仙台の妹達やばあば、おねえちゃん達からひょっこり連絡が来るでしょう。
安堵の涙に変わる時が来ると
気を 強く持つことにします。
節電もしなきゃだった。 では!