私は以前、自分が何だか、何がしたいのか、どうしたいのかがわからなくなってしまったときがある

あらゆる問いかけに、自分の中からの応答がないのだ
いまだって全部わかったわけじゃないけど
この時の自分が、一番わからない
一方では、誰に何を言われても諭されても、正直素直に納得もできなかった
今思うと、揺るぎない自分がど真ん中にすでに存在していた証拠だった
連呼して申し訳ないが
『自分がわからない』
こんな不安で、一大事なことはない
それは、時代的な背景や親や周りの常識に自分が絡めとられてきたのだと思う
それはチェーンとなり、良くも悪くもスポイルされていた可能性があったのだろう
これは誰も悪くないんだけれど
だけど、現象はどうであれ、そんな状態をいつまでもわたしの魂が黙っているはずがない
きっと何代にも渡って繰り返してきたこと
バランスを欠いているところにフォーカスされてゆく
だから子供や親、社会の人間関係を通して、起きてくることはいつだって問題を投げ掛け、魂が何かを呼び掛けてくる
これまでの人生で、私が出会ったことのない困った出来事が起きたときには成長のチャンス!
『知らない』
(´・ω・`)?
と言う苦悩から
早く逃れようとジタバタしたんです
早く結果や答えを知ろうと
何とかしなくっちゃ


とばかりに現実をこの手で動かそうと動揺して、そっこらじゅう動き回る日々
釣りで言ったら『かなり餌を変える短気な釣り名人だったりするのかもしれないが

それでは咲く時期を待つようなお花は育てられないだろう

土を耕し、種を巻いたら、水をあげる、土の中で何日も寝て芽が出て、お花が咲くまで待てないってことだから
小さな芽を無理矢理に引っ張ったりするわけにはいかないし
パッと花を咲かすはなさかじいさんじゃないし
自分のことも相手のことも、答えを出すまでの時期を待てないってことだから、自然の法則を無視してるってことすら知らなかった
出会いとか色んな経験を通して刺激を受けてゆきながら、心や体が動いて、自分を感じて知って、選んでゆけばいいものだと思った
問題を明るく照らす光を、私自身が血眼になって、昼と夜と寝る間も削って外に探し回ったのだ
しかし、これが以外とイイ面もある

情報の収穫利益よりも、この見えない必死さが、自分の体力回復には心地よい

学校みたいに寄り道や回り道をする余裕もなく、高速エスカレーターに乗って、本人ひとりひとりの成熟度、適正、必要不必要は構わずに、膨大な知識を詰め込まれるんじゃないわけで
若いうちにシナプス伸ばすためにも、知識をたくさん入れることが良いとの効果もあるんだそうですが…
『私は学びたい!』そうやって自分の内側からくる必要を感じているから、どんどん力も湧いてくる
お金よりも、その『これをやりたい!』と、ふつふつと湧いてくる、みえない力が宝だと私は思っている
地震が来てまた機械が全部止まったら、ちゃんと受けとれるか保証があるのかわからなかった、命だって授けられている身だって地震の後にはそう感じた
あのときこれをやらせてあげたら良かったとか、やっとけばよかったとか、そんな後悔とかもしたくないなって大地震のあとの悲惨さから、思うようになった
無駄使いって訳ではない、大切にするんだけど、なくなりはしないかと、心配と執着を乗せていたら、あまり健康にはよくない気がして…
どんな思いをお金に乗せて持って、交換するのかを大切にしたいって思うだけ
だから、内側からきた力で、これをやりたいって子どもが言ったら、できるだけその尊い気持ちにブラボー

例えそれが親の価値とは違っていることであっても、くだらなくても、子供のうちはできる範囲でやりたいことやればいいと思う
自分をたくさん映すために自分以外の異なるものがたくさん必要なのだ
こころの自由が必要だ
自分が価値を感じたらどんなに遠くも行けた、いかなる人物にも会えてしまった
行きたいところにいった
そのうち、孤独と自由を同時に感じ始めると、自分がつけた見えない傷も回復し成長しはじめる
『知りたい



から、いつしか
『自分の人生を見据えるようになり、外側の何かを変えたいってことよりも、自分自身が変わりたい

『他人は変えれない』
『自分しか変われないんだ

に意識がかわってきた
すこし成長したのかも

せっかちな私は、思うようにいかないと、待ってられなくて、わからない状況に耐えられなくて、エゴまるだしに何かにのめり込んだりもした
またはストレスから病気に依存し初めてしまう危機にも何回もぶち当たった
コントロール不可能な状況の中で、動きを待つのって相当難しい
うまく動けない、努力したってダメなものはダメ、挫折を味わう
変えられない状況と自分自身をジリジリ責め立てる毎日
必要以上に自分への精神的な暴力となる
自分をいじめて劣等感を与えているに他ならない、惨めで嫌なものだった
『スピリットに委ねる、見守るなんて忍耐は煮え湯を飲まされてる苦しみだった』
ありえない!と思った
本当に一生懸命だった
今までの常識や当たり前の解決策はまったく通用しない絶望とも思えたふちに投げ出されるからだ
もう、私の周りはどこにも通れる道がない
だから、わたしは旅へと出たようなものなのだ
新しい知識と答えを求めて
そしていつしか外側に起きる問題とともに、だんだん自分の中にある、問題だと感じる自分の心にもリンクしていることに気がついていった
すると、だんだん愛に気がついていった
問題は呼び掛けるって意味の本があったなあ
そう
全部自分の精神的な自立のために起きていた
グリーフワークだったのだ
だから、怖がらなくてよかったけど怖いんだから仕方がない
答えは誰も教えてくれない
自分の中に持っている光を、自分の中の闇に当ててゆくことで、自分を癒す
闇も、それを照らす光も、自分のなかにあった
お花を開花させるために必要な太陽は、自分の中にあった
自分のことは自分にしかわからない
相手のことは相手にしかわからない
だから思いやりと寛容さが必要になってくるんだね
だけど、どんなに社会や集団に所属していたとしても、自分を幸せにするときはやっぱり自分の力が試される
自分のこころの幸せは、他人にもらうものでもないし、期待するものでもなかった
私の苦しみに向きあう時はたった一人で向かうしかない
責任の所在を知り、自分が先ず幸せを感じるんだって思って日々コツコツと活動している次第です
それは私が、おぎゃー


と言うスペクタルでオリジナルな人生の主人公だったのですね

(*⌒▽⌒*)
感謝
