全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/


僕は日本を愛しています。

そして、日本と世界の平和を願っています。

僕は、究極的に世界が平和になることを、日々願い、考え、祈っているのです。


それは世界がいつの日か、日本をお手本にすることで実現する。

その思いは、日本の歴史を探求するにつれ、日に日に募るばかりです。


そのために、日本は目覚めなくてはなりません。

当然、日本に生まれ、日本に生きる我々日本人が目覚めなければならないのです。

そのために僕は、微力ながら、日々日記を綴っています。


微力だけども、無力ではない・・・と信じて。


現代の日本の歴史教育では、過去の日本は侵略国家だったというのが、どうやら主流の考えのようです。

しかし日本の戦いの基本原理を考えた場合、どうしても納得のいかない部分がございます。


大国とばかり戦ったということを、僕は主流の考えにおいておりますが、それだけではありません。

日本の軍隊の成り立ちそのもの、日本軍の基本的精神そのものが、侵略とはそぐわないからです。


歴代の日本の戦い方を見れば、その基本的精神は、武士道であったと言えると思います。


武士道とは何か。

それは、死に場所を探して生きる精神だと解釈しております。


より良く死ぬ。

つまり、より付加価値がある死に方を、目指す生き方こそ武士道ではないでしょうか?

より良く死ぬとは、そして付加価値の高い生き方とは、それは、名誉を重んじる精神と言えます。


武士道では、その名誉ある生き方が認められて、それが報酬となったならば良し・・・ですが、最初から報酬を重んじて生きることは恥とされるのです。


日清~日米まで、その精神は一貫していたと思います。

僕は決して、戦争を賛美するつもりはありません。

戦争をなくすには、日本精神の世界への普及が第一義であると信じているのです。

それは、日本人の精神の根底には、平和の想念があるからです。


新撰組では、格闘でなくなった隊士より、会内の規律に則った、自決による死者の方がはるかに多かったらしいです。

それは恐らく、新撰組の隊士たちの多くが、武士階級出身者ではなかったからだと言われています。


新撰組の隊士は、武士出身者ではなかったので、武士への憧れが強かったので、武士道が純粋化して現れたのでしょう。

武士階級であれば、なあなあで済ませるような案件でも、武士への憧れの強い新撰組隊士は、武士らしさを求めたのでありましょう。


それ以前の平安末期、本流貴族ではなかった平氏が、必死で貴族になろうとして、最も貴族らしいのは平氏・・・と言われるまでになったように。


明治になり、武士階級はなくなりました。

軍の近代化を推し量るためです。

そして、近代日本軍は、士官学校を出た軍人たちで構成されました。

彼らもやはり、明治以前は武士ではなかった者が多かったのです。


戦国時代ならいざ知らず、徳川幕府の長き太平の世で、武士の精神は机上の論となりました。

そしてなおかつ、武士階級ではない者たちによる、近代軍ができました。


日本軍の武士への憧れは強く、日本軍の基礎的な精神は武士道になったのです。

純粋な武士道の精神で、侵略という国家による略奪強盗に、死ぬ価値は見出せないのです。


兵法ではなく、武士道が基礎的精神の日本軍は、相手をした他国の兵士たちを、とても恐れさせただろうと思います。

なぜならば、その時代の他国の兵士たちは、よりよく生きるために戦っていたからです。


他国の富を奪い、他国の人民を奴隷として使って、自分たちが、それまでよりも良い暮らしをするために戦うのは、その時代では当たり前でした。


ですから、屍累々となりながら、203高地を駆け上がってくる日本兵を、山上の砦から鉄砲で撃ち続けるロシア兵は、信じられない光景に目を疑ったに違いありません。


世界の主流、より良く生きるために戦う者たちと、日本の、より良く死ぬために戦う者たちとの戦いの構図が、日本の戦争の歴史です。

ですから日本は戦いで、たくさんの兵士を失う戦法を取りがちです。

それがともすれば、「日本は人命を軽視する。」と非難されがちであるとも思います。


しかし兵士一人一人が持つ純粋な武士道精神は、その後現実に戦った、国々すべてが親日国となるという結果となって現れています。


よりよく生きるために、他の者を犠牲にして戦う他国の常識は、よりよく死ぬために戦う武士道によって、その醜さをあらわにしたのです。


現代日本人は、日本の歴史を受け入れるべきです。

受け入れなければ、きちんとした見識などもてません。


人生の今の状況は、過去の見識や思いや判断、そして決断の積み重ねによって成っているのです。

これは、仏教の基本原理です。


個人もそうですが、国家もそうなのです。

国家国民の見識、思い、判断、そして決断の積み重ねが、今の日本を作り出し、世界を作り出しているのです。

そのために、歴史を学ぶのですよ。


そして大事なことは、未来は、今の見識と思いと判断と決断によって変わるということです。

未来は変えられるのです。


過去も未来も変えられないとおっしゃる方は、仏陀釈尊以上の見識をお持ちであることを証明してください。

未来は変えられるのです。


そのためには、過去の現実を受け入れることです。

その中での教訓を見出すことです。


その上で、見識を磨き、思いを抽出し、判断を高め、決断するべきです。


日本の皆様、もう自虐史観など払拭してください。

それはただ、過去を見ないようにしているだけです。


それでは、未来は開けません。

過去に目をつぶったままで、輝ける未来も、平和な社会の実現もないのです。


それでは、またのお越しを。